磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1… 磯部 浅一(いそべ あさいち、1905年(明治38年)4月1日 - 1937年(昭和12年)8月19日)は、日本の陸軍軍人、皇道派青年将校。 陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)を経て陸軍歩兵将校となるが、中尉の時に経理部に転科した。陸軍一等主計の時に、陸軍士官学校事件により停職、「粛軍に関する意見書」配布により免官となった。二・二六事件において決起将校らと行動を共にし、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。 1905年(明治38年)4月1日、山口県大津郡菱海村(現長門市)河原に農業兼左官磯部仁三郎の三男として生まれる。 高等小学校、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校(38期)を卒業する。
藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年… 藤津 準一(ふじつ じゅんいち、1869年4月7日(明治2年2月26日) - 1919年(大正8年)1月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は従四位勲三等功四級。 長門国大津郡、後の菱海村(現長門市)で山口県士族・藤津正憲の長男として生まれ、1870年(明治3年)5月に家督を相続する。 1891年(明治24年)陸軍士官学校第2期卒業。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する。1897年(明治30年)陸軍大学校に入校し、1900年(明治33年)同校を第14期で卒業する。 近衛野砲兵連隊大隊長、下関要塞参謀を経て、1911年(明治44年)11月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第4連隊長に任官。
大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6… 大庭 二郎(おおば じろう、1864年7月26日〈元治元年6月23日〉- 1935年〈昭和10年〉2月11日)は、明治から大正期の陸軍軍人。陸士旧8期、陸大8期(優等)。栄典は従二位勲一等功二級。最終階級は陸軍大将。 現在の山口県青海島にて、長州藩士・大庭此面の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。1892年(明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した。以後、参謀本部出仕、兵站総監部副官、参謀本部第1局員を経て、1895年(明治28年)から1900年(明治33年)までドイツに留学し、その後、陸大教官、参謀本部員兼山縣有朋元帥副官、大本営参謀などを歴任した。
佐久間 左馬太(さくま さまた、1844年11月19日〈天保… 佐久間 左馬太(さくま さまた、1844年11月19日〈天保15年10月10日〉- 1915年〈大正4年〉8月5日)は、明治期の日本の陸軍軍人。栄典は正二位勲一等伯爵。台湾総督・東京衛戍総督・近衛師団長等を歴任し、最終階級は陸軍大将に昇る。台湾・花蓮の佐久間神社(現在は廃社)の祭神。 長州藩士・岡村孫七の次男として生まれ、佐久間竹之丞の養子となる。奇兵隊に入隊し、大村益次郎の元で西洋兵学を学ぶ。 1866年(慶応2年)、第二次長州征伐の時には長州藩諸隊の亀山隊大隊長として芸州口に従軍した。戊辰戦争では棚倉、二本松、会津を転戦。維新後陸軍軍人となり、1872年(明治5年)には陸軍大尉・西海鎮台付に任命される。
悪 奨(わる すすむ、生没年不詳)は、明治初期の陸軍軍人。長… 悪 奨(わる すすむ、生没年不詳)は、明治初期の陸軍軍人。長門国大津郡田屋原村の士族の出身で、西南戦争に従軍したが、のちに軍紀違反により免官処分を受けた。 長門国大津郡田屋原村(現山口県長門市東深川下郷)の士族・悪政雄の長男として生まれる。明治期に陸軍へ入り、歩兵少尉試補として任官した。 明治10年(1877年)の西南戦争では、遊撃歩兵第七大隊のうち第四中隊に配属され、石丸雄介中尉の指揮下で士官心得として従軍した。 戦後も軍務に服していたが、明治12年(1879年)12月、歩兵第5連隊付を命じられたにもかかわらず任地に赴かず、数か月にわたり無断で東京に滞在した。この行為が問題視され、陸軍裁判所に拘引される。