重野 安正(しげの やすまさ、1941年12月1日 - 20… 重野 安正(しげの やすまさ、1941年12月1日 - 2021年4月9日)は、日本の政治家。従四位。衆議院議員(3期)、大分県議会議員(7期)、社会民主党幹事長(第6代)、同国会対策委員長(第6代)を歴任。 1962年、農業改良普及員として大分県庁に入庁。その後、労働組合活動に没頭するようになり政治に目覚めた。自治労大分県職員連合労働組合の加盟労組である大分県職員労働組合(大分県職労)から大分県議会議員に転身。2000年、大分2区から衆議院議員に立候補し比例復活で初当選。 国政では、社会民主党の国会対策委員長を経て幹事長に就任した。民社国連立政権下でも引き続き幹事長を務め、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当)として入閣した党首の福島瑞穂に代わり党務全般を指揮した。
後藤 國利(ごとう くにとし、1940年(昭和15年)1月6… 後藤 國利(ごとう くにとし、1940年(昭和15年)1月6日 - )は、日本の実業家、政治家、林業家。うすき製薬株式会社代表取締役社長、臼杵市長、大分県議会議長、株式会社コアラ会長を歴任した。豊の国木造建築賞優秀賞入賞。 大分県臼杵市出身。地元の製薬会社うすき製薬の創業家の医師の子として生まれる。1964年に一橋大学社会学部を卒業し、三菱重工業神戸造船所で勤務した後、家業再建のため1966年からうすき製薬の代表取締役社長を務めた。 セメント工場建設反対の住民運動に関わったのをきっかけに、1975年から大分県議会議員を5期20年にわたって務め、1989年から約1年間は自由民主党大分県連の幹事長、1990年には県議会議長を務めた。
長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8… 長野 綱良(ながの つなよし、1879年(明治12年)1月8日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡戸上村長。 大分県大野郡、のちの戸上村(犬飼町、野津町戸上を経て現臼杵市)で、長野音五郎の長男として生まれる。野津高等小学校、臼杵の久保塾で学んだ。農業を営む。 戸上村会議員、同村長を務める。1915年(大正4年)大分県会議員に選出され、政治活動を本格的に開始。憲政会大分県支部常任理事、同幹事長を務め、同党の解散後、立憲民政党に加わり同党大分県支部幹事長となる。 1930年(昭和5年)2月、第17回衆議院議員総選挙(大分県第1区、立憲民政党公認)で初当選。
大塚 幸兵衛(幸兵衞、おおつか こうべえ、1857年(安政4… 大塚 幸兵衛(幸兵衞、おおつか こうべえ、1857年(安政4年 7月)- 1910年(明治43年)1月12日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 豊後国海部郡、のちの大分県北海部郡臼杵町平清水(現臼杵市福良平清水)で商家に生まれた。漢学、数学を修めた。家業を継承し、商才に恵まれ、たばこ製造、米相場で多額の財産を得た。 大分郡会議員、臼杵町会議員、大分県勧業諮問会委員などを務めた。1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙(大分県第2区、山下倶楽部)で豊州会から選挙活動を行う予定であったが、改進派との話し合いで活動を停止したが、改進派の違約により投票日前日一日だけの選挙活動で当選し、「大塚の一日選挙」と称された。
山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3… 山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3月3日〉- 1947年〈昭和22年〉11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。