稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 19… 稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 1940年5月23日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史・中国史。旧姓は小林。号は「君山」。 1876年(明治9年)、現在の新潟県村上市で生まれた。1900年、高等商業学校附属外国語学校中国語部を卒業後、中華民国の北京に留学。1904年に勃発した日露戦争の際には、陸軍の通訳として従軍し、その後大阪商船に一時期勤務した。 1909年に満鉄調査部に入り、「満州朝鮮歴史地理調査」に携わった。1915年、陸軍大学校の教官に着任し、主に中国情勢についての講義を担当。 1922年、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員兼幹事に任じられ、1925年からは修史官として歴史書『朝鮮史』の編集にあたった。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10… 右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10月22日〉 - 1898年〈明治31年〉8月5日)は、日本の医師、日本で最初の女性眼科医。別名は右田朝子。30歳に満たない年齢で早世したため、医師としての活動期間は短いが、平成期に記念碑が発見され、その存在が明らかとなって以降、「日本初の女性眼科医」として顕彰の気運が高まっている。 浜田県美濃郡益田村(後の島根県益田市)の寺井家で誕生した。7歳のとき、益田村の名家である右田家の養女となった。当時より、一度決断したことをやり抜く意志の持ち主であった。且つ聡明で、小学校では上等組の男子よりも良い成績を収めた。卒業後も私塾に通い、男子に混ざって勉学に励んだ。
脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(18… 脇水 鉄五郎(わきみず てつごろう、慶応3年11月9日(1867年12月4日) - 昭和17年(1942年)8月10日)は、明治から昭和前期の地質学者、土壌学者。東京帝国大学名誉教授。 美濃大垣(現:岐阜県大垣市)に生まれる。1893年(明治26年)東京帝国大学地質学科卒業。1896年(明治29年)同大学農科大学助教授を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学教授となる。1911年から1915年頃に掛けてヨーロッパおよびアメリカに留学し、オーストリアで森林土壌学、イタリアで砂防学を研究。帰国すると地質学や森林土壌学講座を担当した。樺太および北海道にて気候的植生の土壌に対する影響を調査し、表層地質学の新天地を開拓した。
土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(186… 土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(1866年12月4日)- 昭和40年(1965年)3月11日)はカトリック司祭・天文学者・漢学者。上智大学第3代学長。洗礼名はパウロ。弟は日本で初めて電気炉製鋼を実用化した土橋長兵衛である。1964年勲三等瑞宝章受章。 慶応2年、信濃国諏訪郡下桑原村(甲州街道上諏訪宿)生まれ。明治14年(1881年)、前年に長野県上諏訪村小和田(現諏訪市)の小学校を卒業したばかりの八千太は、諏訪を訪れたパリ外国宣教会の宣教師・ジュル・ラングレーの説教に感激し、明治15年(1882年)カトリックの洗礼を受ける。 上京後の明治19年(1886年)に上海に渡って神学校のヨハネ学院で学び、明治21年(1888年)9月7日にイエズス会に入会する。
西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安… 西能 源四郎(さいのう げんしろう、1859年12月4日(安政6年11月11日)- 1916年(大正5年)12月6日)は、日本の実業家、政治家。富山県会議員や衆議院議員を務め、両砺銀行を設立し頭取となった。幼名・源之助、本名・義彰、通称・源四郎。号・五州、士強、耕萬里。 越中国礪波郡広安村(のち富山県東礪波郡福野町を経て、現南砺市)で、先代・西能源四郎の長男として生まれる。11歳で父が死去したため、母の実家で養育され、祖父・天富鼎太郎の薫陶を受けた。その後、富山藩儒・岡田呉陽の家塾で漢文、詩文を修めた。 自由民権運動に加わり、島田孝之らの越中改進党に参加した。富山県会議員を3期務めた(明治19年9月〜同12年2月、同21年3月〜同25年6月、同29年8月〜同年10月)。
平瀬 與一郎(ひらせ よいちろう、安政6年11月11日(18… 平瀬 與一郎(ひらせ よいちろう、安政6年11月11日(1859年12月4日) - 大正14年(1925年)5月25日)は、日本の民間の貝類研究家・貝類収集家・博物家・標本商。それまで欧米の研究者に依っていた日本の貝類学に手をつけた最初の日本人の一人で、日本貝類学史における最重要人物の一人。明治・大正期に精力的に研究活動を行ったが、生来病気がちであったことや、大学などの研究機関に所属せず全ての活動を私財を投じて行っていたこともあり、ついには財力・体力とも使い果たして力尽きた。日本産貝類の全貌究明を夢見ながら途半ばにして倒れた彼が残したのは、貴重な標本類と「日暮れて道遠し…」の言葉とであった。 日本産貝類の基礎的な知識の多くの部分が明治後期-大正初期にかけての彼の活動によって築かれ、間接的には1928年に創立され現在に至る日本貝類学会の源流をも作ったとも言える。
十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10… 十一代目 片岡 仁左衛門(かたおか にざえもん、安政4年10月18日(1857年12月4日) - 昭和9年(1934年)10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役。屋号は松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう) 養子に十三代目片岡仁左衛門。 安政4年(1857年)、八代目片岡仁左衛門の四男として江戸猿若町に生まれる。文久元年(1861年)、本名の片岡秀太郎で初舞台。翌年父と兄・三代目片岡我童とともに大坂へ移るが、翌文久3年(1863年)父が死去。後ろ盾を失いながらも子供芝居で修業を続ける。 明治5年(1872年)ごろから大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められはじめる。
滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12… 滝沢菊太郎/瀧澤菊太郞(たきざわ きくたろう、1854年12月4日(嘉永7年10月15日) - 1933年(昭和8年)1月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。府県師範学校長。 信濃国埴科郡福井村(現・長野県千曲市)生まれ。14歳で寺子屋に学び私塾で漢学を修める。1874年に上京、日本橋の私塾日章堂、次いで慶應義塾に入塾し英学を学ぶ。1876年東京師範学校に入学。師範教育取調を目的とする米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫が、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の本格的導入を開始した時期であったため、卒業取消を願って3年の履修課程を6年かけ、1882年2月に同校中学師範学科を卒業した。
奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(185… 奥宮 正治(おくみや まさはる、嘉永4年11月12日(1851年12月4日) - 1927年(昭和2年)7月20日)は、明治時代の司法官僚。大審院検事。宮城控訴院検事長。幼名は猪左馬。 奥宮慥斎の長男として土佐高知藩領土佐郡布師田村(現高知市布師田)に生まれる。1873年(明治6年)司法省に出仕する。1881年(明治14年)検事に進み、1890年(明治23年)広島地方裁判所検事正となり、神戸地方裁判所検事正、横浜地方裁判所検事正を歴任し、1896年(明治29年)司法書記官に任じた。1899年(明治32年)大審院検事となり、のち宮城控訴院検事長に就任した。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。