中屋敷 法仁(なかやしき のりひと、1984年4月4日 - … 中屋敷 法仁(なかやしき のりひと、1984年4月4日 - )は、日本の演出家、脚本家、俳優。劇団「柿喰う客」代表。ゴーチ・ブラザーズ所属。 青森県十和田市出身。桜美林大学文学部総合文化学科演劇コース卒業。 十和田市立切田中学校出身。 青森県立三本木高等学校時代から青森県の劇作家・畑澤聖悟に師事。高校3年時に「贋作マクベス」にて第49回全国高等学校演劇大会・最優秀創作脚本賞受賞。 その後、青山学院大学に入学。 青山学院大学2年時に「柿喰う客」を旗揚げし、全作品の脚本・演出を手がける。その後、桜美林大学で平田オリザのもとで学ぶ。 2013年に『無差別』で第57回岸田國士戯曲賞候補。2014年より日本劇団協議会・「日本の劇」戯曲賞の最終選考委員を務める。
じろう(1978年〈昭和53年〉7月14日 - )は、日本の… じろう(1978年〈昭和53年〉7月14日 - )は、日本のお笑い芸人、俳優、脚本家、作詞家。シソンヌのボケ(ネタによってはツッコミ)・ネタ作成担当、立ち位置は向かって左。吉本興業所属。本名は大河原 次郎(おおかわら じろう)。青森県弘前市出身。身長179cm、体重68kg。血液型B型。 コンビでの出演についてはシソンヌ (お笑いコンビ)を参照。
山谷 亨(やまや あきら、1976年5月8日 - )は日本の… 山谷 亨(やまや あきら、1976年5月8日 - )は日本の映画監督、演出家、脚本家。青森県青森市出身。 青森県立青森高等学校を卒業後、成蹊大学文学部日本文学科に進学。大学卒業後、制作会社にてテレビ番組、映画、オリジナルビデオ等の演出・撮影・編集・助監督等を務める。 その後フリーの演出家として映画・オリジナルビデオ・CMなどの制作に従事。他に、題字・字書きとして映画・CM美術などに多数参加している。実相寺昭雄の株式会社コダイ所縁の服部光則・高橋巖 (映画監督)・清水厚との仕事が多い。 セサミストリート:ELMO IN JAPAN〜(2015年~2016年) ラインプロデューサー
吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 198… 吉田 義昭(よしだ よしあき、1932年1月8日 - 1989年5月9日)は、日本の脚本家、劇作家である。初期の別名に吉田 貴彰(よしだ たかあき)がある。日本脚本家連盟信託者。『山ねずみロッキーチャック』、『アルプスの少女ハイジ』、『フランダースの犬』等のテレビアニメーションの脚本のメイン作家として知られる。 日本映画データベース等で混同されている、同時代に活動した脚本家の吉田喜昭(1937年 - 2001年)は同音異字の別人。また、第20回小野十三郎賞(2018年)を受賞した詩人の吉田義昭も別人。 1932年(昭和7年)1月8日、青森県青森市に生まれる。 1950年(昭和25年)3月、青森県立青森高等学校を卒業、満20歳を迎えた1952年(昭和27年)に東京に移る。
山田 隆之(やまだ たかゆき、1923年5月14日 - 19… 山田 隆之(やまだ たかゆき、1923年5月14日 - 1994年5月16日)は、日本の脚本家。 青森県八戸町出身。八戸中学を卒業後、早稲田大学に進学、在学中の1943年に学徒出陣する。復員後、八戸に戻り、終戦後は地元で劇団を設立し、演出などを担当するかたわら、役者として自ら出演もしていた。 1949年に上京し、ラジオドラマの脚本を書くようになり、その後、テレビ時代への移行とともにテレビドラマ(主に時代劇)の脚本を書くようになる。 1994年5月16日、埼玉県秩父市の自宅で死去。
小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日… 小国 英雄(おぐに ひでお、1904年(明治37年)7月9日 - 1996年(平成8年)2月5日)は、日本の脚本家、映画監督。青森県八戸市出身。 青森県八戸市柏崎新町の母の実家玉内家で誕生。旧制八戸中学校(現・青森県立八戸高等学校)時代に同郷の友、松下正寿の兄・正臣の影響で武者小路実篤の作品に傾倒し、小説を実篤に送るなど文学に目覚めた。実篤の勧めで日本バプテスト神学校(現・関東学院大学)に進学し卒業。白樺派の影響を受け、実篤主宰の新しき村に参加する。関東大震災に遭遇し帰郷するも、「大震災救援」のための演劇活動に精力を注いだ。 1929年(昭和4年)に実篤の紹介で日活太秦撮影所に助監督として入社。
北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4… 北村 小松(きたむら こまつ、1901年(明治34年)1月4日 - 1964年(昭和39年)4月27日)は、日本の劇作家、小説家、脚本家。 青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)生まれ。八戸中学校を経て慶應義塾大学英文科卒。在学中から小山内薫に師事して劇作を学び、卒業後に松竹キネマ蒲田研究所に入社。松竹の『マダムと女房』(1931年)など多くの映画シナリオを書く。戦後はユーモア小説作家に転じた。『人物のゐる街の風景』(1926年)が初期代表作で、初期は左翼文学にも手を染めたが、戦時下は戦争協力小説を多く書き、スパイものを編纂した。ほか翻訳がある。終戦後の1948年(昭和23年)に公職追放を受けて活動停止追放処分となる(1950年(昭和25年)に解除)。