中野 亨道 (なかの こうどう、1993年3月8日 - )は… 中野 亨道 (なかの こうどう、1993年3月8日 - )は、日本出身のフィリピンの元男子柔道(81kg級)選手。2016年リオデジャネイロオリンピックフィリピン代表。岩手県九戸郡野田村出身。清和大学卒業。2023年現在、柔道フィリピン代表チーム監督。 日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた。出生時より日本とフィリピン両国の国籍を有する。 弟の中野修源・中野経清もフィリピン代表の柔道選手である。 9歳の時から地元の道場直心館で柔道を始めた。岩手県立久慈東高等学校2年時に母の故郷へ里帰りした際、フィリピン代表チームに誘われた。 2013年から2015年にかけて、世界柔道選手権大会などIJFワールド柔道ツアーに多数出場した。
貝山 仁美(かいやま ひとみ、1977年10月27日 -)は… 貝山 仁美(かいやま ひとみ、1977年10月27日 -)は岩手県出身の日本の柔道家。現役時代は70kg級の選手。身長163cm。得意技は内股。現在は三井住友海上のコーチを務めている。
阿部 由記子(あべ ゆきこ、1972年8月26日 - )は岩… 阿部 由記子(あべ ゆきこ、1972年8月26日 - )は岩手県出身の日本の柔道家。現役時代は66kg級の選手。身長165cm。 小佐野中学2年の時に早くも体重別と強化選手選考会の66kg級で3位になった。3年の時にはコロラドスプリングスで開催された環太平洋柔道選手権大会で日本選手最年少となる15歳1ヶ月でのシニアの国際大会優勝を飾った(2020年現在も最年少記録を保持している)。続く強化選手選考会でも優勝を果たした。釜石南高校へ進むと、1年の時には強化選手選考会で2連覇、体重別では初優勝を飾った。2年の時には強化選手選考会で3連覇を達成した。福岡国際では3位に入った。3年の時には世界ジュニアに出場して決勝まで進むも、イギリスのケイト・ホーウェイに敗れて2位にとどまった。
日蔭 暢年(ひかげ のぶとし、1956年7月9日 - )は、… 日蔭 暢年(ひかげ のぶとし、1956年7月9日 - )は、岩手県宮古市出身の日本の柔道家。身長170cm。得意技は谷落。 小学校6年の時に柔道を始めた。国士舘高校、国士舘大学卒業。 岩手県警に所属し、1983年の世界選手権78kg級で優勝するも、1984年のロサンゼルスオリンピックには国内予選で敗れて出場できなかった。1985年の世界選手権では2連覇を達成した。 その後、盛岡大学・盛岡大学附属高等学校の体育教師・柔道部顧問を経て、チュニジアのナショナルコーチとなり、その後2000年開催のシドニーオリンピック、2004年開催のアテネオリンピックで全日本女子柔道強化コーチを務める。 北京オリンピックに向けて、全日本柔道連盟(全柔連)の強化スタッフ・女子ヘッドコーチに就任。
柏崎 克彦(かしわざき かつひこ、1951年9月16日 - … 柏崎 克彦(かしわざき かつひこ、1951年9月16日 - )は、日本の柔道家。岩手県久慈市出身。8段を取得している。1981年の世界選手権で優勝し、その後国際武道大学にて後進の指導に当たる。現役時代は小躯ながら合理的な寝技を使い、柔道界のみならず格闘技界において寝技の代名詞として、その名を知られた。 1951年、三船久蔵十段の生誕の地である縁から“柔道の町”として知られる岩手県久慈市に生まれる。両親をはじめ、親族の多くが教員という家柄だった。 小学5年生より地元の三船十段記念館で柔道を習い始める。若い指導者の久保正太郎が率いる三船記念館の少年部は、県内外に知られた強豪クラブであった。柏崎は、その小柄な体格ゆえ“ニワトリ”とあだ名され、本人曰く柔道の試合で勝った記憶は殆ど無いとの事。
川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2… 川村 禎三(かわむら ていぞう、1922年7月14日 - 2003年1月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 岩手県矢巾町に生まれ、旧制盛岡中学校(のちの県立盛岡第一高校)へ進学。中学時代には、東北の団体戦柔道大会で圧倒的な体格と強さを発揮し、旧制盛岡中学を優勝に導いた。また中学5年次の1940年6月には、岩手県予選を勝ち抜き府県選士として紀元二千六百年奉祝天覧武道大会にも出場、予選リーグ戦を勝ち抜くには及ばなかったものの、20代・30代の精鋭が集う中にあって弱冠17歳(最年少)での川村の出場は快挙であった。 1941年に東京高等師範学校体育科二部(柔道専攻)に入学し、また同年5月に講道館へ入門して僅か2カ月後には4段位を許された。
晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 198… 晴山 福一郎(はれやま ふくいちろう、1898年 - 1980年)は、教育者・柔道家。岩手県久慈市出身。 江戸時代から大正期まで久慈町の豪商として栄えた橘屋の下かまど(分家)に生まれる。岩手師範学校卒業後盛岡市内の小学校で教鞭を執り、大日本武徳会武道専門学校に入学。岩手県の許可が下りず退学し教職に戻った。岩手県久慈地域の小学校長を歴任し、1946年、戦中翼賛壮年団長だったことから公職追放となった。 追放解除後は整骨院を久慈市と岩泉町で経営する傍ら、久慈町消防団長、久慈市教育委員長、久慈市消防署長を始め、数多くの役職を歴任し、戦前・戦中・戦後を通し、旧久慈町、久慈市の指導的立場にあった。 特筆すべきは、1933年に南部桐を使った「晴山式新案骨格模型」を作成し、当時の石黒英彦岩手県知事から激賞された。
瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年… 瀬川 正三郎(せがわ しょうざぶろう、1890年(明治23年)2月14日 - 1972年(昭和47年)12月15日)は、大正から昭和時代の柔術家、柔道整復師。父のいとこに荒川鉱山の経営者・瀬川安五郎がいる。 岩手県盛岡市上衆小路にて瀬川正太郎、ヤエの三男として生まれる。岩手師範附属小学校、盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1912年(明治45年)京都の武術専門学校へ進学する。同校卒業後、山口県徳山中学校を経て、1917年(大正6年)4月に奥田松五郎の後任として、1943年(昭和18年)まで母校の盛岡中学校にて柔道の指導にあたる。その間、1931年(昭和6年)、加賀野の自宅にて整骨院を開き、小中学生や生活困窮者に対しては無料で施術を行った。
昆野 睦武(こんの つかのり、1885年6月 - 1917年… 昆野 睦武(こんの つかのり、1885年6月 - 1917年)は、日本の柔道家。 1885年(明治18年)6月に岩手県久慈町(現久慈市)に生まれる。1909年(明治42年)に横浜羽衣座で、内外の注目を浴びて行われた英国人ボクシングチャンピオンのスミスと柔道対ボクシングの国際試合を行いチャンピオンとなった。 昆野は三船久蔵十段の1年後輩で、講道館入門後四段まで昇段したが、義侠心からの喧嘩が絶えなかったため、三船久蔵十段と並び称された鬼才を惜しまれながら講道館を破門された。 英人スミスとの試合は1909年、英国海軍の艦隊がその威容を誇るため横浜に寄港した際に申し込まれた。挑戦を受けた講道館、以前に洋行中の山下八段がボクシングとの試合に負けた後であったので、会議を開き、破門中の昆野に出京を促した。
三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月… 三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年〈明治16年〉4月21日 - 1965年〈昭和40年〉1月27日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段。大日本武徳会柔道範士。 身長159 cm、体重55 kg。小柄な体型ながら空気投げなどの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ名人の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから柔道の神様とあがめられた。出身地の岩手県久慈市に三船十段記念館が建てられた。 1883年(明治16年)岩手県九戸郡久慈町(のちの久慈市)に生まれる。久慈尋常高等小学校卒業後、郡役所に勤めるも数日で退職。