金村 曉(かねむら さとる、本名:金村 秀雄〈かねむら ひで… 金村 曉(かねむら さとる、本名:金村 秀雄〈かねむら ひでお〉、1976年4月19日 - )は、宮城県気仙沼市出身の元プロ野球選手(投手)・指導者・解説者。右投右打。 愛称は名前が金村曉であること、その漢字をあかつきと読めることから「あかつき」、姓の金村の音読みである「キンソン」。 登録名は本名を使用後、1996年途中から「金村 暁」、2001年からは「金村 曉」へ変更している(読みはいずれも「かねむら さとる」)。現在はロッテ・ジャイアンツ投手統括コーディネーター。 小学生の頃から日本ハムファイターズのファンで西崎幸広に憧れていたという。 仙台育英高等学校進学後、1994年の第76回全国高等学校野球選手権宮城大会決勝で桜井幸博を擁する仙台工高を破り優勝。
佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は… 佐々木 信行(ささき のぶゆき、1953年5月2日 - )は、宮城県本吉郡津山町(現:登米市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、解説者。 佐沼高校から一般企業への就職が内定していたが、一転して1971年のドラフト10位でロッテオリオンズに入団。弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。1980年以降は一軍出場もなくなり、1982年限りで現役を引退。 引退後もオリオンズ(川崎)→マリーンズ(千葉)とロッテ一筋で、現役時代から並行して行ってきたブルペン捕手や二軍コーチ補佐(1987年 - 1990年)、二軍コーチ(1991年)、一軍ブルペンコーチ(1992年, 1999年 - 2000年)、二軍バッテリー兼育成コーチ(1993年、二軍バッテリー育成担当コーチ(1994年)、一軍バッテリーコーチ補佐(1996年)、二軍総合コーチ(2001年)、一軍バッテリーコーチ(1998年途中, 2002年)、二軍監督(2003年)を歴任。
加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、… 加藤 俊夫(かとう としお、1948年1月20日 - )は、宮城県仙台市宮城野区出身の元プロ野球選手(捕手)・解説者。ニックネームは「ドン」。 仙台育英では2年次の1964年に夏の甲子園へ出場するが、1回戦で滝川高の芝池博明に0-1で完封負けを喫した。チームメイトでは1期上のエース・倉橋寛、遊撃手の佐藤博廸(南海)、同期の三塁手・石崎一夫がプロ入りしている。3年次の1965年夏は東北大会準決勝で磐城高に惜敗し、2年連続で甲子園には出場できなかった。高校時代から「大物」とうたわれ、通算打率.380をマークした。強肩と強打にプロ球界も目を付け、小さい頃からファンであった巨人から指名の話が来た時は有頂天になったが、同年のドラフトでは巨人の前に大洋から2位で指名されているが、入団を拒否。
伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007… 伊藤 勲(いとう いさお、1942年5月14日 - 2007年5月26日)は、宮城県仙台市出身(岩手県生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者。愛称は「キートン」。 父親の転勤で幼少期を各地で過ごし、中学時代に仙台市に移る。東北高校では3年次の1960年に夏の甲子園に出場したが、1回戦で青森高に敗退。強肩強打の捕手として大洋や巨人なども注目したが、1959年に同校の先輩である波山次郎が大洋に入団していたこともあって、1961年に大洋ホエールズへ入団。契約金は170万円で、年俸は36万円であった。 1年目の同年から一軍でマスクを被り、7月30日の中日戦(川崎)の9回裏に蓜島久美に代わって初出場を果たす。
島田 源太郎(しまだ げんたろう、1939年8月25日 - … 島田 源太郎(しまだ げんたろう、1939年8月25日 - 2024年6月16日)は、宮城県気仙沼市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・解説者。愛称は寝ぼけの源、おとぼけの源。 2021年までの日本プロ野球最年少完全試合(20歳11ヶ月)達成者(2024年現在はセ・リーグ最年少記録)。 宮城県気仙沼市出身。気仙沼高校では3年次の1957年、夏の甲子園県予選で準決勝に進むが、仙台二高に敗退。卒業後は盛岡鉄道管理局への入社が内定していたが、大毎オリオンズの新人募集広告を目にして、上京して入団テストを受けるが不合格であった。しかし、プロ入りへの夢が捨てきれず、再び家族に黙って上京し大洋ホエールズの入団テストを受験。
若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 199… 若生 忠男(わこう ただお、1937年8月22日 - 1998年)は、宮城県仙台市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 1970年シーズンの登録名は若生 忠泰(わこう ただやす)。 東北高校時代は若生智男・若生照元と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。 1955年に西鉄ライオンズへ入団。 1957年には6月から先発陣の一角となり9勝を挙げ、同年の巨人との日本シリーズでも最終戦の第5戦に先発し、チームの2年連続日本一に貢献。背番号が見えるくらい全身を捻り、下手投げからキレの良い変化球を投げる「ロカビリー投法」で一世を風靡。 1960年には初の2桁勝利となる13勝、同年のオールスターにも選出されるが出場を辞退した。
佐藤 孝夫(さとう たかお、1931年8月10日 - 200… 佐藤 孝夫(さとう たかお、1931年8月10日 - 2005年3月21日)は、宮城県刈田郡白石町(現・白石市)出身(台湾台南市桶盤浅生まれ)のプロ野球選手(内野手, 外野手)・コーチ・監督・スカウト、解説者。 現役時は躍動感溢れるプレーで人気を集め、「バンビ」の愛称で知られた。 子息に元早稲田大学助監督、現城西国際大学監督の佐藤孝治がいる。 台湾で繊維業を営んでいた両親の末子として生まれる。 台南一中に進学するが、日本の敗戦により、両親の故郷である白石町に引き揚げ、白石高校に編入。入学後に創部されたばかりで部員を探していた野球部の勧誘を受け、引き揚げの際に野球部だった兄が病死していたため、兄の後を継ごうという思いから野球部に入部した。