畑澤 聖悟(はたさわ せいご、1964年8月 - )は、日本… 畑澤 聖悟(はたさわ せいご、1964年8月 - )は、日本の劇作家、脚本家、演出家、放送作家、俳優、青森県の公立高校教師。劇団・渡辺源四郎商店店主(主宰)。青森県を中心に、国内外を問わず演劇活動を行っている。秋田県生まれ。秋田県立秋田高等学校、秋田大学教育学部卒業。 1964年、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。秋田大学在学中から、秋田市内の多くの劇団に参加。卒業後は教職に就き、秋田市立秋田北中学校に赴任する。1991年から劇団弘前劇場に俳優として参加、青森県に移住。1995年、青森県立高校の教諭となり、青森県立青森中央高校に赴任、演劇部顧問となる。 この頃からテレビドラマやラジオドラマの脚本・演出も担当するようになり、1998年には放送批評懇談会ギャラクシー大賞ラジオ部門最優秀賞、1999年『県立戦隊アオモレンジャーfirst』で日本民間放送連盟賞ラジオ娯楽番組部門最優秀賞、2000年『シュウさんと修ちゃんと風の列車』で文化庁芸術祭大賞を受賞。
八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 -… 八木 隆一郎(やぎ りゅういちろう、1906年4月17日 - 1965年5月12日)は、日本の劇作家・脚本家である。新派、新国劇、芸術座、前進座、井上正夫一座、移動演劇隊などあらゆる分野で上演され、映画化も多数なされた。 1906年(明治39年)4月17日、秋田県能代市の向能代の八木財吉・ふみの長男として生まれる。本名:八木財一郎。 3歳の時、両親の離婚で母ふみに連れられて函館に転居、7歳で函館幸尋常高等小学校に入学。13歳で庁立函館商業学校に入学、その翌年から文学活動を始める。仲間と同人誌を発行するとともに、1922年(大正11年)12月15日に創刊された「校友会雑誌」には、"八木小夜二"、"八木青萍子"のペンネームで詩や俳句を投稿する。
青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 … 青江 舜二郎(あおえ しゅんじろう、1904年11月26日 - 1983年4月30日)は、日本の劇作家、評論家。本名は大嶋長三郎。秋田県秋田市生まれ。 1904年(明治37年)11月26日、薬卸小売商「衛生堂」の長男として茶町梅ノ丁(現在の大町四丁目)に誕生。衛一と命名されるが、1915年(大正4年)、父が逝去したため、その名前を継いで以後は長三郎を名乗る。旧制秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1929年(昭和4年)東京帝国大学文学部印度哲学科卒業。 大学在学中、第九次「新思潮」同人となり、同誌に掲載された戯曲『火』『見物教育』が小山内薫に認められ、師事する。大学卒業後、香川県社会教育主事として高松に赴任するが、劇作に専念するため4年後に再度上京。
中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)… 中山善三郎(なかやま ぜんざぶろう、1904年(明治37年)6月21日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、日本のジャーナリスト、劇作家。劇作家としての筆名は塩谷国四郎。 1904年(明治37年)秋田市本町(現在の秋田市大町)に生まれる。日本大学卒。 1927年(昭和2年)、毎日新聞社入社。日米開戦前後には、海軍徴用報道班員として鹿屋海軍航空隊に随行し、戦況などを日本に伝えた。この折の体験を基に実録「真珠湾奇襲」「不沈戦艦北へ」を執筆している(いずれも『大東亜戦史 1 太平洋編』所収)。戦後、西部本社社会部長兼地方部長、横浜支局長、東京本社連絡部長、東京本社社会部長、サンデー毎日編集長を歴任した。
金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 198… 金子 洋文(かねこ ようぶん、1894年4月8日 - 1985年3月21日)は、プロレタリア文学の小説家、劇作家、日本社会党参議院議員。 秋田県秋田市土崎港古川町の舟問屋の四男として生まれる。本名・吉太郎。15歳で一旦上京して電気工事の仕事をするが帰郷し、19歳で秋田工業学校機械科を卒業。母校の助手を経て土崎小学校の代用教員を務める。1916年、上京して武者小路実篤の書生となる。 1921年、尋常小学校の同級生だった小牧近江や今野賢三とともに、社会主義思想の文芸雑誌『種蒔く人』を創刊。『解放』に発表した「地獄」が出世作となる。1924年からは『種蒔く人』の後継誌『文藝戦線』を創刊。戯曲、脚本も書いた。
田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 19… 田口 掬汀(たぐち きくてい、1875年1月18日 - 1943年8月9日)は、日本の小説家、劇作家、美術評論家である。本名は田口 鏡次郎(たぐち きょうじろう)。息子に画家の田口省吾、孫に小説家の高井有一。 1875年(明治8年)1月18日、秋田県仙北郡角館町(現在の同県仙北市角館町)に生まれる。。 角館の小学校を卒業し、商家に奉公するなどして、1900年(明治33年)ころ、雑誌『新声』への投稿が認められて上京、佐藤義亮の新声社(新潮社の前身)に入社。編集・記者業務に従事する傍ら創作活動を開始した。 1903年(明治36年)朝報社に入社。1904年『萬朝報』に小説『女夫波』を連載、1905年『伯爵夫人』を連載、これらの家庭小説で人気作家となった。