冴木 一馬(さえき かずま、昭和32年(1957年) - )… 冴木 一馬(さえき かずま、昭和32年(1957年) - )は、日本の花火写真家、研究家。花火師の免許を取得している。 山形県鶴岡市出身。現在[いつ?]、大阪在住。専門学校卒業後、アパレル会社へ就職。その後、フリーカメラマンとして独立。写真への興味は専門学校時代に同じ寮にいた友人の影響だと語っている。 韓国の民主化運動の取材では肩から提げていたカメラバッグを銃弾が貫通したという話が残っている。 事件や事故の現場を中心に担当していた中、1987年に大阪の天神祭で花火を記録したことをきっかけとして花火への興味を持つようになった。今日では、ハナビストを自称している。ハナビストは写真家以上の活動として肩書きを考えていた当時、コラムニストやエコノミストなどの横文字職業が流行していたのを機に「ハナビスト」と自分で考えたと伝えられている。
松木 正利(まつのき まさとし、1933年(昭和8年) -2… 松木 正利(まつのき まさとし、1933年(昭和8年) -2018年(平成30年) )は、日本の園芸家、ダリア研究家、東北ダリア作出家協会会長、鶴岡ダリア研究会会長、元荘内日報社編集局長。 庄内農業高等学校在学中にダリアの研究を始め、卒業後は、農業荘内社『農業荘内』主幹、荘内日報社編集局長経て、1952年に「鶴岡ダリア研究会」を発足させて会長に就任、1956年には「東北ダリア作出家協会」を発足して会長に就任し、協会本部を自宅に置いた。 1947年から1965年までの間に、種苗商によって発表・発売された4874品種の全品種を、植物学者の芳賀卓(現・北海道教育大学名誉教授)と共に、カードに書き込んで「ダリア・リスト」を完成させた。
錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8… 錦 三郎(にしき さぶろう、1914年 - 1997年5月8日)は、日本のエッセイスト、歌人、蜘蛛研究家、特にバルーニングの研究で著名。山形県山形市出身。1936年山形師範学校卒業、小学校教員となる。1929年頃から斉藤茂吉の弟子の結城哀草果に師事して作歌を始める。1937年アララギ入会。晩年は短歌結社「山麓」の選者を務めた。1958年日本蜘蛛学会に入会。蜘蛛に関連する書籍で数多くの賞を受賞する。1973年退職、1975年南陽市芸術文化協会会長。翌年、市史編さん嘱託(編集委員長)に就任。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月2… 酒井 忠純(さかい ただひさ、1886年(明治19年)8月25日 - 1964年(昭和39年)7月5日)は、昭和時代前期の銀行家、軍人、陸軍中尉・従七位、考古学研究家。荘内銀行初代頭取。庄内民俗学会会長、山形県文化財保護協会理事。幼名は徳太郎、号は松堂。 最後の藩主である酒井忠宝の長男として鶴岡郊外大宝寺村(現:鶴岡市)で生まれる。若い頃から考古学に興味を持ち、庄内各地を踏査し、史料収集につとめ、長年にわたり遺跡・遺物の調査と保存につとめた。その一方で、金融界でも活躍し、1939年(昭和14年)9月に菅實のあとを受け、六十七銀行頭取に就任し、41年4月には合併後の荘内銀行頭取に推され、44年10月まで在任し、48年10月までは会長を務めた。
羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22… 羽柴 雄輔(はしば ゆうすけ、嘉永4年(1851年)6月22日 - 大正10年(1921年)12月5日)は、幕末期の武士(庄内藩士)、郷土史研究家。慶應義塾大学図書館に勤務して考古学、民俗学、人類学を研究・編纂し「奥羽人類学会」を創設した。号は千瓢庵猿面、別名は久明または良策。 飽海郡(現・酒田市松山地区)に、庄内藩の医師・羽柴服笥(養倫)の子として生まれる。阿部灌策や海保弁之助に漢学を学び、慶応4年(1868年)7月、戊辰戦争に二番大隊軍監兼参謀として出征。敗戦後、庄内藩に対して朝敵の汚名を着せた官軍を批判した論文『東北人謬見考評論』を発表する。松山藩の家老であった松森胤保とも親交があった。旧松山藩校・里仁館の教師などを経て、成興野、狩川、大広、鼠ケ関各小学校の教師を勤める。