柴田 弘之(しばた ひろゆき、1957年(昭和32年)4月1… 柴田 弘之(しばた ひろゆき、1957年(昭和32年)4月14日 - )は、日本の銀行家。2018年より第4代信金中央金庫理事長。 茨城県出身。茨城高等学校を経て、1980年(昭和55年)慶應義塾大学法学部政治学科卒業、全国信用金庫連合会(現在の信金中央金庫)入庫。2005年に総合企画部長、2007年に理事総合企画部長、2009年に常務理事、2013年に専務理事を経て2016年から副理事長、2018年から理事長。 2代連続で信金中金からの生え抜きで理事長就任となる。東日本大震災で被災した信用金庫に資金を注入し、新型コロナウイルス感染症の流行では新たな特別融資制度や信用金庫取引先同士の専用マッチングサイトの新設を行なったほか、出資総額100億円の対策支援ファンド「しんきんの礎」を設立した。
石川 周(いしかわ いたる、1927年12月14日 - )… 石川 周(いしかわ いたる、1927年12月14日 - )は、日本の銀行家。常陽銀行頭取を務めた。 茨城県水戸市出身。1953年に東京大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大蔵省に入行。1982年6月に造幣局長、1983年7月に国土庁長官官房長を経て、1984年7月から1985年7月までに国土事務次官を務めた。1985年9月に常陽銀行顧問に就任し、1986年6月に取締役、同年7月に副頭取を経て、1988年7月には頭取に就任。1993年6月に会長を経て、1999年6月には取締役相談役に退いた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
石川 操(いしかわ みさお、1922年5月2日 - 1999… 石川 操(いしかわ みさお、1922年5月2日 - 1999年1月6日)は、日本の経営者、銀行家。茨城県水戸市出身。 1940年に水戸商業学校を卒業し、1942年に常陽銀行に入行。1969年10月に取締役、1974年11月に常務、1981年6月に専務を経て、1986年7月には常陽銀行副頭取に就任。1988年7月に取締役相談役を経て、1989年6月には相談役に退いた 1999年1月6日肺炎のために死去。76歳没。
亀山 甚(かめやま じん、1885年(明治18年)6月10日… 亀山 甚(かめやま じん、1885年(明治18年)6月10日 - 1974年(昭和49年)1月13日)は、明治・大正・昭和期にかけての銀行家。
浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年(明治15年)… 浜 平右衛門(濱、はま へいえもん、1882年(明治15年)7月27日 - 1949年(昭和24年)4月25日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。幼名は小太郎。 浜佐太郎の長男として、茨城県新治郡石岡町(現在の石岡市)に生まれる。1898年(明治31年)1月、家督を相続し、改名する。実業界にて石岡電気、鹿島参宮鉄道、北浦電気、太田製糸、常南電気、北総電気の各社長、常磐銀行、石岡銀行、水戸電気鉄道の各取締役など重役を歴任。ほか、茨城県醤油醸造組合、同信用組合の各組合長を務めた。 地方政界においては、石岡町会議員、同消防組頭、産業組合中央金庫評議員などを歴任した。
西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 … 西野 元(にしの げん、1875年(明治8年)11月29日 - 1950年(昭和25年)8月3日)は、日本の大蔵官僚、政治家、銀行家。大蔵次官、貴族院議員、枢密顧問官。大蔵省の至宝といわれた人物で、八八艦隊計画成立後に、海軍首脳に対しその実施不可能であることを踏まえワシントン会議に臨むよう訴えた。 茨城県出身。西野元聿の長男として生まれる。水戸中学校、第一高等学校を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を優等で卒業し、銀時計を授与された。同年11月、文官高等試験行政科試験に首席合格。同年12月、臨時秩禄処分調査局属兼大蔵属に任官。一時期、上京してきた同郷の荒川敬を寄寓させていた。
立川 興(たちかわ さかん、1852年(嘉永5年10月)- … 立川 興(たちかわ さかん、1852年(嘉永5年10月)- 1906年(明治39年)11月25日)は、明治時代の政治家、銀行家、醸造家。衆議院議員(2期)。 水戸藩の郷士・立川直行の子として常陸国久慈郡太田村(茨城県久慈郡太田町を経て現常陸太田市)に生まれる。父直行は辰介と称していたが次郎左衛門と改名し、金嶺と号した。天保3年正月3日、久慈郡和久村の和田長四郎の長男として生まれ、叔父で常陸太田の豪商の立川邦章の養子となった。藩主徳川斉昭が江戸駒込邸に幽閉されると、同志と共に江戸に向かい斉昭の名誉回復に務め、その後も幕末の志士として奮闘し資金援助を行った。文久3年に里正となり、維新後は戸長を務め、太田銀行を創立し頭取となり、第百四国立銀行の取締役などを務めた。