外処 茅優(とどころ ちひろ、2000年6月4日 - )は、… 外処 茅優(とどころ ちひろ、2000年6月4日 - )は、群馬県邑楽郡邑楽町出身の、日本の柔道選手である。階級は44kg級と48㎏級。身長148cm。血液型はA型。組み手は左組み。得意技は大内刈。 柔道は5歳の時に母親と姉の影響を受けて、邑楽町柔道スポーツ少年団で始めた。全国中学校柔道大会の40㎏級では邑楽中学1年と3年の時は初戦で敗れるも、2年の時に5位となった。高校は山梨県の富士学苑高校へ進学した。この時期はケガで半年ほど柔道から離れていたが、リハビリテーションの過程で今まで経験したことがないほどハードなトレーニングを積んだことにより力が付いて、大会に復帰すると組み手面で進展が見られるようになったという。
小山 亜利沙(こやま ありさ、1995年6月30日 -)は群… 小山 亜利沙(こやま ありさ、1995年6月30日 -)は群馬県出身のブラジルの柔道家。48kg級の選手。身長は151cm。組み手は左組み。得意技は一本背負投。 現在は帝京大学に在学。ブラジル名はステファニー・アリサ・コヤマ(Stefannie Arissa Koyama)。日本語、英語、ポルトガル語の3ヶ国語を話せるという[4][5][6]。
永井 崇匡(ながい たかまさ、1995年1月4日 - )は、… 永井 崇匡(ながい たかまさ、1995年1月4日 - )は、日本の柔道家。 群馬県吾妻郡中之条町出身。学習院大学職員。 1歳の頃、網膜芽細胞腫により全盲となる。運動量が少なくなることを心配した両親のすすめにより、小学1年生から柔道を開始。 群馬県立盲学校(小学部)、筑波大学附属視覚特別支援学校(中学部・高等部)、学習院大学理学部数学科卒業。 2015年、2016年と全日本視覚障害者柔道大会で連覇。 ひざや足首のけがに苦しんだ時期があったものの、2018年のアジアパラ競技大会(インドネシア・ジャカルタ)で銅メダルを獲得。 2019年のアジアオセアニア選手権大会(カザフスタン・アティラウ)で銅メダルを獲得。
竹澤 稔裕(たけざわ としひろ、1983年10月4日 - )… 竹澤 稔裕(たけざわ としひろ、1983年10月4日 - )は、群馬県出身の日本の柔道家。90kg級の選手。身長174cm。組み手は左組み。得意技は内股。 柔道は5歳の時に始めた。尾島中学3年の時には全国中学校柔道大会の団体戦決勝で東京都の弦巻中学に敗れるが2位となった。前橋商業高校に進むが、2年の時にインターハイ90kg級でベスト16止まりになるなど、際立った活躍は見られなかった。2002年に筑波大学へ進むと、1年の時には世界ジュニアで5試合オール一本勝ちでの優勝を飾って、ベスト柔道家と一本トロフィー賞を同時受賞する活躍を示した。体重別団体は3位だった。青島国際でも3位にとどまった。2年の時には学生体重別では3位だったが、体重別団体ではチームの優勝に貢献した。
吉澤 穂波(よしざわ ほなみ、1980年1月24日 - )は… 吉澤 穂波(よしざわ ほなみ、1980年1月24日 - )は埼玉県出身の日本の柔道家。63kg級の選手。身長163cm。組み手は左組み。得意技は内股。 柔道は9歳の時に男衾柔道クラブで始めた。寄居中学から常磐高校へ進むと、2年の時には全国高校選手権の63kg級決勝で湊川女子高校2年の前田桂子に豪快な内股で投げられて2位にとどまった。 埼玉大学へ進むと、1年の時には正力杯で決勝まで進むも、大学の3年先輩となる山田真由美に敗れて2位だった。4年の時には正力杯で優勝を飾った。また、優勝大会では同級生である70kg級の古賀幸恵などとともに活躍して優勝を飾った。全国女子体重別と福岡国際でも3位に入った。2002年には埼玉大学の大学院へ進んだ。
北爪 弘子(きたづめ ひろこ、1971年9月8日 - )は、… 北爪 弘子(きたづめ ひろこ、1971年9月8日 - )は、群馬県の佐波郡赤堀町出身の日本の柔道家。身長155cm。現役時代は61kg級の選手。得意技は背負投、一本背負投。現姓は石川。 中学1年の時に親戚が経営している柔道の道場に入門を志すも、女人禁制を理由に断られたが毎日のように道場に日参したことで、師範が根負けして入門が許可されることになった。中学3年の時には強豪校の東中学に転向した。常磐高校に入学すると、1年の時には無差別で争われる金鷲旗の女子個人戦で3位となった。全国高校選手権では1年の時から2連覇を達成した。3年の時には強化選手選考会でも優勝を飾った。1990年に埼玉大学に進学すると、強化選手選考会で2連覇を達成した。
岡泉 茂(おかいずみ しげる、1968年4月2日 - )は、… 岡泉 茂(おかいずみ しげる、1968年4月2日 - )は、埼玉県出身の柔道家。現役時代は95kg級の選手。身長180cm。得意技は背負投。 小学校2年の時に柔道を始めた。前橋商業高等学校、東海大学と進むも、新人体重別で3位に2度入った(1986,88年)以外にこれといった活躍をする事はなかったが、新日本製鐵に入社して社会人になって、それまでの86キロ級から95キロ級に階級を変更してから実力を発揮し始めた。1993年から講道館杯で2連覇するなど実績を積み上げていった。1994年には広島アジア大会代表になり、その決勝では背負い投げからの抑え込みで一本勝ちして見事な逆転勝ちの優勝を飾った。翌年千葉で開催された世界選手権にも代表となり、前回のチャンピオンであるハンガリーのアンタル・コバチを破る健闘を見せるものの、ポーランドのパウエル・ナツラには敗れるが、何とか3位は確保した。
安部 一郎(あべ いちろう、1922年11月12日 - 20… 安部 一郎(あべ いちろう、1922年11月12日 - 2022年2月27日)は、日本の柔道家。講道館十段。 1950年代以降のヨーロッパにおいて講道館柔道の普及に尽力し、斯道の国際的発展に大いに貢献した。帰国後は講道館国際部部長や同審議部部長を経て、同参与を務めた。 秋田県の生まれ。両親が山形県出身であったため本籍はしばらく山形県西村山郡谷地町にあった。父親が農林省(現・農林水産省)に勤める国家公務員であった関係で安部は幼少時より宮崎県や岐阜県など日本各地を転々とし、中学校の入学時には群馬県の前橋市に住んでいた。 旧制前橋中学校(現・県立前橋高校)に入学すると体育のほかに軍事教練や武道の授業があり、武道は剣道と柔道のどちらかを選択することになる。
関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 -… 関口 恒五郎(せきぐち つねごろう、1910年7月29日 - 1988年11月3日)は、昭和時代の日本の柔道家、関口病院院長。全日本学生柔道連盟会長などを歴任[要出典]。講道館八段。父は関口孝五郎、兄は関口林五郎。
関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉… 関口 林五郎(せきぐち りんごろう、1899年〈明治32年〉3月5日 - 1973年〈昭和48年〉6月26日)は、日本の医師(関口整形外科病院院長、群馬県医師会会長)、柔道家(講道館八段)。父は接骨師で柔道八段・関口孝五郎、弟は医師で柔道八段・関口恒五郎。群馬県体育協会会長、群馬県公安委員長、群馬県立前橋高等学校同窓会長。正五位、藍綬褒章、紺綬褒章、勲三等瑞宝章受章。 1899年(明治32年)3月5日、柔道家・関口孝五郎の長男として、群馬県群馬郡白郷井村(北群馬郡子持村を経て現在渋川市)に生まれる。2歳の時父が柔道場「弘道館」を開いたため前橋市に移住。旧制・群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)卒業後、旧制・日本医学専門学校(現・日本医科大学)に進み1923年(大正12年)卒業。
田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年1… 田中 良三(たなか りょうぞう、1898年 - 1985年10月9日)は、日本の柔道家。 明治31年群馬県安中市生まれ。日本柔道選士権大会 第六回3位。第八回準優勝、講道館6段(財団法人講道館 記録資料より)。県立高崎高等学校など、広く後進の育成にあたり、篠原秀吉らと共に群馬県柔道界を牽引した。最終段位は講道館8段。 赤川徳次郎(六段/東京)− 田中良三(六段/群馬) この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P柔道/PJ柔道)。
関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1… 関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1872年12月14日〉 - 1953年〈昭和28年〉6月6日)は、明治から昭和にかけての日本の柔道家、柔道整復師。柔道範士、講道館八段を有し、群馬県の柔道の先駆者となった。長男・林五郎、次男・恒五郎はともに柔道八段。 明治5年(1872年)、群馬県西群馬郡中郷村(現・渋川市中郷)の農家に、父儀平治、母タケの長男として生まれる。1877年(明治15年)、渋川町の田子亀之丞に入門し、荒木霞新流柔術を習った。1896年(明治29年)に上京し、講道館に入門。 1900年(明治33年)に群馬県に帰り、前橋市曲輪町(現・千代田町)に嘉納治五郎命名による道場・弘道館を開く。