石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7… 石本 新六(いしもと しんろく、1854年2月17日〈嘉永7年1月20日〉- 1912年〈明治45年〉4月2日)は、日本の武士(姫路藩士)、陸軍軍人。陸士旧1期。陸軍中将正三位勲一等功二級男爵。 姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる。1855年(安政2年)、安政江戸地震で父と祖母を失う。1869年(明治2年)、開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、1877年(明治10年)7月、工兵少尉に任官。1878年(明治11年)12月、陸士(旧1期)を卒業した。 後、フランスに留学し、1881年(明治14年)8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国。
石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(185… 石橋 絢彦(いしばし あやひこ、嘉永5年12月27日(1853年2月5日) - 昭和7年(1932年)11月25日)は、日本の武士(幕臣)、土木技術者。工学博士。位階および勲等は従四位・勲二等。 幕臣与力の中井国蔵長親・中井ふくの五男として嘉永5年12月27日、江戸浅草新堀端に生まれる。元治元年、幕臣石橋和三郎福庵の養子となったが、義父福庵は明治元年4月2日失踪した。明治12年(1879年)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。同年、下谷区仲御徒町に住する幕臣青山安保(義父福庵の異母兄)の長女の菊(文久3年6月28日生)と結婚。逓信省に出仕。イギリスに留学し灯台工事、その他の海上工事を研究する。
川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845… 川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845年1月28日) - 昭和2年(1927年)2月5日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和の旗本、大蔵省官僚、教育者。川路聖謨の孫に当たる。通称は太郎、諱は温、寛堂は号だが、伊藤博文秘書役時代、公文書に寛堂と署名していたため、本名も寛堂になったという。 弘化元年(1844年)12月21日、江戸番町冬青木坂上に川路彰常の長男として生まれた。弘化3年(1847年)9月25日、2歳で父と死別し母も再婚して別離、大叔父の井上清直夫妻に引き取られ養育された。嘉永3年(1850年)2月27日に下総佐倉藩医鏑木仙安の手で牛痘を接種、嘉永4年(1851年)6月22日に6歳で奈良奉行を退任して江戸へ召還された祖父川路聖謨と面会して川路家に戻り、祖父の庇護を受けた。
沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月2… 沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月21日〈天保14年12月2日〉 - 1890年〈明治23年〉5月17日)は、幕末の幕臣。明治時代の政治家、ジャーナリスト。雅号は不二峰楼主人(ふじほうろうしゅじん)、弄花生(ろうかせい)。幕府軍に参加し戊辰戦争で捕縛されるも放免され、大蔵省・司法省出仕。岩倉使節団の一員であり、嚶鳴社を組織し自由民権運動を展開。立憲改進党の結党に参画し、東京府会議長も務めた。実業家としても『横浜毎日新聞』を買い取り、『東京横浜毎日新聞』を創刊した。 天保14年12月(1844年1月)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名は慎次郎。兄に銀行家の須藤時一郎、弟に高梨哲四郎がいる。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年… 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、警察官、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。戊辰戦争では衝鋒隊副隊長として各地を転戦し、箱館戦争まで戦った。明治3年(1870年)2月、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日… 谷 干城(たに たてき/たに かんじょう、天保8年2月12日〈1837年3月18日〉- 明治44年〈1911年〉5月13日)は、日本の武士(土佐藩士)、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。 幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。第2代学習院院長。東京学士会院会員。 天保8年2月12日(1837年3月18日)、土佐藩に仕える儒学者・谷景井(萬七。
近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日〈1834年1… 近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月9日〈1834年11月9日〉 慶応4年4月25日〈1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保 剛(おおくぼ たけし)を名乗り、後にさらに大久保 大和(おおくぼ やまと)と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。 天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市野水)に百姓である父・宮川久次郎と母・みよの三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改めた。久次郎には勝五郎の他にも、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎、乙五郎、源治郎)、次男・粂次郎(粂蔵、惣兵衛)と、祖父の源次郎がいた。
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827… 小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。 通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗っていた。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。