杉内 由紀(すぎうち ゆき、旧姓:古舘(ふるだて)、1980… 杉内 由紀(すぎうち ゆき、旧姓:古舘(ふるだて)、1980年8月3日 - )は、日本の女性元総合格闘家、ブラジリアン柔術家。 ポゴナ・クラブジム所属。東京都町田市出身。夫は総合格闘家の杉内勇。 今成正和を擁するTeam ROKENの紅一点として、2004年5月16日のスマックガールFに参戦、「SGG 1Dayトーナメント2004 ライト級」に出場し1回戦で吉田正子を腕ひしぎ十字固めで下すも、準決勝で茂木康子に判定で敗れる。 総合デビューは同年11月26日のG-SHOOTO・Zepp Tokyo大会で柴田郁美相手に腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。2006年2月5日にはDEEPに初参戦するもMIKUにチョークスリーパーで一本負け。
塩田“GoZo”歩(しおだ“ゴーゾー”あゆむ、1973年10… 塩田“GoZo”歩(しおだ“ゴーゾー”あゆむ、1973年10月11日 - )は、東京都八王子市出身のブラジリアン柔術家。 パラエストラ八王子所属。 2001年にパラエストラ八王子を設立し現在はジム運営と選手育成に専念。 幼少の頃からずっとプロレスに興味があったが、4月に初のK-1、9月にはパンクラスが旗揚げ、11月には初のUFC大会が開催されるなど、格闘技雑誌も含め盛り上がりを見せたこの年に、現在のゴーゾーの原点となるものに出会う。 初のUFC大会で優勝した(当時のUFCは無差別級トーナメント制)ホイス・グレイシーは、プロレスラーのように身体が大きいわけではなく、むしろ小さい身体で、しかも無差別級で優勝したということを雑誌で知り、この頃まだグレイシーが日本で無名だったことも手伝って、非常に大きな衝撃を受けた。
石川 智広(いしかわ ともひろ、1960年7月2日[要出典]… 石川 智広(いしかわ ともひろ、1960年7月2日[要出典] - )は、日本の武術家。 東京都世田谷区出身。現在も専業の武道家であり、武道経営で家族を養った。大東流合気柔術(山本角義派)、無限神刀流居合術(真剣術、真剣刀法)、会津藩伝小野派一刀流の三流派学び教授代理の資格を長尾全祐に印可される。現在大東流合気柔術総主は現在、平岡祥淑であり、大東流山本角義派千葉支部での指導を行っている。斎号は一刀斎 また、千葉・東京・茨城・カナダに全22か所道場を構える(一社)氣と丹田の合気道会 楽心館の主宰者である。 楽心館は合気会/養神館/心身統一合気道会などの合気道団体に加盟せず、剣術や古流柔術の型を用いながら合氣的な技法の修錬を行っている。
白石 安男(しらいし やすお、1958年8月21日 - )は… 白石 安男(しらいし やすお、1958年8月21日 - )は、日本の医学者、教育者、武道家。博士(医学)(順天堂大学)。東京理科大学元教授。専攻分野は保健衛生学およびスポーツ医学。研究分野は保健衛生学、運動スポーツの疫学。東京理科大学維持会特別会員。東京都出身。 東京都荒川区南千住にて生まれる。日本大学第一中学校・高等学校を経て、東京理科大学理工学部数学科を卒業後、浦和市立東浦和中学校で教職(数学)に就く。 その後、中京大学大学院体育学研究科修士課程に入学し、スポーツと健康の疫学を専攻。妊産婦の水中運動と出生体重の関連について調査・研究を行った。1991年、同大より体育学修士の学位を授与される。
木村 達雄(きむら たつお、1947年 - )は、日本の数学… 木村 達雄(きむら たつお、1947年 - )は、日本の数学者、武道家。筑波大学名誉教授。理学博士。大東流合気武術十元。東京都出身。 東京大学理学部数学科卒業。 同大学院修士課程修了。 名古屋大学助手、プリンストン高等学術研究所研究員、グルノーブル大学(フランス)、マンハイム大学(ドイツ)、ジョンズ・ホプキンス大学(アメリカ)各客員助教授などを歴任。 佐藤幹夫が創始した概均質ベクトル空間の理論、とくに既約概均質ベクトル空間の分類など、主として分類理論を研究した。 武道家でもあり、剣道三段、合気道五段、大東流合気武術奧伝四段(第十元直伝講習終了)。武道家佐川幸義(大東流合気武術宗範)の直弟子であり、その書は多くの武道・格闘技愛好者に読まれている。
塩田 剛三(しおだ ごうぞう、1915年(大正4年)9月9日… 塩田 剛三(しおだ ごうぞう、1915年(大正4年)9月9日 - 1994年(平成6年)7月17日)は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。合気道の流派養神館合気道設立者。本名・塩田剛(しおだ たけし)。身長154cm、体重46kgと小柄な体格ながら「不世出の達人」と評され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。 医師・塩田清一の次男として生まれる。自伝[要文献特定詳細情報]によると父は小児科医として名高く、貧しい人からは治療費を取らず、金持ちからはがっちり頂いていたという。また軍人や政治家とも親交が深く、様々な知己を得ていたという。かなり裕福な家庭に育ち、不自由は何一つなかった。
2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年… 2代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、1888年〈明治21年〉6月25日 - 1959年〈昭和34年〉7月6日 / 7月16日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家、武道家。貴族院多額納税者議員。幼名・仙八 / 千八、名は応義(まさよし)。 群馬県佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)で、剣道範士本間三郎の二男として生まれる。1907年(明治40年)東京府の錦城中学校を卒業、中央大学を中退。 伯父の初代千代吉の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続し2代千代吉を襲名した。1917年以降、上毛貯蓄銀行、群馬県農工銀行、伊勢崎銀行、群馬銀行、粕川水電などの重役を歴任したほか、赤堀村農会長、同村会議員などを務めた。