内藤 いづみ(ないとう いずみ、1956年 - )は、日本の… 内藤 いづみ(ないとう いずみ、1956年 - )は、日本の医師、評論家。山梨県西八代郡六郷町(現・市川三郷町)出身。山梨大学教育学部附属中学校、山梨県立甲府南高等学校、福島県立医科大学医学部卒業。三井記念病院内科、東京女子医科大学病院第一内科等に勤務。1986年から英国プリンス・オブ・ウェールズ・ホスピスで研修を受け、1995年甲府市にふじ内科クリニックを設立、院長。日本ホスピス・在宅ケア研究会理事。大正大学客員教授。
篠原 章(しのはら あきら、1956年 - )は、日本の評論… 篠原 章(しのはら あきら、1956年 - )は、日本の評論家・元大東文化大学環境創造学部教授。専門は財政学。
藤巻 昇(ふじまき のぼる、1948年(昭和23年)4月28… 藤巻 昇(ふじまき のぼる、1948年(昭和23年)4月28日 - )は、元競輪選手、現在はスポーツ報知北海道総局所属の競輪評論家。現在の山梨県笛吹市石和町出身。日本競輪学校第22期卒業。初出走は1966年1月11日の立川競輪場で初勝利も同日。 競輪選手としての最初の登録地は山梨県であったが、後に高原永伍らがいた平塚競輪場に練習拠点を移したことから神奈川県へと移籍。さらに1973年からは、夫人の郷里である北海道へと移籍し、以後は函館競輪場をホームバンクとしていた。 山梨県立甲府工業高等学校を中退した後、実父の藤巻清一が選手であったことから日本競輪学校を受験し合格。後に弟3人(藤巻清志・藤巻勝・藤巻進) も選手となり、競輪一家としても名を馳せるようになる。
三枝昻之(さいぐさ たかゆき、1944年1月3日 - )は、… 三枝昻之(さいぐさ たかゆき、1944年1月3日 - )は、日本の歌人・文芸評論家。歌誌「りとむ」主宰。日本歌人クラブ名誉会長。山梨県立文学館館長。宮中歌会始の選者でもある。(「たかゆき」は「昂之」ではなく「昻之」) 山梨県甲府市生まれ。父・清浩は窪田空穂門下の歌人。五人兄弟の四男。歌人の今野寿美は妻、同じく歌人の三枝浩樹は弟(五男)。歌人の萩原慎一郎に影響を与えた。 幼少期に脊椎カリエスにかかり、小学校には8年間通った。早稲田大学高等学院進学とともに甲府から上京。弟浩樹とともに歌誌「沃野」に入会し、植松寿樹に師事。早稲田大学入学と同時に早稲田大学短歌会に入会。上級生の佐佐木幸綱や福島泰樹と知り合う。
中村 哲郎(なかむら てつろう、1942年11月23日 - … 中村 哲郎(なかむら てつろう、1942年11月23日 - )は、歌舞伎を中心とした演劇研究者、評論家。 山梨県甲府市の温泉旅館で生まれ育った。山梨県立甲府第一高等学校卒、早稲田大学文学部に学び、郡司正勝に師事。国立劇場(1967年開場)に勤務したが数年で退職を経て、中学1年でやみつきになった歌舞伎を軸に半世紀を超えた観劇歴で、演劇研究・執筆活動を行う。 1983年『西洋人の歌舞伎発見』で芸術選奨文部大臣新人賞、2007年『歌舞伎の近代 作家と作品』で日本演劇学会河竹賞・AICT演劇評論賞、2012年『花とフォルムと 転換する時代の歌舞伎評論』で芸術選奨文部科学大臣賞をそれぞれ受賞。2021年、『評話集 勘三郎の死 劇場群像と舞台回想』で第72回読売文学賞を受賞。
島田 紀夫(しまだ のりお、1940年12月11日 - )は… 島田 紀夫(しまだ のりお、1940年12月11日 - )は、日本の美術評論家。実践女子大学名誉教授。ブリヂストン美術館館長。 山梨県甲府市生まれ。 東北大学理学部卒、1965年同文学部美学美術史学科卒、1967年同大学院修士課程修了。石橋財団ブリヂストン美術館学芸課長、実践女子大学教授。2000年山梨県立美術館館長兼務。2006年ブリヂストン美術館館長。2008年実践女子大退職、名誉教授。
井尻 千男(いじり かずお、1938年8月2日 - 2015… 井尻 千男(いじり かずお、1938年8月2日 - 2015年6月3日)は、日本の評論家、コラムニスト。拓殖大学名誉教授、拓殖大学日本文化研究所顧問(前所長)。新しい歴史教科書をつくる会顧問。 山梨県出身。立教大学文学部日本文学科卒業後、日本経済新聞社入社。文化部に勤務し、読書面のコラム『とじ糸』 『活字のうちそと』などのコラムを25年間執筆し、コラムニストとして活動。 1982年7月、月刊誌『Voice』誌上において、佐々木敦というペンネームでコラム「ベストセラー最前線」の執筆を開始。連載は1991年3月に『流行の言説・不易の思想―ベストセラー書評社会学』、1996年4月に『読書の醍醐味―ベストセラーで読み解く世紀末』としてまとめられている。
丸山 照雄(まるやま てるお、1932年(昭和7年)4月27… 丸山 照雄(まるやま てるお、1932年(昭和7年)4月27日 - 2011年(平成23年)6月13日)は、日本の宗教評論家、日蓮宗僧侶。雅号は苦佛。 山梨県身延町出身。身延高校在学中から社会運動に傾倒し、立正大学在学中に仏教青年運動「信行会」を組織した。その後同大を中退し、久遠寺塔中の宝聚院麓坊住職、日蓮宗現代宗教研究所調査主任を歴任。 1970年(昭和45年)、東寺真言宗の松下隆洪らと共に、公害を起こした企業を呪い殺す「公害企業主呪殺祈祷僧団」を組織し、四日市市(四日市喘息)や神岡町(イタイイタイ病)などを行脚。それが教団内で問題となり、同研究所を辞職させられ、教団の役職すべてを辞す。以後は宗派にとらわれない広範な宗教・評論活動をおこなう。
永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 19… 永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 1975年5月17日)は、日本の広告研究者、評論家。 山梨県塩山市郊外に生まれる。山梨県立日川中学校、多摩美術大学卒業。台糖株式会社宣伝課長、日本経済新聞社『日経広告手帖』編集長、中部日本放送「CBCレポート」編集長、「週刊明星」創刊にかかわり、市場調査機関・永田オペレーション・センターを設立、のち電通PRセンターとし、初代社長となる。1970年株式会社ジャパーク(JPRC)を創立。評論家として著書多数を著した。 1960年代、永田が電通PR(現電通パブリックリレーションズ)社長時代提唱したとされる。
望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月… 望月 百合子(もちづき ゆりこ、1900年(明治33年)9月5日 - 2001年(平成13年)6月9日)は、日本の評論家。
相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年)… 相田 隆太郎(そうだ りゅうたろう、1899年(明治32年) - 1987年(昭和62年))は、日本の評論家。本名は「茂隆」。 山梨県北巨摩郡明野村(現・北杜市明野町)に生まれる。生家は農業を営む。後年の1963年(昭和38年)10月に『農民文学』第7号に発表した「加藤武雄を偲ぶ」によれば、隆太郎は15歳の時に加藤武雄『土を離れて』を読み感銘を受け、後年の評論活動に影響を与えたという。 隆太郎は菊池寛・加藤武雄らと交流があり、『新潮』『文芸』などの中央の文芸誌に評論を発表している。加藤武雄らが「創作研究会」を開催すると、相田は石原文雄・鑓田研一を誘いこれに参加する。 1922年(大正11年)8月には『早稲田文学』に評論「現文壇の農民小説を論じて『吾が農民』を想ふ」を発表し、注目される。
浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15… 浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15日 - 1931年(昭和6年)4月2日)は、朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。 父・浅川如作、母・けいの次男として山梨県北巨摩郡甲村五丁田(同郡高根町五町田を経て、現在は北杜市高根町五町田)に生まれる。兄は浅川伯教。1891年(明治24年)には村山西尋常小学校に、1901年(明治34年)には秋田尋常高等学校に入学する。 1906年(明治39年)4月、山梨県立農林学校に入学、この頃に浅川政蔵と知り合う。1907年(明治40年)6月にはメソジスト甲府教会で受洗。1909年(明治42年)4月、秋田県大館営林署に就職。