宮島 喜文(みやじま よしふみ、1951年〈昭和26年〉7月… 宮島 喜文(みやじま よしふみ、1951年〈昭和26年〉7月28日 - )は、日本の政治家、臨床検査技師、細胞検査士。自由民主党所属の元参議院議員(1期)。 日本臨床衛生検査技師会会長を6期12年務めたほか、中央社会保険医療協議会専門委員、財務大臣政務官などを歴任した。 長野県下伊那郡泰阜村出身。長野県阿南高等学校卒業後、帝京医学技術専門学校に進学、臨床検査技師となる。 1972年4月、長野県に入庁。20代から30代は、山間地域の医療を担う長野県立木曽病院・阿南病院に勤務。往診の際、患者だけでなく家族の健康状態も尋ねる医師の姿勢に「医療とは、社会を見つめるもの」であると考えるようになったという。
本島 健三(もとじま けんぞう、1926年3月8日 - 20… 本島 健三(もとじま けんぞう、1926年3月8日 - 2014年1月30日)は、日本出身の測量技師、慈善家及びギニア国地図作成事業に尽力した人物である。彼のギニアに対しての慈善活動は、ギニアの発展に大きく貢献し、彼の死後にはギニアの最高位の勲章・コラティエ勲章がギニア政府により授与された。彼は1977年から1982年のギニアの基本地図作成事業以外にも、ギニアの難民への慈善活動や、寄付活動を生涯かけて行い、NGOギニア会の初代会長に任命された人物である。 長野県飯田市(旧名・鼎村)の農家の家系で生まれる。8人兄弟の3男で、兄弟全員男という珍しい兄弟構成だった。幼い頃は体を動かすことが大好きで、木登りや水泳などをしていたという。
浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年… 浅川 彰三(あさかわ しょうぞう、1877年 - 1942年)は長野県出身の造船技師。造船の権威として知られ、東京帝国大学教授も務めた。従四位、勲三等瑞宝章受章。 長野県南佐久大日向にて、1877年(明治10年)4月3日に浅川愿三郎(嘉永3年生)の二男として生まれる。幼少期に起きた秩父事件では生家が豪農として目を付けられ襲撃を受けたが、予め避難しており家族に被害は無かった。1896年(明治29年)松本中学校を卒業。金沢の第四高等学校を経て東京帝国大学工科大学へ進学。1902年(明治35年)7月に同大学の造船学科を卒業し、大阪鉄工所に入社した。ここで日本最初の油槽船・虎丸を設計。その後、1911年(明治44年)に神奈川県の浦賀船渠へ移った。
上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7… 上島 正(かみじま ただし、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 1919年(大正8年))は明治時代の札幌開拓者。信濃国諏訪藩出身。江戸に出て商家に奉公し、行商人、測量師を経て北海道に渡り、札幌で初めて水田稲作に成功、東皐園で花菖蒲等の栽培を行った。 天保9年(1838年)5月15日信濃国諏訪郡南真志野村(長野県諏訪市湖南南真志野)に諏訪藩普請奉行上島幸右衛門の子として生まれた。幼名は源吉で、家督相続後、正と改めた。9歳から17歳まで生之堂鏡湖に書画を学び、画家を志したが、画家は妻帯できないと父に言われ、断念した。 安政2年(1855年)父の命で江戸に出て、森備中守屋敷富木衛門七方に奉公したが、半年後、武家社会を見限り、町家に奉公した。
三溝 謹平(さみぞ きんぺい、1864年10月16日(元治元… 三溝 謹平(さみぞ きんぺい、1864年10月16日(元治元年9月24日)- 1931年(昭和6年)は、明治から大正期にかけて活動した日本の林業技師。農商務省山林局の林業技師を経て、愛知県林業技師として林野の改良や治山事業に携わった。 1864年10月16日(元治元年9月24日)、信濃国筑摩郡和田村(現・長野県松本市和田)に三溝與曾八の三男として生まれた。1890年(明治23年)7月、 帝国大学農科大学林学科乙科を卒業し、同年9月には帝国大学農科大学林学科選科に進学。1892年(明治25年)、農商務省に入省し、大阪大林区署に勤務。1894年(明治27年)には京都府農林学校教師を務めた。1900年(明治33年)、愛知県初の林業技師に任命。