田畑 幸嗣(たばた ゆきつぐ、1972年 - )は、日本の考… 田畑 幸嗣(たばた ゆきつぐ、1972年 - )は、日本の考古学者。専門は東南アジア考古学。早稲田大学文学学術院教授。カンボジア王国友好勲章受章。 長野県生まれ。長野県伊那北高等学校を経て、1995年国際基督教大学教養学部人文科学科卒業。1999年国際基督教大学大学院比較文化研究科博士前期課程修了。2004年上智大学大学院外国語学研究科地域研究専攻博士後期課程満期退学。2005年博士(地域研究)、日本学術振興会特別研究員。2011年サハメトレイ勲章受章。同年東南アジア考古学会奨励賞受賞。2014年早稲田大学文学学術院准教授。2019年早稲田大学文学学術院教授。
戸沢 充則(とざわ みつのり、1932年10月19日 - 2… 戸沢 充則(とざわ みつのり、1932年10月19日 - 2012年4月9日)は、日本の考古学者である。明治大学名誉教授。元明治大学学長。長野県茅野市尖石縄文考古館名誉館長。 長野県岡谷市出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、明治大学文学部卒業。藤森栄一に師事した。旧制中学在学中、土器と出会ったことが考古学研究の始まりとなった。1961年明治大学講師。1967年「先土器時代文化の構造」により明治大学から文学博士の学位を授与される。1968年同教授。のちに考古学博物館長、文学部長、学長を歴任した。 豊富な発掘現場歴を持ち、遺跡調査や保護に大きく貢献している。2000年 - 2002年、日本考古学協会「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」委員長として旧石器捏造事件の検証調査にあたった。
岩崎 卓也(いわさき たくや、1929年7月9日 - 201… 岩崎 卓也(いわさき たくや、1929年7月9日 - 2018年2月4日)は、日本の考古学者、筑波大学教授を歴任。 この間、早稲田大学客員教授(1991年~2000年)、国立歴史民俗博物館客員教授 (1992年~1995年)などを併任。文化財保護では、長野県文化財保護審議会委員、更埴市文化財審議会委員、森将軍塚古墳保存整備委員・発掘調査団長、流山市文化財保護審議会委員、史跡埼玉古墳群保存整備協議会委員などを歴任。
藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月… 藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月15日 - 1973年12月19日)は、日本の考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会会長である。 1911年長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれ、旧制諏訪中学校在学中に考古学に目覚め、両角守一、地理学教師三沢勝衛の指導を受けた。1929年に卒業後、上京、森本六爾の主宰する東京考古学会に入会、本格的に考古学の研究を始めた。森本六爾の死後は、杉原荘介、小林行雄らとともに東京考古学会の運営に携わった。 1936年東京で葦牙書房(あしかびしょぼう)を興し、同社で森本六爾の遺稿集である「日本農耕文化の起源」を出版した。1943年出征、1946年復員の後、郷里諏訪に帰り、古書店「あしかび書房」を経営しながら、諏訪考古学研究所を立ち上げ、諏訪地方の遺跡を中心に発掘調査に当った。
八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 198… 八幡一郎(やわた いちろう、1902年4月14日 - 1987年10月26日)は日本の考古学者。 専攻は縄文時代、民具の研究。
両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2… 両角 守一(もろずみ しゅいち、1897年 - 1936年2月4日)は、日本の銀行家、考古学者。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。父は教育者の両角新治。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業した。長野県諏訪郡平野村(現・岡谷市)にあった小口(おぐち)銀行(現・八十二銀行)に勤務。旧制諏訪中学の同級生に彫刻家清水多嘉示がおり、生涯にわたって親交があった。1923年清水が絵画修行のために渡仏した際には、両角と立木茂が中心となり「渡欧後援画会」を組織し、フランス滞在時の清水の芸術を支えた。また、渡仏滞在費用は清水の父親と渡欧後援画会で支えた。その後、清水を通じて彫刻家アントワーヌ・ブールデルと交流があった。
宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 19… 宮坂 英弌(みやさか ふさかず、1887年3月4日 - 1975年6月11日)は、日本の考古学者、茅野市尖石縄文考古館初代館長。 長野県考古学会初代会長。茅野市名誉市民。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。 1922年に泉野尋常高等小学校(現在の茅野市立泉野小学校)の代用教員となる。このころ俳人、小平雪人が主宰する句会「牧馬会(まきばかい)」に入会。以後小学校教員、中学校教員を務め、1929年、伏見宮博英王の八ヶ岳西側山麓の茅野市の尖石・与助尾根遺跡の発掘を、小平雪人とともに手伝う。その事から考古学の魅力に目覚め、研究を続ける。1930年宮坂が独力で尖石・与助尾根遺跡を発掘、縄文時代中期の集落(ムラ)研究の基礎を築いた。