薮崎 友宏(やぶざき ともひろ、 1973年11月13日 -… 薮崎 友宏(やぶざき ともひろ、 1973年11月13日 - )は中国料理(広東料理・薬膳料理)のシェフ、ソムリエ、料理講師、ワイン講師、薬膳講師、農業従事者、レストランプロデューサー、レストランアドバイザー、宿命鑑定師、神道家。静岡県富士市出身。 エッセンス株式会社代表取締役。南青山Essence オーナーシェフ。NPO法人全日本薬膳食医情報協会(ANY)理事長。神道神祇本庁神職「中教正」 「神に仕える料理人」神職の階位を持つ料理人兼ソムリエ。中国料理・薬膳料理の第一人者として国内外を問わず幅広く活動し、これまで数々のテレビ番組に出演している。日本における薬膳料理の権威として、その名を広く知られている料理人のひとりである。
中山 儀助(なかやま ぎすけ、1932年10月22日 - )… 中山 儀助(なかやま ぎすけ、1932年10月22日 - )は、日本の元政治家、農家。 静岡県藤枝市岡部町でみかんと茶の生産を手がける農業を営む。元岡部町議会議員。第3子(長男)の中山雅史は、元プロサッカー選手、元ヤマハ発動機社員。 農家の長男として生まれ、家業を継いだ。岡部町議会議員を3期12年務めた(勇退後も岡部町の様々な役職を務める)。 1993年、長男・雅史がFIFAワールドカップアジア最終予選(ドーハの悲劇)で有名になると、父親の儀助も静岡弁丸出しで(いまだに)息子・雅史を「小僧」と呼ぶなどの飾らない言葉づかいや話し振り、人柄の良さが世間の注目を浴び、「ゴン父」の愛称で知られるようになった。
角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1… 角替 九郞平(つのがえ くろへい、1866年〈旧暦慶応2年1月〉 - )は、日本の農家、政治家、銀行家。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられているため、角替 九郎平とも表記される。 静岡県小笠郡土方村会議員、静岡県小笠郡土方村長、株式会社内田銀行頭取などを歴任した。 静岡県小笠郡土方村で農業を営んでいたが、政治家に転身し土方村会の議員に就任した。さらに土方村の村長に就任するなど、公職を歴任した。その後、内田銀行の頭取に就任するなど、銀行家としても活動した。 1866年(旧暦慶応2年1月)に角替九郞次の長男として生まれた。静岡県小笠郡土方村で農業を手広く手掛けており、角替家は豪農として知られていた。
川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5… 川島 瀧蔵(かわしま たきぞう、1858年9月17日(安政5年8月11日) - 1930年(昭和5年)3月26日)は、明治から昭和時代初期の政治家、畜産家。衆議院議員(1期)。 遠江国、のちの静岡県山名郡於保村(磐田郡於保村を経て現磐田市)出身。畜産業を営み、興農社、畜産組合、共同競馬会などを創立したほか、獣医養成所、水産物製造伝習所を設立した。ほか、副戸長、村長、静岡県会議員、同参事会員、磐田郡会議員、地方森林会議員を歴任した。1904年(明治37年)3月の第9回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
初代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1842年5月17日… 初代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1842年5月17日(天保13年4月8日)- 1923年(大正12年)12月25日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。 遠江国城東郡丹野村(のち静岡県小笠郡川野村、現菊川市)で、地主・里正、三橋四郎助の長男として生まれる。和漢学を修め、丹野村の里正となる。 明治維新後、浜松県第十五区戸長、第三大区十三小区長、兼学区取締、浜松県第十三番中学区内学区取締、静岡県会議員、同議長、同常置委員などを務めた。1898年3月、第5回衆議院議員総選挙に静岡県第四区から出馬して当選。さらに第6回総選挙でも再選され、憲政本党に所属して衆議院議員を連続二期務めた。 茶園の経営に尽力し、1890年、内国勧業博覧会に自家製の緑茶を出品し有功三等章を受章した。
田村 又吉(たむら またきち、1842年2月14日(天保13… 田村 又吉(たむら またきち、1842年2月14日(天保13年1月5日)- 1912年(大正元年)11月14日)は、日本の農業指導者である。 伊豆の賀茂郡稲取村(現在の静岡県東伊豆町)に生まれる。幼少時に寺子屋にて学び、農業や和漢の著書の研究に携わった。明治維新後の1876年(明治9年)には同村の地主総代を務め、当時漁業が盛んであったものの、大部分が山林で耕地が少なかったことにより植林事業に携わる。翌1887年(明治10年)には地元稲取村等4つの村の戸長を務め、寒天の原料となるテングサの栽培及び採取を初め稲取村の特産品として名を広めた。またこの栽培の利益の寄付により、学校や水道局、病院等の公共施設の整備にも携わる。
岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10… 岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山、天保10年10月21日(1839年11月26日) - 大正4年(1915年)1月1日)は、日本の農政家、報徳運動家、実業家、政治家、衆議院議員。遠江国報徳社社長、掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)創業者。 二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。 遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812… 岡田 佐平治(おかだ さへいじ、文化9年7月10日(1812年8月16日) - 明治11年(1878年)3月3日)は、幕末-明治時代の農業指導者、報徳運動家。名は清忠。字は至誠。号は無息軒。 遠江国佐野郡倉真村(現:静岡県掛川市)の豪農。15歳で家を継ぐ。二宮尊徳の報徳思想を安居院庄七から学び感銘し、嘉永元年(1848年)居村に牛岡組報徳社を結社。長男良一郎と共に領内の荒地開墾、窮民救済に尽力した。明治8年(1875年)遠江国報徳社を設立し、社長となる。 大正7年(1918年)、従五位を追贈された。
河井 重高(かわい しげたか)は、日本の農家。通称は弥八郎(… 河井 重高(かわい しげたか)は、日本の農家。通称は弥八郎(やはちろう)。 遠江国佐野郡上張村庄屋、掛川藩人夫隊宰領、などを歴任した。 遠江国出身の農家であり、佐野郡上張村の庄屋(名主)を務めていた。掛川城に侵入して減租を直訴したことから、義民としても知られている。異国船の来航に際しては、掛川藩の領民で結成された人夫隊の宰領に任じられ、沿岸警備にも貢献した。 1834年(旧暦天保5年)、遠江国佐野郡上張村にて生まれた。生家である河井家は富農であった。重高は掛川藩により庄屋に任じられ、村政を預ることになった。 安政年間になると、厳しい旱魃をはじめ、地震、台風、洪水、疫病など、さまざまな災害に見舞われるとともに、掛川藩の領内は凶作に陥った。