津田 昌太朗(つだ しょうたろう、1986年2月22日 - … 津田 昌太朗(つだ しょうたろう、1986年2月22日 - )は、兵庫県姫路市出身の日本の編集者、音楽フェスティバル情報サイト「Festival Life」編集長、シャーロット株式会社代表取締役、ラジオパーソナリティである。 兵庫県立姫路西高等学校を卒業後、慶應義塾大学に進学。大学卒業後、広告会社の博報堂に入社した。会社員として勤務する傍ら、「Festival Life」の運営に関わるようになり、イギリスの音楽フェスティバルであるグラストンベリー・フェスティバルに参加したことがきっかけで、2013年に博報堂を退社。その後イギリスに移住し、海外フェス横断プロジェクト「Festival Junkie Project」を立ち上げ、世界各地の音楽フェスティバルを取材している。
荻上 チキ(おぎうえ チキ、男性、1981年〈昭和56年〉1… 荻上 チキ(おぎうえ チキ、男性、1981年〈昭和56年〉11月2日 - )は、日本の評論家、編集者、ラジオパーソナリティ。ニュースサイト『シノドス』編集長、特定非営利活動法人「ストップいじめ!ナビ」代表理事、 一般社団法人「社会調査支援機構チキラボ」代表理事を歴任。TBSラジオでは『ニュース探究ラジオ Dig』『荻上チキ・Session-22』『荻上チキ・Session』でパーソナリティを担当した。専門はテクスト論、メディア論。メールマガジン「αシノドス」の編集長も務めた。単著は『ウェブ炎上』『ネットいじめ』『社会的な身体』、『検証 東日本大震災の流言・デマ』『彼女たちの売春』『いじめを生む教室』など。
佐渡島 庸平(さどしま ようへい、1979年7月24日 - … 佐渡島 庸平(さどしま ようへい、1979年7月24日 - )は、日本の実業家、編集者、著作家。従弟はセーフィー創業者・代表取締役社長CEOの佐渡島隆平。 兵庫県神戸市出身。小学6年生の夏まで東京学芸大学附属世田谷小学校に通う。神戸市に住む同い年のいとこの家に居候し中学受験をするが、甲陽学院中学校と麻布中学校に不合格になり、家族を追って渡航した。三井物産に勤務する父の仕事の関係で中学時代を南アフリカ共和国で過ごし、ヨハネスブルグ日本人学校に学ぶ。 中学3年生の夏に帰国。遠藤周作が好きだったこともあり、灘高等学校に進学。高校の同期に物理学者の立川裕二・伊藤弘毅、経営コンサルタントの岡村聡、登山ガイドの山田淳らがいる。
山中 武史(やまなか たけし、1974年 - )は、日本の編… 山中 武史(やまなか たけし、1974年 - )は、日本の編集者。 兵庫県宝塚市生まれ。灘中学校・高等学校を経て、1997年に東京大学文学部を卒業。同年に講談社入社。フライデー、週刊現代などで勤務し、2015年~2017年に週刊現代編集長を務める。現在は企画部ノンフィクション編集部で単行本編集を担当。主な担当作に『大人の流儀』(伊集院静)、『地面師』『国商 最後のフィクサー葛西敬之』(森功)、『朝日新聞政治部』(鮫島浩)、『勝ちにいく覚悟』(泉房穂)、『ザ・芸能界 首領(ドン)たちの告白』(田崎健太)。
稲垣麻由美(いながき まゆみ、1968年- )は、文筆家・編… 稲垣麻由美(いながき まゆみ、1968年- )は、文筆家・編集者。ブランディングを手掛ける株式会社一凛堂代表取締役でもある。Japan Craft Book project 代表。 神戸市生まれ。大阪教育大学卒業。 ライター・編集者を経て執筆活動をスタート。現在、執筆の活動と並行し、政治家・経営者・ビジネス書著者を主なクライアントとしたブランディング事業も展開。7年近い取材を経て刊行した『戦地で生きる支えとなった115通の恋文』(扶桑社)は、舞台『逢いたくて』の原案となった他、「一筆啓上 日本一短い手紙の館」(福井県)にて1ヶ月の企画展にもなり、話題の1冊となる。2021年、画家・書家・デザイナー・表装美術家・伝統工芸職人などのクリエイターともに「Japan Craft Book project」をたちあげ、 2024年『神迎え』を完成させた。
若菜晃子(わかな あきこ、1968年 - )は、兵庫県神戸市… 若菜晃子(わかな あきこ、1968年 - )は、兵庫県神戸市出身の編集者・文筆家。 学習院大学文学部国文科を卒業後、山と溪谷社に入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長をへて独立。山や自然、旅に関する書籍を編集・執筆。2020年、『旅の断片』で斎藤茂太賞受賞。
宮崎博(みやざきひろし、1963年3月21日生まれ)は、日本… 宮崎博(みやざきひろし、1963年3月21日生まれ)は、日本の編集者、文筆家である。 兵庫県神戸市生まれ。明治大学法学部卒業。専攻は法社会学。大学のゼミでは、学者で政治家でもあった栗本慎一郎に学ぶ。 大学卒業後、学習研究社・青人社に入社して雑誌編集者として活躍。青人社で嵐山光三郎が創刊した「月刊ドリブ」5代目の編集長となる。就任後、金と女路線をサブカルチャー色の強い雑誌へと転換させた。 平成6年には、ドリブ別冊の月刊起業塾を編集長として創刊。海外での投資やベンチャービジネスのブームを仕掛ける。その後、青人社取締役を経て、フリーランスとなる。平成13年、サブカル色の濃い雑誌として「月刊レースクイーン・ア・ゴーゴー」をラパンインタナショナルより創刊し、レースクイーンブームの魁となる。
神田 陽司(かんだ ようじ、1962年8月25日 - 201… 神田 陽司(かんだ ようじ、1962年8月25日 - 2016年2月18日)は、日本の講談師、編集者。元日本講談協会理事。本名、吉田 祐二。新作「坂本龍馬シリーズ」など、古典から新作まで手掛けた。 兵庫県尼崎市生まれ。兵庫県立尼崎高等学校、早稲田大学第一文学部哲学科人文専修卒業。 情報誌『シティロード』の演劇担当、副編集長を経て、1990年、講談師2代目神田山陽に入門「陽司」。初高座は1991年1月1日、場所は四谷倶楽部。 1995年、二ツ目昇進。 2001年、山陽没後神田紅門下へ。 2003年、真打に昇進。 2006年2月25日、お江戸広小路亭の独演会で「ホリエモン」をテーマに新作講談を上演。
薩川 昭夫(さつかわ あきお、1962年1月5日 - )は、… 薩川 昭夫(さつかわ あきお、1962年1月5日 - )は、日本の脚本家、映画編集者。日本シナリオ作家協会会員。兵庫県立伊川谷高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。
小峯 隆生(こみね たかお、1959年2月19日 - )は、… 小峯 隆生(こみね たかお、1959年2月19日 - )は、日本の雑誌編集者、ラジオパーソナリティ、元『週刊プレイボーイ』軍事班記者、小説家。映画監督の経験もあり、日本映画監督協会会員。2010年頃より筑波大学非常勤講師、同大学知的コミュニティ基盤研究センター客員研究員、同志社大学嘱託講師。 兵庫県芦屋市出身。東海大学高輪台高校、東海大学工学部(航空工学専攻)卒業。 5歳まで兵庫に居たが、それ以後は東京都在住。大学生時代はシェイクスピア劇研究会に在籍。大学卒業後は外資系企業にてコンピュータのセールスマンを務めていたが、辞職後は東京・新宿の飲食店にてバーテンダーなどのアルバイトをしていた。その後、野坂昭如に出会って「何かやれ」と言われたことがきっかけで、1983年より雑誌『週刊プレイボーイ』(集英社)のフリー編集者となり、名物編集者として知られていく。
村上 知彦(むらかみ ともひこ、1951年11月29日 - … 村上 知彦(むらかみ ともひこ、1951年11月29日 - 2024年12月22日)は、日本の編集者、漫画評論家。元神戸松蔭女子学院大学文学部教授。手塚治虫文化賞選考委員。日本マンガ学会理事、日本漫画家協会参与。 父は「具体」のメンバーだった画家の村上三郎。かつてのニックネームは「ギャーさん」。 兵庫県芦屋市に生まれ、1歳から西宮市で育ち、関西学院中学部・高等部に進学した。高校の文化祭で、阪神間の高校生が作った自主映画の上映を企画。同学年の大森一樹と知り合う。関西学院大学社会学部卒業。 1967年に創刊された漫画雑誌『COM』に衝撃を受け、特に、峠あかね(真崎守の筆名)の漫画評論の影響を受ける。
伊丹 啓子(いたみ けいこ、1948年2月25日 - )は、… 伊丹 啓子(いたみ けいこ、1948年2月25日 - )は、日本の俳人、編集者。兵庫県生まれ。父は俳人の伊丹三樹彦、母も俳人の伊丹公子。夫は沖積舎舎主・沖山隆久。 1948年(昭和23年)兵庫県伊丹市生まれ。兵庫県立西宮高等学校を経て、関西学院大学文学部日本文学科卒業。在学中から父、伊丹三樹彦の結社「青玄」に学んだ他、攝津幸彦と知り合い「関学俳句会」を創立する。1991年、伊丹市芸術家協会新人賞受賞。2005年、伊丹三樹彦が病に倒れ「青玄」終刊、2006年に後継誌「青群」を立ち上げる。編集発行人を経て、顧問。現代俳句協会会員、日本文藝家協会会員。 著書に父の伊丹三樹彦を書いた『軒破れたる』、その師である日野草城を書いた『日野草城伝』などがある。
夜久 弘(やく ひろし、1945年3月1日 - 2015年1… 夜久 弘(やく ひろし、1945年3月1日 - 2015年1月2日)は、日本の漫画編集者、漫画原作者、スポーツライター。ペンネームに但馬弘介。日本文芸社の創業者夜久勉の養子(旧姓:藤原)。 兵庫県朝来郡和田山町(現:朝来市)林垣生まれ。1963年兵庫県立八鹿高等学校卒業。 養父が創立した日本文芸社で長年、漫画雜誌の編集者を務める(経営権は相続しなかった)。『漫画ゴラク』編集者時代に『野望の王国』などを担当。『カスタムコミック』の副編集長時代に、つげ義春に作品を依頼し、それが縁で1984年、つげの作品をメインとする漫画雑誌『COMICばく』を創刊、1987年まで編集長を務めた。 『COMICばく』終刊後、退職。
伊賀 弘三良(いが こうざぶろう、1928年3月16日 – … 伊賀 弘三良(いが こうざぶろう、1928年3月16日 – 1998年11月22日)は兵庫県出身の編集者、出版事業家。祥伝社元社長。 兵庫県神崎郡香寺町(現姫路市)出身。旧制姫路中学校から陸軍予科士官学校、旧制第六高等学校を経て東京大学文学部仏文科卒業。 もともと作家志望だったが、渡辺一夫教授により神吉晴夫に紹介され、1953年、大卒一期生として光文社に入社。同期に、のちの祥伝社社長藤岡俊夫がいた。出版局に配属され、1955年、京大の動物学者伊谷純一郎に『高崎山のサル』を書かせてヒットを飛ばす。 1959年、カッパ・ノベルス創刊編集長に昇進。以後、カッパ・ブックスの編集長を兼任。ノベルスからは松本清張の社会派推理小説を続けて刊行(なお、この「社会派推理小説」という言葉を考えたのも伊賀だという説もある)。
谷田 昌平(たにだ しょうへい、1923年2月26日 - 2… 谷田 昌平(たにだ しょうへい、1923年2月26日 - 2007年8月19日)は、日本の編集者、文芸評論家。堀辰雄の研究で知られる。妻は詩人の牟礼慶子。 徳島県生まれ。兵庫県神戸市出身。大阪府立池田師範学校、東京高等師範学校を経て、京都大学文学部卒。在学中から堀辰雄研究を行い、大阪府立桜塚高等学校教諭時代に遠藤周作と知り合った縁から、「三田文学」に「堀辰雄年表」が掲載される。1954年に新潮社に入社。出版部時代、『武者小路実篤全集』を皮切りに、室生犀星『杏っ子』、幸田文『流れる』、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』など、編集者として数々の話題作を手掛けた。1976年『新潮』編集長。町田に転居した遠藤に誘われて「町田会」にも参加し、多くの文豪たちと交友を持った。
花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1… 花森 安治(はなもり やすじ、1911年10月25日 - 1978年1月14日)は、日本の編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。生活雑誌『暮しの手帖』の創刊者。 1911年、兵庫県神戸市に6人兄弟の長男として生まれる。父親の花森恒三郎は裕福な薬種商であったが、競馬や株などで財を無くし、安治が8歳のときには火事で家が全焼したため長屋暮らしとなった。安治は幼い頃より画才に優れ、神戸市立雲中小学校の同級には田宮虎彦がいた。旧制兵庫県立第三神戸中学校では活動写真部と弁論部に入り、1年浪人して旧制松江高等学校に進む。旧制高校時代、田所太郎らと校友会雑誌(第20号:1932年12月が花森の責任編集号)の編集に参加したことが編集者としての出発点になったと語る。
淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月… 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1998年〈平成10年〉11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。 約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。 兵庫県神戸市(兵庫区)西柳原町にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。
高部 義信(たかべ よしのぶ、1907年12月18日 - 1… 高部 義信(たかべ よしのぶ、1907年12月18日 - 1995年3月11日)は、日本の英語雑誌編集者、英語学者。 神戸市生まれ。1931年東京帝国大学法学部政治学科卒、機械輸入会社勤務、電気学校夜間部講師、1935年研究社に入り『英語研究』主筆となる。太平洋戦争では暁部隊に編入され沖縄から帰還。『英語研究』を改題した『時事英語研究』を創刊し初代編集長となる。73年退職、研究社顧問。叔父は囲碁棋士の高部道平。
桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2… 桔梗 利一(ききょう りいち、1907年〈明治40年〉9月2日 - 1975年〈昭和50年〉9月23日)は、文藝春秋社編集者(1929年〈昭和4年〉7月 - 1943年〈昭和18年〉9月、1953年〈昭和28年〉12月21日 - 1972年〈昭和47年〉9月2日)。
神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15… 神吉 晴夫(かんき はるお、1901年〈明治34年〉2月15日 - 1977年〈昭和52年〉1月24日)は、日本の編集者、出版事業家。カッパ・ブックスの創始者。光文社二代目社長。かんき出版創業者。「戦後最大の出版プロデューサー」と呼ばれる[要出典]。 兵庫県加古川市西神吉町出身。1922年、東京外国語学校仏語部貿易科卒業。1927年、東京帝国大学文学部仏文科を中退し、講談社に入社。自ら8か国語に堪能と称し、野間清治社長から破格の給与で遇された。キングレコード時代は童謡プロデューサーとして「かもめの水兵さん」「赤い帽子白い帽子」「ふたァつ、ふたァつ、何でしょね」などのヒット曲を飛ばす。 1945年10月光文社創立に参加し、編集局長となり、1965から1970年社長を務めた。
小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)… 小林 卯三郎(こばやし うさぶろう、1887年(明治20年)9月6日 ‐ 1981年(昭和56年)11月2日)は、日本の教育者、盲学校創設者、点字出版社編集者、社会事業家である。視覚障害当事者として視覚特別支援教育に尽力し、奈良県視覚障害者教育の始祖と称される。 1887年(明治20年)、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)の商家に生まれる。1891年(明治24年)前後、4歳あるいは5歳で失明。琴三絃を習う。1899年(明治32年)、12歳で叔母の勧めにより京都市立盲唖院入学。按摩・マッサージ技術、中等普通科科目を習得した。1907年(明治40年)3月、京都市立盲唖院を卒業し、同年4月から東京盲唖学校教員練習科入学。