まつもと ゆきひろ(本名:松本 行弘〈読み同じ〉、1965年… まつもと ゆきひろ(本名:松本 行弘〈読み同じ〉、1965年〈昭和40年〉4月14日 - )は、日本のソフトウェア技術者。株式会社ネットワーク応用通信研究所フェロー、楽天株式会社楽天技術研究所フェロー、Rubyアソシエーション理事長、Heroku チーフアーキテクト、株式会社ZOZOテクノロジーズ技術顧問、Linkers株式会社技術顧問、島根県松江市名誉市民。 オブジェクト指向プログラミング言語(スクリプト言語)「Ruby」の開発者として知られる。 氏名は一般に平仮名で表記されることが多い。通称はMatz(マッツ)で、英語圏などで広く定着している。血液型はO型。 大阪府に生まれ、4歳の時から鳥取県米子市に育つ。
中本 晃(なかもと あきら、1945年11月25日- )は、… 中本 晃(なかもと あきら、1945年11月25日- )は、日本の技術者、実業家。島津製作所代表取締役社長を経て、同社代表取締役会長、京都工業会元会長。 鳥取県生まれ。鳥取県立米子東高等学校を経て、1969年大阪府立大学工学部卒業、島津製作所入社。品質保証部長、LC部長等を経て、2000年執行役員。2001年取締役。2007年専務取締役。2009年から代表取締役社長を務め、自己資本利益率の向上にあたった。2015年代表取締役会長。2018年京都工業会会長。日本産業機械工業会常任幹事、日本機械輸出組合理事、日本計量機器工業連合会会長等も歴任した。 2023年4月旭日重光章受章。
宮下 稔(みやした みのる、1924年1月12日 - 200… 宮下 稔(みやした みのる、1924年1月12日 - 2007年8月11日)は、日本の鉄道技術者、実業家。京阪電気鉄道社長、会長などを務めた。 鳥取県岩美郡岩美町出身。1945年、京都帝国大学工学部機械工学科卒業後、当時の京阪神急行電鉄(1943年に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道が合併して発足。企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社。車両部門(守口車両部)に配属される。元は軍艦の建造を志望していたが、太平洋戦争の敗戦により鉄道に方向を変更した。 1949年に京阪電気鉄道が京阪神急行電鉄から分離して再発足すると京阪に移り、1967年に車両部長となる。この時代に通勤電車の混雑対策として、日本で初となる5扉通勤電車の京阪5000系電車(1970年製造)を開発した。
長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 20… 長谷川 龍雄(はせがわ たつお、1916年2月8日 - 2008年4月29日)は、日本の技術者。 鳥取県鳥取市出身。1939年に東京帝国大学航空学科を卒業後、立川飛行機に入社。キ94の設計主務などを務める。キ94の翼型は「TH翼」という層流翼で、長谷川の研究の応用である(THは長谷川のイニシャル)。終戦に伴い、1946年にトヨタ自動車工業(現在のトヨタ自動車)に入社。初代トヨエースの主査を皮切りに、初代パブリカ、トヨタスポーツ800、初代カローラの主査を歴任した。1967年に取締役製品企画室副室長に就任、その傍ら初代セリカ・カリーナの開発主査を務める。またそういった量産車以外にもFRP製のスポーティな試作車23A(1956年)なども設計している。
斎尾 慶勝(さいお よしかつ、1889年10月1日 - 19… 斎尾 慶勝(さいお よしかつ、1889年10月1日 - 1986年6月7日)は、日本の海軍軍人、軍事技術者。最終階級は海軍技術中将。 鳥取県東伯郡由良村(現在は北栄町由良宿)出身。父・専勝は初代由良村長で、伯父・徳左衛門は1864年に鳥取藩が最初に築造した砲台場「由良台場」の責任者を務めた人物であった。米子中学校、七高を経て、1916年東京帝国大学工学部造兵学科を卒業。同年海軍造兵中技士として横須賀鎮守府に勤務。1918年海軍造兵大技士(翌年大尉に改称)・佐世保海軍工廠造兵部部員。1922年7月造兵監督官として英国に出張し、翌年6月帰朝。1924年造兵少佐となり、横須賀海軍工廠造兵監督官、1926年に呉海軍工廠砲熕部部員(工務主任)。
大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - … 大立 廉(おおだて れん、明治22年(1889年)4月 - 昭和42年(1967年)4月)は、日本の技術者、政治家。元米子製鋼所長。元成実村会議員。 鳥取県西伯郡成実村(現在の米子市)の農家に生まれた。唯次郎の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て明治44年(1911年)大阪高等工業学校卒業。米子製鋼所に迎えられ、生涯ここにとどまって、技術の研究開発につとめ、製鋼業の基盤を確立した。 大立が所長になったのは、坂口豊蔵所長が没した昭和5年(1930年)頃からと思われる。そのころから、新持馨(中国電力の重役)、今井兼文(今井書店の会長)の二人と親交を結び、謡、碁、旅行などの清遊を楽しんでいる。 戦後、大立は野に帰って百姓を始めた。
中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元… 中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元年3月10日)- 1913年(大正2年)5月21日)は、幕末から明治時代の農地改革者、技術者。 庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年(安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。 明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。