後藤田 三朗(ごとうだ みつお、1956年7月5日 - 20… 後藤田 三朗(ごとうだ みつお、1956年7月5日 - 2012年4月1日)は、日本の写真家、「手話の日」の提唱者。 岡山県倉敷市出身。3歳のとき薬禍(薬害)により聾唖となる。1980年多摩芸術学園写真科(現 多摩美術大学芸術部写真科)卒業。1983年に町のスナップ写真を集めた初個展「写真機無音」を東京、名古屋、大阪、広島、岡山で開催。1989年には写真集『盗と夢と写・1977~1988』で第39回日本写真協会を受賞。 ユーモア&ウィットに富んだ表現と、トリミングを行わないフレーミングの正確さが後藤田作品の特徴である。国内外で個展多数。 自身が聾唖であることから手話の普及活動にも取り組んだ。『手話の日』(5月5日、手話は両手の5本の指を使うことから)の提唱者でもある。
南條 直子(なんじょう なおこ、1955年〈昭和30年〉6月… 南條 直子(なんじょう なおこ、1955年〈昭和30年〉6月12日 - 1988年〈昭和63年〉10月1日)は日本の報道写真家、ジャーナリスト (フリーランス)。アフガニスタン紛争のムジャヒディンや山谷のドヤ街の日雇い労働者たちを主な取材対象とした。岡山県出身。名前は南条直子と表記されることもある。また山岡洋子名義での雑誌寄稿もある。1988年、3回目となるアフガニスタン入国取材中にソ連軍が仕掛けた地雷を踏んでしまい死亡(満33歳没)。 1955年6月12日岡山県岡山市で出生。南條は小,中学校で成績もよく、高校は当時岡山県随一の進学校岡山朝日高校に進学した。当初は外科医になる夢を持っていた南條だが、やがて受験一辺倒の学校、敷かれたレールの上を歩むだけで将来の見えてしまったような人生に疑問をもつようになり三年生で高校を中退してしまう。
難波 由城雄(なんば ゆきお、1948年 - )は、日本の写… 難波 由城雄(なんば ゆきお、1948年 - )は、日本の写真家。岡山県新見市出身。近畿大学商学部卒。本名は難波教美。 1948年に岡山県新見市井倉で生まれる。中学1年生からコンパクトカメラで写真撮影を始める。 1972年、家業である後楽園入口の土産物店「残夢軒」で働く傍ら、後楽園の撮影を始める。1973年、ジョロウグモの産卵を観察、必死に卵を守るクモの母性愛と命の神秘に感激し、写真家を志すきっかけとなる。1986年、ジョロウグモの生態を記録した初の写真集を出版。 1999年秋~2000年、おかやま後楽園300年祭実行委員会及び、岡山県郷土文化財団主催による写真展「後楽園の四季」を岡山天満屋他、各地で開催。
三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 -… 三木 淳(みき じゅん、1919年〈大正8年〉9月14日 - 1992年〈平成4年〉2月22日)は日本の報道写真家。1949年(昭和24年)から1956年(昭和31年)まで、日本人で唯一『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の正規スタッフ写真家として活動した。退社後は、フリーランスの報道写真家として国際的に活動した。晩年はアマチュア写真界の発展並びに学校教育に多大な貢献をした。 青年期に『ライフ』(米タイム・ライフ社発行)の表紙に掲載されたマーガレット・バーク=ホワイトの写真と、土門拳が撮影した「傘を回す子供」の写真に感銘を受け、写真家を志す。土門拳、亀倉雄策に師事し、写真を学ぶ。 シベリア抑留中の日本人が帰還する様子を撮影したフォト・ストーリー「日本の“赤色部隊”祖国に帰る」が『ライフ』の巻頭特集に掲載されたのを機に、『ライフ』の正規スタッフ写真家となる。
緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4… 緑川洋一(みどりかわ よういち、1915年(大正4年)3月4日 - 2001年(平成13年)11月14日)は、写真家、歯科医師。生来の名は横山知(さとし)。二科会写真部会員。 岡山県邑久郡裳掛村虫明(現・瀬戸内市邑久町虫明)の呉服商の長男として生まれる。1932年(昭和7年)に上京し、日本大学専門部歯科に入学。1934年(昭和9年)、模型飛行機店の店主と合作でコンテストに応募したボート用スチームエンジンを、海軍省が50円で買い取る。これを元手にドイツ製カメラ・ペルケオを購入し写真撮影を始める。1936年(昭和11年)、日大専門部歯科を卒業。歯科医師国家試験に合格し、東京市蒲田区(現・大田区蒲田)の総合病院に勤務する。
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) -… 石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。ファッションデザイナー・石津謙介の兄。 岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。 一時期、松竹キネマに入社。昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。