竹河内 捷次(たけごうち しょうじ、1943年(昭和18年)… 竹河内 捷次(たけごうち しょうじ、1943年(昭和18年)3月10日 - )は、日本の航空自衛官。第25代航空幕僚長、第24代統合幕僚会議議長。勲等は瑞宝大綬章。 広島県三次市出身。防衛大学校第9期卒業後、航空自衛隊に入隊し、戦闘機パイロットとなる。若い頃はF-86やF-4EJなどで昼夜を問わず緊急発進し、旧ソ連軍機などに直接対峙して対領空侵犯措置任務を行った。 その後、空幕防衛部防衛課長、第5航空団司令、北部航空方面隊司令官、航空支援集団司令官、航空総隊司令官等の要職を経て、1999年(平成11年)7月、第25代航空幕僚長に就任。2001年(平成13年)3月には制服組トップの第24代統合幕僚会議議長(現・統合幕僚長)に就任した。
長田 順行(ながた じゅんこう、本名:木谷順行、1929年4… 長田 順行(ながた じゅんこう、本名:木谷順行、1929年4月4日 ‐ 2007年8月31日)は広島県呉市出身の作家、海上自衛官、暗号研究者。日本暗号協会会長(1986年8月~)。 呉第一中学校(現広島県立呉三津田高等学校)を卒業後、1945年に海軍兵学校予科(第78期、昭和20年4月入校)に入校するが、終戦により閉校となる。1954年広島大学文学部哲学科を卒業。1955年防衛庁暗号専門機関に入り、暗号理論の研究及び解読に従事。1965年海上自衛隊暗号専門部隊に転じ、通信保全業務隊司令となり1983年1等海佐で退職した。 1986年8月日本暗号協会を設立し初代会長。暗号に造詣が深く、暗号関係の著作は1964年から刊行しており多数。
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27… 栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の内務官僚、海軍軍人及び陸上自衛官。第13代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験(高文)行政科に首席で合格し内務省に入省するが、短期現役海軍法務科士官を志願し帝国海軍へ。南方戦線へ従軍し、海軍法務大尉として1945年(昭和20年)8月の終戦を迎える。終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が1948年(昭和23年)まで遅れた。 復員後は官僚に戻らず、弁護士となったが、1950年(昭和25年)に総理府事務官となり、1951年(昭和26年)9月、警察予備隊(保安隊を経て陸上自衛隊)に入隊し、警察士長(陸軍少佐・三等陸佐に相当)に任じられる。
三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25… 三上 作夫(みかみ さくお、1907年(明治40年)5月25日 - 1996年(平成8年)7月24日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最後の連合艦隊作戦参謀で、戦後は自衛艦隊司令官を務める。最終階級は日本海軍では海軍中佐、海自では海将。妻は今村信次郎海軍中将の娘。 広島県芦品郡宜山村(現・福山市駅家町)大橋出身。福山中学を経て海軍兵学校56期を卒業。同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八らがいる。三上は砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官で駆逐艦の砲術長や戦艦日向の副砲長、砲術学校教官などを務めた。海軍大学校甲種37期を卒業。中島親孝、岡田貞外茂、藤村義一らが同期である。在校中に海軍少佐に進級し、第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治… 源田 実(げんだ みのる、旧字体: 源田實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任。大艦巨砲主義だった日本海軍内で、いち早く航空機の有用性を見い出し「零戦」「紫電改」の開発に関与。戦争中は、大本営参謀として真珠湾攻撃を立案・指導。これによりアメリカ太平洋艦隊が機能不全に陥り、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった。以降、ミッドウェー海戦他、海軍の戦闘に参画。また特攻作戦に深く関与し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。戦後1954年(昭和29年)空将補として自衛隊入りし、自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。
溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月… 溪口 泰麿(たにぐち やすまろ、1904年(明治37年)3月10日 - 1992年(平成4年)11月3日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。最終階級は海軍大佐、海将。 漢学塾主・溪口廉造の四男として生まれる。兄は溪口豪介大佐(海兵41期)、妻は山下源太郎大将(海兵10期)の娘。広島高師付中を経て、海軍兵学校に進む。海兵(51期)及び海大(甲種33期)をともに恩賜組で卒業した。太平洋戦争中は大使館附武官補佐官としてドイツに駐在。1945年(昭和20年)4月13日、ソ連軍突入直前のベルリンで「出来得る限り多数の独潜水艦を東亜へ回航すべくドイツ側と折衝せよ」という本国訓令を受けた。ドイツ側と折衝したが、結論は「回航するだけの油がない」であった。