戸倉 三郎(とくら さぶろう、1954年〈昭和29年〉8月1… 戸倉 三郎(とくら さぶろう、1954年〈昭和29年〉8月11日 - )は、日本の裁判官。勲等は桐花大綬章。最高裁判所長官(第20代)。 最高裁判所事務総局審議官、同総務局長、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官を歴任した。
山口県:10人
戸倉 三郎(とくら さぶろう、1954年〈昭和29年〉8月1… 戸倉 三郎(とくら さぶろう、1954年〈昭和29年〉8月11日 - )は、日本の裁判官。勲等は桐花大綬章。最高裁判所長官(第20代)。 最高裁判所事務総局審議官、同総務局長、最高裁判所事務総長、東京高等裁判所長官を歴任した。
福田 剛久(ふくだ たかひさ、1951年5月7日 - )は、… 福田 剛久(ふくだ たかひさ、1951年5月7日 - )は、日本の裁判官、弁護士。最高裁判所上席調査官、静岡地方裁判所所長、東京高等裁判所部総括判事を経て、高松高等裁判所長官。京都大学法学部卒業。山口県出身。2004年5月に犬の医療過誤裁判で、飼い主の慰謝料だけで60万円もの損害賠償を認める判決を出したことで知られる。当該判決は控訴されなかったため最高裁がこの判決を認めるかどうかは不明なままである。
林 景一(はやし けいいち、1951年〈昭和26年〉2月8日… 林 景一(はやし けいいち、1951年〈昭和26年〉2月8日 - )は、日本の元外交官、最高裁判所判事。 アイルランド駐箚特命全権大使、外務省官房長、内閣官房副長官補などを歴任し、2011年から2016年6月まで英国駐箚特命全権大使を務めた。2017年4月、最高裁判所判事に就任。 山口県徳山市(現・周南市)出身。大阪市立島屋小学校、大阪市立天王寺中学校、大阪府立天王寺高等学校を経て、京都大学法学部卒業。 1974年外務省入省。1975年-1977年英語研修(スタンフォード大学政治学部修士課程修了)、在シンガポール大使館、在ソ連大使館、在米国大使館、アジア局南東アジア第二課長、条約局条約課、北米局外務参事官、在英国日本国大使館公使、外務省大臣官房審議官(条約局担当)、条約局長、国際法局長を経て、2005年から2008年まで駐アイルランド大使。
白井 博文(しらい ひろふみ、1938年1月1日 - )は、… 白井 博文(しらい ひろふみ、1938年1月1日 - )は、日本の政治家、裁判官、弁護士。元山口県山陽小野田市長(3期)。 山口県山陽小野田市出身。九州大学法学部卒業。 1968年から2002年12月まで裁判官を務めた。2003年1月、法律事務所を開設。2005年3月まで旧小野田市顧問弁護士を務めた。
町田 顯 (まちだ あきら、1936年〈昭和11年〉10月1… 町田 顯 (まちだ あきら、1936年〈昭和11年〉10月16日 - 2015年〈平成27年〉4月5日)は、日本の裁判官。勲等は桐花大綬章。 山口県下関市出身。若年の頃は司法修習の同期であった宮本康昭らとともに青年法律家協会(青法協)に所属し活動していたが、町田は早々に青法協を脱会している。 福岡高等裁判所長官、東京高等裁判所長官、最高裁判所判事を経て、2002年11月に最高裁判所長官(第15代)などを歴任した。前長官の山口の定年は2002年11月3日だが、休日や式に立ち会う小泉純一郎内閣総理大臣の政治日程が重なり、3日遅れの同年11月6日に皇居で長官任命式が行われた。 最高裁長官在任中、裁判員制度の導入や法科大学院の創設や下級裁判所裁判官指名諮問委員会の設置など司法制度改革に尽力した。
河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 19… 河村 又介(かわむら またすけ、1894年1月1日 ‐ 1979年1月4日)は、日本の法学者、裁判官。
藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)1… 藤井 五一郎(ふじい ごいちろう、1892年(明治25年)11月1日 - 1969年(昭和44年)10月29日)は、日本の弁護士、裁判官。公安調査庁初代長官。 山口県下関市出身。藤井啓一の長男。豊浦中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業。 東京地方裁判所判事となり、裁判長として河上肇の治安維持法違反事件では実刑を、血盟団事件では温情判決を、帝人事件では全員無罪を言い渡した。その後大審院判事。戦後は弁護士を経て、1952年、公安調査庁の初代長官となる(~1962年)。1969年10月29日死去、76歳。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろ… 馬屋原 二郎(うまやばら / うまやはら / まやはら じろう、弘化4年10月17日〈1847年11月24日〉 - 1915年〈大正4年〉11月3日)は、幕末の長州藩士、明治・大正期の裁判官・政治家。貴族院勅選議員。別名、小倉衛門介、小倉右衛門介・衛門太。 長門国阿武郡萩江向村(現山口県萩市)で長州藩士・馬屋原良蔵の二男として生まれる。同志と干城隊、御楯隊を組織して、馬関、三田尻に屯営し、下関戦争、第二次長州征討の小瀬川口の戦いなどに従軍し軍功を挙げた。 明治2年(1869年)留学願を提出し、明治3年(1870年)周布金槌(周布公平)、光田三郎(光妙寺三郎)と共に長州藩費留学生としてフランスに派遣され、ベルギーの大学で法学を学んだ。
堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838… 堀 真五郎(ほり しんごろう、天保9年閏4月11日〈1838年6月3日〉 - 1913年〈大正2年〉10月25日)は、幕末の長州藩の志士で、明治時代の大審院判事、貴族院勅選議員。諱は義彦。変名は有田又四郎。姓は藤原とも。号は水石・風民・白鷺夫・斜石。 天保9年(1838年)4月11日、長門国阿武郡萩町において、妙玖寺の臣・堀文左衛門松園の子として生まれる。年少の頃から軍談を好んで、功名心旺盛だったため、脱藩して各国の志士達、特に久坂玄瑞・高杉晋作らと交友を深めて尊皇攘夷活動に加わった。文久2年(1862年)11月に高杉晋作らの英国公使館焼き討ち事件にも参加し、文久3年(1863年)に八幡隊が結成されると初代総管に就任した。