足立 信也(あだち しんや、1957年〈昭和32年〉6月5日… 足立 信也(あだち しんや、1957年〈昭和32年〉6月5日 - )は、日本の医師、医学者、政治家。大分市長(1期)。筑波大学客員教授、大分大学客員教授。 医師として筑波メディカルセンター病院診療部部長、国立霞ヶ浦病院消化器科医長、筑波大学臨床医学系外科助教授、同外科講師、きぬ医師会病院外科診療科長などを歴任。 政界進出後は厚生労働大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、参議院政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員長、国民民主党参議院幹事長(初代)、旧国民民主党政務調査会長(初代)、民進党政務調査会長(第4代)などを歴任した。 大分県大分市上戸次で、父・二也(つぎや)、母・ウメノの次男として生まれた。
松本 文六(まつもと ぶんろく、1942年11月5日 - )… 松本 文六(まつもと ぶんろく、1942年11月5日 - )は、日本の医師。社会医療法人財団天心堂会長。日本病院会理事。地域医療研究会代表世話人。大分県病院協会副会長。労働者住民医療機関連絡会議議長。 1942年、大分市中戸次の開業医の家に生まれる。九州大学医学部入学後、1968年6月2日のアメリカ軍ファントムジェット機が、九大工学部構内に墜落し(九州大学電算センターファントム墜落事故)、騒然とした中で、医学部学生自治会の委員長となり、8ヵ月に亘るストライキを敢行。 大学闘争の折、インターン制度反対、無給医制度反対の立場をとっていたので、卒業後の研修は大学に入局せず、1971年より小児科医として市中病院で研修・勤務。
広瀬 徹也(ひろせ てつや、1937年 - )は日本の医学者… 広瀬 徹也(ひろせ てつや、1937年 - )は日本の医学者、精神科医。帝京大学名誉教授。医学博士。 うつ病の研究者として知られる。かつて日本に多く見られたうつ病(メランコリー親和型うつ病・内因性うつ病)とは異なる抑うつ像の研究を行い、「逃避型抑うつ(逃避型うつ病)」として提唱した。
時枝 正昭(ときえだ まさあき、1934年〈昭和9年〉10月… 時枝 正昭(ときえだ まさあき、1934年〈昭和9年〉10月30日 - 2016年〈平成28年〉11月29日)は、日本の政治家、内科医。医学博士、大分県宇佐市長(3期)。 大分県宇佐市出身。1959年、九州大学医学部卒業。1967年「飲泉の胆汁分泌におよぼす影響に関する研究」により九州大学から医学博士号を授与された。九州大学温泉治療学研究所講師を務めた。1970年、地元で内科医院を開業する。2000年宇佐市長選挙に立候補し、初当選する。2004年には無投票で再選。翌2005年宇佐市は宇佐郡院内町と安心院町と合併し、新たな宇佐市が発足。合併後の市長選挙に立候補し、無投票で当選した。合併後の宇佐市長を2009年まで1期務めた。
中村 裕(なかむら ゆたか、1927年3月30日 - 198… 中村 裕(なかむら ゆたか、1927年3月30日 - 1984年7月23日)は、日本の医師・整形外科医。身体障害者のスポーツ振興をはかった。日本パラリンピックの父と呼ばれる。 大分県別府市出身。九州大学医学部卒業後、九州大学病院整形外科に医師として勤務。 1958年から大分県の国立別府病院整形外科医長。1966年、大分中村病院を設立。1979年-1983年国際パラプレジア医学会副会長、1979年-1980年日本パラプレジア医学会会長。 1965年に障害者の自立のための施設「太陽の家」を創設。また、障害者スポーツ振興に情熱を傾け、1964年の東京パラリンピックで選手団長を務め、第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)開催に尽力。
岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15… 岩男 頴一(いわお ひでかず、1919年(大正8年)1月15日 - 1976年(昭和51年)8月9日)は、昭和期の医師、政治家。参議院議員、大分県大分郡湯布院町長。 大分県速見郡、のちの由布院村(由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で生まれた。大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て、1943年(昭和18年)日本大学医学科を卒業した。同年に応召し陸軍軍医として従軍した。 復員後に帰郷し岩男医院を継承した。由布院町青年団長、大分郡連合青年団長なども務め、1952年(昭和27年)の由布院盆地ダム化計画に対して反対運動を行い、計画の中止に貢献した。 1955年(昭和30年)湯布院町の発足に伴い初代町長に就任して5期在任した。
御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 19… 御手洗 毅(みたらい たけし、1901年3月11日 - 1984年10月12日)は、日本の実業家、医師。キヤノン創業者・初代社長。また、太平洋戦争以前は産婦人科医として御手洗産婦人科病院を開業。 名古屋大学名誉教授の御手洗玄洋や、キヤノン社長や日本経済団体連合会会長を務めた御手洗冨士夫は甥にあたる。 1901年、大分県南海部郡蒲江町(現・佐伯市)に生まれる。実家は代々医師の旧家。佐伯中学(現大分県立佐伯鶴城高等学校)を経て北海道大学予科に進学、恵迪寮の委員長をつとめる。1928年、北海道大学医学部卒業。上京して日本赤十字病院に勤務。731部隊の石井四郎と師を同じくする。 1933年11月、吉田五郎や内田三郎らの創設した精機光学研究所に共同経営者として参画。
辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月1… 辛島 篤(からしま あつし、1884年(明治17年)11月12日 - 1925年(大正14年)5月30日)は、日本の女性医師。大分県における女性医師の先駆者の一人。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町)に、医師の高木盛胤の三女として生まれる。16歳の時、宇佐郡駅館村(現:宇佐市)出身で大分市で歯科医を開業していた辛島汎と結婚した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) -… 小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年(明治42年)4月26日)は、日本最初の歯科医師。豊前国中津(現・大分県中津市)出身。 中津藩甲州流軍学師範役・小幡孫兵衛の長男で、慶應義塾塾長となった小幡篤次郎の従弟。 藩校・進脩館に学び、15歳で元服して藩大砲方に加わり長州戦争で初陣。1869年(明治2年)20歳で上京、叔父・小幡篤次郎を頼って芝新銭座の慶應義塾に入り、さらに同郷出身の医師・佐野諒元について医学を修め、次いで近藤良薫について横浜で外科を習得。 米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、1874年(明治7年)医制の公布の後、第1回目の医術開業試験に「歯科」として受験し合格した。
黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848… 黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848年11月28日) - 1916年(大正5年)11月4日)は、豊後国直入郡竹田(現・大分県竹田市)出身の医師・政治家・実業家。大分の町、郡会議員、県会副議長を務めるとともに、竹田中学校や竹田駅、黒川文庫(現在の竹田市立図書館の前身)の設立に尽力する。 嘉永元年11月(西暦1848年11)、直入郡竹田(現・大分県竹田市)に黒川正章の嫡男として生まれた。黒川家は18世紀前半から続く医家(藩医)であり、文哲は黒川家の9代目に当たる。 岡藩(竹田藩)の藩校である由学館に学び、元治元年(1864年)には外科医の佐久間純徳に師事した。明治元年12月(1869年1月)には医学修行のために上京を命じられ、明治2年4月(1869年)に東京の岡藩御屋敷に入った。
賀来 満夫(かく みつお、Mitsuo KAKU)は、日本の… 賀来 満夫(かく みつお、Mitsuo KAKU)は、日本の医師、医学者。東北大学 名誉教授。学位は医学博士(長崎大学・1986年)。 東京都参与、東京感染症対策センター(東京iCDC) 所長、東北医科薬科大学医学部 特任教授などの要職も務めている。 実家が調剤薬局を営んでいたため幼少期から病や薬に身近に接していた。また動物好きだったこともありアフリカの野生動物にも興味を抱くようになる。その後、国際保健学で名高い医師のアルベルト・シュヴァイツァーや野口英世が、アフリカ諸国などで感染症と闘ってきた歴史を知り、偉人たちと同じ道に進みたいと考えるようになった。 大分県立大分上野丘高等学校を卒業。多くの感染症医師、微生物学者を輩出している長崎大学医学部を目指し入学した。