大金 直樹(おおがね なおき、1966年12月13日 - )… 大金 直樹(おおがね なおき、1966年12月13日 - )は、日本の実業家、元サッカー選手。 茨城県日立市出身。1982年に茨城県立日立第一高等学校へ進学し、2年生、3年生時には茨城県選抜として国体出場。2期下に東海林毅。1985年に筑波大学へ進学し、4年生時の1988年には関東大学リーグ及び総理大臣杯で優勝。 1989年に大学を卒業し、東京ガスへ入社。社員選手として同社サッカー部(現FC東京)に入部した。ポジションは主にボランチ。1990年に大熊清、川勝良一、小林伸樹らと関東リーグ及び全国地域リーグ決勝大会で優勝を果たし、翌年からは日本リーグ及びジャパンフットボールリーグでプレーを続けた。主将を任されていたが1994年のリーグ第6節東芝戦で前十字靭帯を断裂。
野村 雅之(のむら まさゆき、1966年12月11日 - )… 野村 雅之(のむら まさゆき、1966年12月11日 - )は、東京都生まれ、広島県育ちの元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。岡山県作陽高等学校サッカー部総監督。 1983年広島国泰寺高校のゴールキーパーとして吉田安孝らとともに高校選手権出場。義田貴士は同級生である。1988年筑波大学に進学しサッカー部で活躍。中山雅史、井原正巳、森山佳郎らが大学の後輩。 1990年招かれて保健体育教諭として作陽高等学校に赴任しサッカー部コーチとなり、1999年監督就任。2007年、高校選手権で同校を岡山県勢初の決勝進出に導いた。2005年にJFA公認A級ライセンス、2008年に同S級ライセンスを取得している。
川崎 英正(かわさき ひでまさ、1966年7月17日 - )… 川崎 英正(かわさき ひでまさ、1966年7月17日 - )は、静岡県静岡市清水区出身のアスレティックトレーナー、サッカー指導者。エム・エス・マイスター代表。公益財団法人静岡県スポーツ協会・アスレティックトレーナー協議会理事 2002年、静岡県藤枝市でエム・エス・マイスターを設立。数々の高校のサッカー部や野球・バスケットボール・バレーボールなどの実業団と契約を結び、トレーナーとしてチームに帯同した。名古屋グランパスでは、13年にわたってアスレチックトレーナーを務め、長くチームを支えた。 2014年より、川崎フロンターレのトレーニングコーチに就任。 2017年より昨年まで川崎の監督だった風間八宏が名古屋グランパスの監督に就任したことに伴い名古屋にトレーニングコーチとして復帰した。
山本 富士雄(やまもと ふじお、1966年5月27日 - )… 山本 富士雄(やまもと ふじお、1966年5月27日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者である。 フィジカルコンタクトに強く、ミッドフィールダーまたはディフェンダーとして守備的なポジションをいずれもこなす 選手だった。 神奈川県立小田原高等学校出身、卒業後筑波大学に進学した。 1990年に日本サッカーリーグ1部に復帰した三菱自動車に加入し2シーズンでJSL5試合1得点を記録するが浦和レッドダイヤモンズになってから出場機会がなく、翌年はNKKに移籍した。翌1994年にはベルマーレ平塚に移籍し、守備のバックアッパーとして活躍し、1996年に引退した。 1997年にはサッカー指導者として桐蔭学園高等学校サッカー部の監督に就任。
鋤柄 昌宏(すきがら まさひろ、1966年4月2日 - )は… 鋤柄 昌宏(すきがら まさひろ、1966年4月2日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、指導者。ポジションはFW。 1983年、1984年、帝京高校在学中に全国高等学校サッカー選手権大会で2度優勝を経験。 1988年、筑波大学在籍中にカタールで行われたAFCアジアカップに出場する日本代表Bのメンバーに選ばれる。 同年、読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)入団。Jリーグに移行し、ヴェルディ川崎と改称された後も所属するが、カップ戦のみの出場で、Jリーグのリーグ戦には不出場。1994年途中に浦和レッドダイヤモンズに移籍し、古巣のV川崎戦でJリーグ初出場を飾る。1995年にジャパンフットボールリーグの福島FCに移籍。
長谷川 健太(はせがわ けんた、1965年9月25日 - )… 長谷川 健太(はせがわ けんた、1965年9月25日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(ウイング)。2025年までJリーグ・名古屋グランパスの監督を務めた。 小学6年時には清水FCの一員として全日本少年サッカー大会優勝、静岡県立清水東高等学校時代は小学生時代からの盟友大榎克己、堀池巧と共に清水東三羽烏として高校サッカーで活躍した。 筑波大学を経て1988年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部(現横浜F・マリノス)へ入部。同年からの2年連続三冠(リーグ、天皇杯、JSL杯)に貢献した。1990年、アジア大会終了後の怪我で日産を退部、怪我をしていながらオファーを出した清水への移籍を決断した。
田口 禎則(たぐち よしのり、1965年9月14日 - )は… 田口 禎則(たぐち よしのり、1965年9月14日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、政治家。埼玉県浦和市(後のさいたま市浦和区)出身。息子の田口翔太郎もサッカー選手であり、関東サッカーリーグのさいたまサッカークラブに所属している。 浦和市立岸中学校から浦和市立南高等学校(後のさいたま市立浦和南高等学校)へ進学。高校時代は大型フォワードとして注目され、2年時の全国高等学校サッカー選手権大会ではベスト8進出に貢献し 大会優秀選手に選出された。卒業後の1985年に筑波大学体育専門学群へ進学し蹴球部に入部。大学の同期には伊達倫央、鋤柄昌宏、山本富士雄らがいる。大学時代にセンターバックへコンバートされレギュラーを獲得すると、3年時から4年時にかけて関東大学サッカーリーグ戦連覇、4年時に関東選手権優勝、総理大臣杯優勝に貢献。
平岡 和徳(ひらおか かずのり、1965年7月27日 - )… 平岡 和徳(ひらおか かずのり、1965年7月27日 - )は、熊本県下益城郡松橋町(現・宇城市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 小学生時代より将来を嘱望された選手であり、熊本県松橋中学から帝京高等学校へサッカー留学。 3年生の時には主将としてFWの前田治やMFの広瀬治らと共に、1983年度全国高校サッカー選手権において3度目の全国制覇を果たした。清水東高校との決勝戦において前田治の決勝点となるアシスト(左サイドからのクロス)をした。 1984年に筑波大学へ進学。4年生の時には主将を務め、副主将の長谷川健太と共に1987年の総理大臣杯準優勝、4年ぶり6度目の関東大学リーグ制覇に貢献し名門復活の足掛りを築いた(元日本代表の中山雅史、井原正巳は2年後輩にあたる)。
吉田 寿光(よしだ としみつ、1963年8月29日 - )は… 吉田 寿光(よしだ としみつ、1963年8月29日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元サッカー選手、サッカー審判員(元国際審判員、元プロフェッショナルレフェリー)。 宇都宮高校ではサッカー部に所属。筑波大学に進学後も蹴球部に所属 しプロサッカー選手を目指したが、体調を崩したことで大学卒業と同時にサッカー選手としてのキャリアを終えた。1987年に栃木県内の公立高校の教員として赴任し、高校サッカー部の顧問を務めた。また、1988年に3級審判員、1993年に1級審判員としてそれぞれ登録され、2000年には国際審判員として登録された。 なお、その間は教員と審判を両立させていたが、2003年に16年間勤務した教員を退職して、同年からスペシャルレフェリー(SR、現プロフェッショナルレフェリー:PR)として契約、2004年1月1日の第83回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の主審を務めた。
松村 和彦(まつむら かずひこ、1963年7月17日 - )… 松村 和彦(まつむら かずひこ、1963年7月17日 - )は、広島県出身の元サッカー審判員。サッカー指導者。 筑波大学卒業。1995年12月に1級審判登録され、主にJリーグ ディビジョン1で主審を務めた。2008年までは国際主審も務め、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選や2010 FIFAワールドカップ・アジア3次予選で笛を吹いた。 少々の接触プレーではほとんどファウルを取らない、Jリーグでも屈指の「流す主審」として知られ、審判批評を行う石井紘人も「Jリーグで最もフットボールコンタクトに寛容な主審」の上位に名を連ねる一人だろうと評している。時に明らかなファウルすら流して物議をかもすことはあるが、頻繁にプレーを止めて試合を壊すことのない判定姿勢である。
倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、… 倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー。 藤枝東高校3年次の高校選手権(1979年度)に出場、優勝候補の一角と目されたが1回戦敗退に終わった。卒業後は筑波大学に進学。4年次の1985年にユニバーシアード代表 に選出され、同年8月の神戸大会に出場しベスト4進出に貢献した。 1986年に本田技研工業に入部。また同年に日本代表に選出され、1987年のソウル五輪アジア予選など国際Aマッチ6試合に出場。1989 FIFAフットサル世界選手権にフットサル日本代表として出場した。北澤豪共々読売サッカークラブ所属選手として日本リーグ最終シーズンを過ごした。
小野 剛(おの たけし、1962年8月17日 - )は、千葉… 小野 剛(おの たけし、1962年8月17日 - )は、千葉県出身のサッカー指導者。 千葉県立船橋高等学校、筑波大学体育専門学群卒業。大学の2年先輩に松田浩、1年先輩に風間八宏・鈴木淳・望月一頼がいる。筑波大学蹴球部4年間をCかDチーム(3ないし4軍)で過ごし、大学4年時には蹴球部副キャプテンを務めた。 1988年、筑波大大学院体育研究科修士課程修了、1990年まで筑波大助手兼サッカー部コーチを務めた。1990年から1996年まで成城大学法学部専任講師を務め、その間成城大サッカー部コーチや東京都学生選抜および関東大学選抜コーチなどを経験した。1994年から1年間、リバプール・ジョン・ムーア大学客員研究員を経験している。
浅岡 朝泰(あさおか ともやす、1962年4月6日 - 20… 浅岡 朝泰(あさおか ともやす、1962年4月6日 - 2021年10月6日)は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW(右ウイング)、MF(右ウイングバック)、DF(右サイドバック)。 筑波大学卒業後、1985年より日本サッカーリーグ1部の日本鋼管サッカー部に入部。俊足を活かしたドリブル突破と正確なセンタリングが持味で、そのシーズンに新人ながらアシスト王を獲得した。 1985年から1987年シーズンまで3年連続リーグ戦2位、1986年度に天皇杯全日本サッカー選手権大会準優勝、1987年にJSLカップを制覇し、同サッカー部の上位進出に貢献した。また日本代表にも選出され、ソウルオリンピック予選など8試合に出場した。
望月 一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - … 望月 一頼(もちづき かずより、1961年11月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元サッカー選手 (GK)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。筑波大学卒業。 清水東高出身。同期に大木武、二年先輩に内山篤、一年後輩に内田一夫、二年後輩に反町康治や望月達也・沢入重雄らがいる。1977年高1時、高校では控え選手だったが偶然松本育夫日本ユース代表監督の目にとまり、地元開催の1979 FIFAワールドユース選手権に出場するユース日本代表に選出されるも、最終的には本選出場選手に選ばれなかった。 高校卒業後、筑波大学に進学した。一年先輩に松田浩、同期に風間八宏・鈴木淳、一年後輩に小野剛がいる。4年時にはキャプテンも務めた。
鈴木 淳(すずき じゅん、1961年8月17日 - )は、宮… 鈴木 淳(すずき じゅん、1961年8月17日 - )は、宮城県亘理町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
織田 秀和(おりた ひでかず、1961年4月22日 - )は… 織田 秀和(おりた ひでかず、1961年4月22日 - )は、日本の実業家、元サッカー選手(MF)。広島県広島市佐伯区出身。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)・ロアッソ熊本のゼネラルマネジャー(GM)。 広島大学附属中学校入学後からサッカー班に所属し、進学した広大付属高でもプレーした。1979年宮崎国体サッカー少年の部広島県国体選抜メンバー。広大付属サッカー班の3年後輩に河野俊嗣がいる。 筑波大学卒業。筑波大学蹴球部では松田浩が1年先輩、同期に風間八宏・鈴木淳・望月一頼、一年後輩に小野剛がいる。 1984年、地元企業のマツダ入社、マツダSC(現サンフレッチェ広島F.C)に所属する。松田と望月、白石聡は同期入団にあたる。
越田 剛史(こしだ たけし、1960年10月19日 - )は… 越田 剛史(こしだ たけし、1960年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF(センターバック、サイドバック)。 石川県立金沢桜丘高等学校時代は無名の選手であったが、2年次に石川県選抜の一員として参加した国体予選で関係者の目に留まり、日本ユース代表候補に選出された。 筑波大学に入学後は蹴球部に所属し、1年次にユース代表として1979 FIFAワールドユース選手権に出場すると、2年次の1980年には日本代表に選出され、同年12月22日の1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選のシンガポール代表戦でデビューすると、1982年アジア競技大会など、国際Aマッチ19試合に出場した。
松田 浩(まつだ ひろし、1960年9月2日 - )は、長崎… 松田 浩(まつだ ひろし、1960年9月2日 - )は、長崎県長崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(S級指導者ライセンス所持)。 高校時代は長崎県立長崎北高等学校でプレーする。ちなみに小林伸二(長崎県立島原商業高等学校卒)は同県出身の同い年である。 筑波大学時代の1年後輩に風間八宏・鈴木淳・望月一頼、2年後輩に小野剛がいる。交換留学の1期生としてブラジルにサッカー留学も経験した。1984年に望月らとともにマツダへ入社した。 マツダSC(現 サンフレッチェ広島F.C)に入団、当初は恵まれた体格からFWとして起用されていたが、コーチにハンス・オフトが就任するとCBに固定される。その後は信藤克義(信藤健仁)とコンビを組み、1987年天皇杯決勝進出、1989年-1990年のJSL2部ベスト11、2度のJSL1部昇格を経験した。
小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静… 小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静岡県出身の元サッカー審判員(国際主審)。アジアサッカー連盟 (AFC) 審判部長(レフェリーディレクター)、日本サッカー協会 (JFA) 審判委員長を歴任した。 静岡県立藤枝東高等学校を経て筑波大学体育専門学群に進学。在学中は蹴球部でプレーし、帰郷後高校教諭を務める傍ら、教員チームでもプレーをした。現役引退後審判としての活動を本格化させ、1994年のヤマザキナビスコカップでは決勝の主審も務めた。 1997年3月に教員を辞め、翌月から日本サッカー協会 (JFA) の職員となり、審判部部長代理としてサッカー審判関係の取りまとめに従事(この時の業務負担の兼ね合いから1998年に審判員としての活動から退いている)。
坂下 博之(さかした ひろゆき、1959年5月6日 - )は… 坂下 博之(さかした ひろゆき、1959年5月6日 - )は、神奈川県三浦市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 神奈川県立横須賀高等学校を卒業後、筑波大学体育専門学群に入学し、蹴球部に所属。在学中に関東大学サッカーリーグ戦、全日本大学サッカー選手権大会、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでの優勝を果たした。また、1980年に日本代表に選出され、1982 FIFAワールドカップアジア・オセアニア予選で国際Aマッチに出場した。 大学卒業後はフジタ工業、読売サッカークラブでプレーして1991年に現役を引退。1991年から2004年まで亜細亜大学サッカー部監督、2007年から2012年まで産業能率大学サッカー部監督をそれぞれ務めた。
大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、… 大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、日本のサッカー指導者。元岐阜工業高等学校サッカー部監督。アルビレックス新潟の成岡翔は甥。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校3年時に静岡県選抜に選出され国体で優勝。高校卒業後に筑波大学へ進学すると大学選手権優勝2回(1979年、1980年)、関東大学リーグ優勝1回(1980年)に貢献。4年時の1980年には全日本学生選抜に選出されマラハリムカップに出場した。 卒業後は日本サッカーリーグの数チームからの誘いを固辞して教員の道を選び、岐阜藍川高校、岐阜工業高校、大垣北高校、大垣工業高校のサッカー部監督を歴任。 岐阜工業高校時代の1998年の高校総体では準優勝。
北村 央春(きたむら ひさはる、1958年4月14日 - )… 北村 央春(きたむら ひさはる、1958年4月14日 - )は、大阪府出身のサッカー審判員(元・国際主審)。筑波大学卒業。 埼玉県内の大宮武蔵野高校で体育教員をしていた地方公務員の教員およびサッカー部の顧問であったが、2018年度で高校教員を退職した。 1993年11月にサッカー1級審判員の資格を得てキャリアを重ね、2008シーズンまでJリーグの審判を務めた。 この項目は、サッカー選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:サッカー/PJサッカー選手/PJ女子サッカー)。
田嶋 幸三(たしま こうぞう、1957年11月21日 - )… 田嶋 幸三(たしま こうぞう、1957年11月21日 - )は、熊本県出身の元サッカー選手、元サッカー日本代表。サッカー指導者。第14代日本サッカー協会会長(JFA初の会長選挙で当選)及びアジアサッカー連盟(AFC)理事。JFAアカデミー福島初代スクールマスター。 若年層の育成システム構築に深く関わり、著書も多い。 内科医で、FIFA医学委員会委員・JFA医学委員会委員・オリンピック日本選手団スポーツドクターを務めた土肥美智子は妻。プロサッカー選手の田嶋凜太郎は息子。熊本県天草郡苓北町長を務めた田嶋章二は実兄で、甥(夫人の姉の息子)にプロサッカー選手の日髙慶太がいる。 現役時代のポジションはフォワードであった。
内山 勝(うちやま まさる、1957年4月14日 - )は静… 内山 勝(うちやま まさる、1957年4月14日 - )は静岡県出身の元サッカー選手。ポジションはDF(サイドバック)、MF。元ジュビロ磐田監督の内山篤は実弟。 静岡県立清水東高等学校時代は長澤和明と共に1974年度の高校選手権で準優勝に貢献した。 筑波大学を経て1980年にヤマハ発動機サッカー部に入部。攻撃的なサイドバックとして長澤や内山篤らと共に同サッカー部の上位進出に貢献した。また1985年に日本代表に選出され国際Aマッチ1試合に出場した。
池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、… 池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー指導者。 筑波大学卒業後、静岡県サッカー教員団で指導者のキャリアをスタートさせる。以降は地元静岡県を中心に中高生を指導した。2004年にJFA Proライセンスを取得。 2023年7月19日、WEリーグ・ちふれASエルフェン埼玉の監督に就任。66歳にして初の女子の指導となる。 2024年10月16日に検査入院のため指揮から離れることが発表され、12月18日に健康上の都合で正式にちふれASエルフェン埼玉監督を辞任した。
石橋 智之(いしばし さとゆき、1955年11月16日 - … 石橋 智之(いしばし さとゆき、1955年11月16日 - )は、愛媛県宇和島市出身のサッカー指導者。元愛媛FC総監督、元愛光学園体育科教諭。元宇和島市長の石橋寛久は兄。 宇和島東高、筑波大学卒。 1978年に、南宇和高に赴任して以来、13年間で選手権出場9回、四国代表33回。1990年には高校選手権で全国制覇を成し遂げ四国勢として初優勝に導く等、1980年代後半から1990年代中盤にかけて全国屈指の強豪校に育て上げた。 同校では實好礼忠、大森健作、西田吉洋、友近聡朗、大木勉など多数の教え子をJリーグに送り出している他、愛媛県国体選抜監督時代には福西崇史を指導した。1996年にはU-17サッカー日本代表監督も務めている。
野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広… 野地 照樹(のじ てるき、1950年1月16日 - )は、広島県広島市出身の元サッカー選手(DF)、指導者。 現高知大学教育学部教授、サッカー部監督。 中1からサッカーを始める。広島大学附属高時代に福原黎三から指導を受けた。同世代に高田豊治がいる。 東京教育大学(現筑波大学) 体育学部体育学科に進み、蹴球部では主にセンターバックとして活躍、成田十次郎から指導を受け、高田や木之本興三らとプレーした。在学中に関東大学サッカーリーグ戦や第20回全国大学サッカー選手権大会で優勝した。1972年には成田が監督を兼務していた日本サッカーリーグ2部の読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)の選手として7試合に出場した。
黒田 和生(くろだ かずお、1949年3月8日 - )は、岡… 黒田 和生(くろだ かずお、1949年3月8日 - )は、岡山県倉敷市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 倉敷市立東中学校の在学中は野球部に所属したが、有数の名門校であった同校の練習はスパルタ式であったと後に語っている。そのこともあって岡山県立倉敷青陵高校に入学後は中学時代と違うスポーツをやろうと考えてサッカー部に入部した。 1967年、東京教育大学(現在の筑波大学)に進学して蹴球部に入部。大学2年および3年次には関東大学サッカーリーグ戦で連覇を経験。4年次には副主将を務めた。 大学4年次の就職活動で一時は新日本製鐵から内定を得ていたものの取り消し。その後、教授で蹴球部監督も務めた成田十次郎の紹介により神戸フットボールクラブ(神戸FC)に職員として入社。
木之本 興三(きのもと こうぞう、1949年1月8日 - 2… 木之本 興三(きのもと こうぞう、1949年1月8日 - 2017年1月15日)は千葉県出身の元サッカー選手。
立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年… 立原 元夫(たつはら もとお、1913年1月14日 - 没年不明)は、東京市品川区出身のサッカー選手。 法曹の雄と呼ばれた花井卓蔵の五男として生まれた。卓蔵の生家であった立原家に跡継ぎが無く断絶していたため、1928年(昭和3年)4月に立原姓を名乗り、立原家を死跡相続した。 東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属高校)在学中よりサッカーを始め、1933年に早稲田大学に入学し、在学中はア式蹴球部に所属した。1934年に開催された第10回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、5月13日のオランダ領東インド(現:インドネシア)代表戦で日本代表として初出場した。1935年にはア式蹴球部の主将を務めた。
後藤 基胤(ごとう もとたね、1903年または1904年 -… 後藤 基胤(ごとう もとたね、1903年または1904年 - 1959年1月4日)は、日本の教育者、サッカー選手。 東京高等師範学校附属中学(現:筑波大学附属中学校・高等学校)ではサッカー部に所属。東京高等師範学校に進学後も蹴球部に所属し、主将も務めた。また、1921年に開催された第5回極東選手権大会の日本代表にも選出され、2試合に出場。2戦2敗に終わったが、フィリピン代表戦で得点を決めた。 1923年に東京高師を卒業して、神奈川県立湘南中学校(現:神奈川県立湘南高等学校)に赴任。同時期に創設された同中蹴球部の指導も行った。 その後、学習院に移り学習院初等科などで教育に携わった。 1959年1月4日、東京都新宿区で肺癌により死去した。
安藤 梢 は、栃木県宇都宮市出身の女子サッカー選手。日テレ・… 安藤 梢 は、栃木県宇都宮市出身の女子サッカー選手。日テレ・東京ヴェルディベレーザ所属。元サッカー日本女子代表。学位は体育科学博士(筑波大学大学院・2018年)。筑波大学 人間総合科学学術院 人間総合科学研究群 スポーツウエルネス学・助教。
猶本 光 は、福岡県小郡市出身の女子サッカー選手。日テレ・東… 猶本 光 は、福岡県小郡市出身の女子サッカー選手。日テレ・東京ヴェルディベレーザ所属。日本女子代表。ポジションはミッドフィールダー。学位は体育学修士(筑波大学大学院・2018年)。