髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月2… 髙山 辰雄(たかやま たつお、1912年〈明治45年〉6月26日 - 2007年〈平成19年〉9月14日)は、日本画家。文化勲章受章者。 大分市に生まれる。1931年(昭和6年)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、1936年(昭和11年)に卒業している。在学中から松岡映丘の画塾に入り、師事した。美校の卒業制作「砂丘」は、砂の上に座るセーラー服姿の若い女性を俯瞰的に描いた洋画風の作品で、後の高山の作風を思わせるものはほとんどない。 高山は戦後まもない1946年(昭和21年)ころ、ゴーギャンの伝記を読んで感銘を受け、その後の作風にはゴーギャンの影響がみられるようになる。1946年、第2回日展に裸婦ふたりを描いた「浴室」を出品し、特選となる。
豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23… 豊増 昇(とよます のぼる、1912年〈明治45年〉5月23日 - 1975年〈昭和50年〉10月9日)は、日本のピアニスト、音楽教育者。日本藝術院会員。佐賀県佐賀市出身。 1933年、東京音楽学校卒。高折宮次、レオ・シロタらに師事。1936年ドイツに留学、1943年東京音楽学校教授。その後、京都市立音楽短期大学教授を経て、1959年に武庫川女子大学音楽部長となった。 1940年にベートーヴェンのピアノソナタとピアノ協奏曲全作品の連続演奏会、1949年にバッハ死後200年記念ピアノ曲連続演奏会、さらに1950年にもバッハのピアノ曲全作品の連続演奏会をおこなった。1956年、日本人として初めてベルリンフィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に出演した(指揮はヨーゼフ・カイルベルト)。
寺井 啓之(てらい ひろゆき、1912年(明治45年)3月3… 寺井 啓之(てらい ひろゆき、1912年(明治45年)3月31日 - 1997年(平成9年)4月10日)は、森田流笛方能楽師。寺井久八郎家12代。 1912年(明治45年)東京生まれ。永田町小学校、東京音楽学校 (旧制)能楽科卒業。1928年(昭和3年)より寺井鉦次郎に師事し、同年「熊坂」で初舞台を踏む。1967年(昭和42年)より日本能楽会会員。重要無形文化財「能楽」保持者(日本能楽会会員としての総合認定)。 長男は十世・寺井久八郎(森田流笛方)で、二男は寺井良雄(宝生流シテ方。2010年死去)、三男は寺井栄(観世流シテ方)で、ともに重要無形文化財「能楽」の保持者(総合認定)。孫に寺井千景(観世流シテ方)がいる。
水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3… 水船 六洲(みずふね ろくしゅう、1912年(明治45年)3月26日 - 1980年(昭和55年)6月30日)は、日本の彫刻家、版画家。広島県呉市草里町(現東中央2丁目)出身。本名は田中六洲。なお、本名の名前読みは漢字「六洲」を「むつくに」と読む。実兄に洋画家水船三洋があり、実父も書家だった。 作風は版画にも彫刻のような力強さを求め絵画的彩色を施す独自技法を駆使したほか、1960年代以降は魚、鳥などの動物を主なモチーフに選んで制作を行った。 1912年、広島県呉市草里町(現東中央2丁目)に生まれる。中学の頃に高村光太郎訳『ロダンの言葉』(ASIN B0093E7YYY)を読み感動し彫刻家を目指した。
高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1… 高城 重躬(たかじょう しげみ、1912年3月18日 - 1999年8月4日)は、日本のオーディオ評論家、音楽評論家。 ヴァイオリニストの父・高城重之(横浜翠嵐高校校歌作曲者)と、ピアニストの母・翠の長男として東京に生まれる。実妹に作曲家・音楽教育家の涌井曄子がいる。その三女の涌井純子(純の文字に草冠が付く)は作編曲を施すハープ奏者。 小学校入学前からピアノを弾いており、1929年、福岡県中学修猷館を卒業し、東京高等師範学校理科第1部(数学)に入学。同時に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)選科のピアノ科、後に作曲科に通い、ピアノを榊原直と田中規矩士、作曲を橋本国彦に学ぶ。 その後、都立三田高校数学教諭、都立南高校校長、都立深沢高校校長などを歴任するが、その傍ら日本のオーディオ界の草分けとしても活躍。
三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16… 三谷 一馬(みたに かずま、1912年(明治45年)3月16日 - 2005年(平成17年)6月15日)は、日本画家、江戸風俗研究家。 香川県高松市に生まれる。実家は古くから歌舞伎芝居などの背景画や小道具、看板等を描く仕事をしていた。 東京美術学校日本画科卒業。岡本綺堂「半七捕物帳」など挿絵の分野で活躍ののち、江戸時代の風俗考証画を描くことに専念する。 日本文芸家協会会員。江戸を語る「江戸会」に属した。1988年、「失われてゆく江戸風俗を四十年の歳月をかけ、『江戸職人図聚』はじめ数著に集大成、江戸風俗の”絵引き”として貴重な資料を提供」した功績により、吉川英治文化賞を受賞した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10… 桑原 実(くわはら みのる、1912年(明治45年)3月10日 - 1979年2月11日)は新潟県刈羽郡出身の画家。 二科会会員、東京芸術大学教授。ユネスコ・ジュニア文化センター理事長、日本造型教育連盟委員長、教育美術振興会理事。 1929年新潟県立旧制長岡中学校(現新潟県立長岡高等学校)卒業、翌1930年東京美術学校(現東京芸術大学)図画師範科入学。1933年3月卒業。同年、東京市下小岩尋常小学校(現江戸川区立下小岩小学校)教諭。 1935年第22回二科展に「父と子」が入選となり、以後、二科展に毎回出品。 1939年豊島区池袋第五小学校(現豊島区立池袋小学校)教諭。1946年東京第二師範学校教諭。
遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979… 遠見 豊子(とおみ とよこ、1912年3月6日 - 1979年8月3日)は日本のピアニスト、音楽教育者。京都府出身。1929年に東京音楽学校予科に入学。1933年3月に同校本科器楽部ピアノ専攻を卒業。同年より同校の聴講科と研究科に進学し、1935年3月に聴講科ピアノ専攻を、1936年3月に研究科作曲部を修了。レオ・シロタ、クラウス・プリングスハイム、レオニード・クロイツァーに師事した。1939年10月(2日または20日)にデビュー。上野楽星会員。東京女子高等師範学校、武蔵野音楽学校、上野児童音楽学園講師。お茶の水女子大学教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970… 李 鎬雨(イ・ホウ、이호우、1912年3月2日 - 1970年)は、韓国の時調の詩人、ジャーナリスト。本貫は慶州李氏、本名はイ・ホ(이호)。慶尚北道の清道郡出身。妹は詩人の李永道。 解放後は詩人として活動しながら、大邱日報、大邱毎日新聞の編集局長・論説委員などを務めた。
井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日… 井手 宣通(いで のぶみち、1912年〈明治45年〉2月1日 - 1993年〈平成5年〉2月1日)は、日本の洋画家。熊本県上益城郡御船町出身。 帝展、新文展、日展、光風会などを中心に活躍。その後、自ら「日洋会」を組織し、戦後の洋画壇の刷新と、日本人の感性による新たな具象絵画の可能性を追求した。 熊本市現代美術館に、井手宣通記念ギャラリーがある。
市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1… 市川 都志春(いちかわ としはる、1912年〈明治45年〉1月18日 - 1998年〈平成10年〉4月29日)は、日本の作曲家、音楽教育者。教育芸術社の創業者。静岡県浜松市出身。 音楽教育に力を入れ、多くの音楽教科書の著述、編集を務めたことで知られる。また、各地の学校で校歌の作曲を多く手がけている。 浜松市で生まれ、中学からは東京に移り住んだ。旧制市立ニ中(現・東京都立上野高等学校)では、福田恆存(英文学)、高橋義孝(独文学)と同期。作曲を志し、1935年に東京音楽学校の器楽部ヴァイオリン科に入り、安藤幸子、ウィリー・フライに師事した。また課外でクラウス・プリングスハイムに作曲を学び、1937年本科卒業後は研究科に進んで、信時潔に半年間作曲を学ぶ。
山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 20… 山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 2007年10月10日)は、日本の美術史学者。専攻は美学、芸術史。第4代東京芸術大学学長、初代沖縄県立芸術大学学長。長野県長野市出身。 日本学術会議第13・14期会員、文部省学術審議会委員、日本美学会委員などを歴任した。
春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - … 春山 一夫(はるやま かずお、1912年(明治45年) - 1995年(平成7年))は昭和期の歌手である。 東京都出身。東京音楽学校卒業。 1932年(昭和7年)デビュー。キングレコードなどで昭和初期に活躍。次の歌などを歌唱した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:芸能人)。
金子 登(かねこ のぼり、1911年11月23日 - 198… 金子 登(かねこ のぼり、1911年11月23日 - 1987年7月6日)は、日本の指揮者、東京芸術大学名誉教授。 1934年に東京音楽学校ピアノ科を卒業し、ヨゼフ・ローゼンシュトックに指揮を学び、1936年に東京音楽学校研究科を修了した。また副科でファゴットを学び、紀元二千六百年奉祝交響楽団にもファゴット奏者として参加している。 1936年に服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)にファゴット奏者として参加し、1942年には指揮者も務めた 。 1943年から1945年に東京交響楽団常任指揮者を務めた。1945年にはアーニーパイル交響楽団を組織している。 1952年から1956年にウィーンへ留学し、クレメンス・クラウス、カール・ベームらに師事する。
安部 幸明(あべ こうめい、1911年〈明治44年〉9月1日… 安部 幸明(あべ こうめい、1911年〈明治44年〉9月1日 - 2006年〈平成18年〉12月28日)は日本の作曲家。 広島県広島市の軍人の家庭に生まれる。中学のころから音楽に興味を持ち始め、1929年(昭和4年)に東京音楽学校に入学してチェロを専攻。チェロをハインリヒ・ヴェルクマイスターに師事するも、やがてプリングスハイムに作曲を、ローゼンストックに指揮を学ぶ。1936年(昭和11年)新興作曲家連盟に参加。同年末服部正が創設したコンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)に、チェロ奏者として参加している。1939年に「チェロ協奏曲」でワインガルトナー賞一等賞を獲得し、深井史郎・山田一雄・小倉朗らと同人「プロメテ」を設立。
川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 20… 川端 実(かわばた みのる、 1911年5月22日 - 2001年6月29日)は、日本の洋画家。 現在の東京都文京区生まれ。祖父は明治期の日本画家である川端玉章、父も日本画家の川端茂章という美術家一家であった。1934年(昭和9年)、東京美術学校油画科卒業。1936年(昭和11年)の文展(帝展の代わりに開催)に出品した『海辺』で選奨を受賞。1939年(昭和14年)光風会会員。1950年(昭和25年)多摩美術大学教授。1958年(昭和33年)以降、ニューヨークを拠点に活躍。抽象表現主義の作品を多く生み出す。1960年(昭和35年)に初個展。作品に「緑のなかのフォルム」など。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
古川 太郎(ふるかわ たろう、1911年(明治44年)5月2… 古川 太郎(ふるかわ たろう、1911年(明治44年)5月20日 - 1964年(昭和39年)7月4日)は、栃木県大田原市生まれの箏曲演奏家・作曲家である。宮城道雄の高弟。代表作として、「富嶽三十六景」「箏八重奏曲」「地蔵浄土」「平調子」「足をはづされた客車」などがある。 古川太郎の門下生に、尺八家・作曲家として高名な船川利夫がいる。
高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 19… 高橋 英吉(たかはしえいきち、1911年4月13日 - 1942年11月2日)は日本の彫刻家。宮城県石巻市出身。 東京美術学校(現東京芸術大学)で木彫を学び、文展(現・日展)を中心に活躍した。「黒潮閑日」「潮音」「漁夫像」の《海の三部作》などにより将来を嘱望されたが兵役に就き、1942年にガダルカナル島の戦いで死亡した。 1911年4月13日、宮城県牡鹿郡石巻町(現・石巻市)湊本町に生まれる。生家は遠洋漁業や缶詰工場を経営する網元であった。1924年、旧制石巻中学(現・宮城県石巻高等学校)に入学。 1931年、東京美術学校彫刻科木彫部に入学する。1936年同校を卒業すると、研究科に進み、文部省美術展覧会(現・日展)に「少女像」を出展し、入選する。
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 198… 松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。 1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽区(現・小樽市)生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)在学中、1933年(昭和8年)、コロムビアから「ミス・コロムビア」という覆面歌手として『浮草の唄』でデビューする。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために宣伝の写真にも目隠しをして彼女をデビューさせた。
伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 20… 伊藤 清永(いとう きよなが、1911年2月24日 - 2001年6月5日)は、昭和から平成にかけての日本の洋画家である。白日会、日展を中心に活躍した。日本芸術院賞恩賜賞受賞者(1976年)、文化勲章受章者(1996年)。 作風は一貫して女性美を追求した。また豊岡市立美術館「伊藤清永記念館」による伊藤の人物解説によれば「繊細な色線を無数に重ねて描き出される豊麗優美な裸婦像で知られる」「70年近い画業の中で、一貫して女性美の表現技法を追求し、温かみのある独自の画風を築いて見る人を魅了している」と説明されている。 1911年(明治44年)2月24日、兵庫県出石郡下谷(現豊岡市出石町下谷)に生まれる。
中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - … 中村 七十(なかむら しちじゅう、1911年2月16日 - 1941年10月20日)は、日本の彫刻家。本名は、中村永男。 長野県上伊那郡朝日村(現・辰野町)出身。宮大工の家系に生まれ、幼少のころから、宮大工・彫刻家の父七十郎(董斎)の下で木彫を学んだ。高等科卒業後、彫刻の道を志して上京し、木彫家の清水三重三に師事。のちに構造社を主宰した斎藤素巌に師事。1929年東京美術学校彫刻科塑像部選科(現・東京藝術大学美術学部彫刻科)入学。専ら木彫が多かったが次第に塑造作品へと移り、1933年在学中に「女の首」が帝展(現・日展)に初入選。当時は在学中の帝展出品はタブー視されており、父「七十郎」の名前の二文字を借りて出品した。
淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 200… 淀井 敏夫(よどい としお、1911年2月15日 - 2005年2月14日)は、日本の彫刻家。文化勲章受章者。削げたような形態と岩のような質感のユニークな作品で知られる。 兵庫県朝来市生まれ。大阪市立工芸学校を経て東京美術学校彫刻科卒業後、主に二科会を舞台にして、心棒に石膏を直付けする独自の技法で対象を叙情的に表現した具象彫刻を発表。大阪市立工芸学校教諭、東京芸術大学教授・美術学部長を務めた。
小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年… 小川原脩(おがわら しゅう、1911年1月21日~2002年8月29日)は日本の画家。北海道虻田郡倶知安町出身。 旧制中学(現・北海道倶知安高等学校)で油彩を始める。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。在学中に「納屋」(1933年)が帝展に入選。卒業後、福沢一郎らと出会い前衛的な美術団体「エコール・ド・東京」「創紀美術協会」「美術文化協会」などの結成に参加。シュルレアリスム絵画への道を歩んだが、軍の規制が厳しくなり断念。その後、軍の命令により戦争記録画を制作。戦後は郷里・倶知安に戻り、岩船修三、木田金次郎らと「全道美術協会(全道展)」の創立に参加。1958年、野本醇、因藤壽、穂井田日出麿らと「麓彩会」を創立。
分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1… 分部 順治(わけべ じゅんじ 1911年 <明治44年> 1月6日 - 1995年 <平成7年> 3月1日)は、日本の彫刻家。
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本… 千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年)は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。 宮城県大崎市に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。 東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。
山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 … 山本 日子士良(やまもと ひこしろう、1910年9月21日 - 1993年9月15日)は、日本の洋画家。 1910年(明治43年)9月21日、奈良県磯城郡に生まれる。東京美術学校卒業後兵役に就き、戦災でアトリエを焼失。戦後は東京都・板橋区に居を構え、創作を再開。日展出品を重ね、1992年(平成4年)日展参与となる。1993年(平成5年)9月15日に死去した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
土橋 醇一(どばし じゅんいち、1910年(明治43年)8月… 土橋 醇一(どばし じゅんいち、1910年(明治43年)8月17日 - 1978年(昭和53年)10月30日)は日本の洋画家。別名、土橋 醇(どばし じゅん)。 東京市小石川区に生まれ、1938年東京美術学校油画科卒業、1946年光風会会員、1952年光風会展特賞1953年から1973年まで渡仏、20年間パリで制作活動を送る。作品は東京国立近代美術館、パリ国立近代美術館等に収蔵されている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 - 1997… 浦田 正夫(うらた まさお、1910年5月1日 - 1997年11月30日)は、日本画家、日本芸術院会員。 熊本県山鹿市生まれ。浦田家は祖父から続く画家の家系で、伯父に高橋廣湖がいる。松岡映丘らに師事。東京美術学校日本画科卒。1973年日展文部大臣賞受賞、1978年日本芸術院賞受賞、1988年芸術院会員。1993年、勲三等瑞宝章受章。 代表作に「蔓(かずら)」、「松」など。北関東や東北の自然を描いた。
柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - … 柳原 義達(やなぎはら よしたつ、1910年3月21日 - 2004年11月11日)は、近現代日本の彫刻家。 兵庫県神戸市生まれ。1936年、東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会受賞、1937年、国画会同人。1939年、新制作派協会彫刻部創立に参加する。 戦後、1952年から5年間ヨーロッパに滞在する。1958年、高村光太郎賞、1974年、中原悌二郎賞大賞など受賞、1970年、日本大学芸術学部主任教授。1996年、文化功労者。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
井口 愛子(いぐち あいこ、1910年1月28日 - 198… 井口 愛子(いぐち あいこ、1910年1月28日 - 1984年12月1日)は、日本のピアノ教育家・ピアニスト。東京府東京市日本橋区(現東京都中央区)出身。本名は、佐藤愛子(旧姓:井口)。 とくに基礎教育が専門分野であった。 音楽之友社・新音楽辞典による。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
松谷 穣(まつや みのる、1910年1月2日 - 1995年… 松谷 穣(まつや みのる、1910年1月2日 - 1995年5月15日)は、日本のジャズピアニスト。ゆずる、じょうとも呼ばれていた。 東京音楽学校卒。ウクライナ出身のユダヤ人ピアニスト、レオ・シロタに師事する。戦後米軍の仕事で、クラシックからジャズに転向した。多くの日本のジャズボーカリストの育て親となる。藤山一郎の友人。作曲家小倉朗とも親しく、『ピアノソナチネ』(1937年)を初演する。 ピアニストの松谷翠 (1943 - 1994) は息子である。息子の亡くなった翌年に死去した。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
芳武 茂介(よしたけ もすけ、1909年(明治42年)11月… 芳武 茂介(よしたけ もすけ、1909年(明治42年)11月12日 - 1993年(平成5年)8月3日)は、日本のクラフトデザイナー。現在の山形県南陽市出身。 1935年、東京美術学校(のちの東京芸術大学)を卒業後、商工省工芸指導所に勤務。1941年、第4回新文展に「飛鳥置物」を出品して特選を受賞。1945年には日本陸軍向けの囮飛行機の開発に参加した。 1956年、ガラス工芸の佐藤潤四郎らと日本デザイナークラフトマン協会を設立した。1961年、工業技術院産業工芸試験所意匠第二部長を退官、デザイン事務所東京クラフトを設立し、武蔵野美術大学教授に就任。1974年、国井喜太郎賞を受賞。1976年、鋳鉄による皿、鍋で芸術選奨文部大臣賞を受賞、1980年、勲四等旭日小綬章を受勲。
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 19… 杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。三島由紀夫の岳父。 東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。父親が早くに他界したため母親に育てられる。浅草育英小学校、東京府立第三中学校を経て、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学、松岡映丘に師事する。山本丘人、髙山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年(昭和4年)、帝展に出品、1931年(昭和6年)、美校日本画科卒、結城素明に師事。
丸井 金猊(まるい きんげい、1909年10月19日 - 1… 丸井 金猊(まるい きんげい、1909年10月19日 - 1979年7月12日)は、戦前に活動していた日本画家。 神奈川県立神奈川工業高等学校工芸図案科(のちの産業デザイン科)元教諭。本名・丸井 金蔵(まるい きんぞう)。 愛知県葉栗郡北方村(現在の一宮市北方町)出身。九人兄弟の三男として生まれる。愛知県立工業学校(現在の愛知県立愛知総合工科高等学校)を卒業後、郷里出身の著名な日本画家である川合玉堂に憧れ、1928年(昭和3年)、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学。同期生には、杉山寧、川本末雄らが在籍。1933年卒業後(修業年限5か年)同校同科研究科(現在の大学院)に2年在籍。
中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月… 中村 佳永子(なかむら かえこ、1909年(明治42年)9月1日 - 1987年(昭和62年))は、日本のピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 神戸絢、井口秋子に師事し、1931年(昭和6年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)甲種師範科を卒業。卒業の際、二条厚基賞を受賞。 音楽学校卒業後は徳島女子短期大学部音楽科(現:徳島文理大学短期大学部音楽科)の講師となり、後に徳島女子大学音楽学部(現:徳島文理大学音楽学部)の教授に就任する。 第二次世界大戦後の徳島県内のピアノ教育に尽力し、東京芸術大学・桐朋学園大学・神戸女学院大学・大阪音楽大学などの大学にピアニストを輩出した。また門下生に相愛大学名誉教授の片岡みどりなどがいる。
加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1… 加倉井 秋を(かくらい あきを、1909年8月26日 - 1988年6月2日)は、茨城県出身の俳人、建築家。本名は昭夫。日本画家の加倉井和夫は弟。 茨城県出身。東京美術学校(現・東京芸術大学)建築科卒業。建築会社勤務を経て、1970年より武蔵大学教授(美術工芸史)。 俳句は1936年より、「あきを」の号で「馬酔木」に投句。1938年より「秋を」に改めて「若葉」に投句、富安風生に師事する。1941年より「若葉」編集長。1946年、安住敦らと俳句作家懇話会を結成。のちに同人誌「諷詠派」創刊に参加。1948年、「若葉」第一期同人。1955年、愛媛療養所の機関誌であった「冬草」の雑詠選者。1959年より「冬草」を東京に移管し主宰となる。
明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1… 明田川 孝(あけたがわ たかし、1909年6月22日 - 1958年8月13日)は、日本の彫刻家・音楽研究家。 新制作協会彫刻部創立会員。東京美術学校在学中より気鳴楽器オカリーナを研究・制作し、「12穴式オカリーナ」の開発に成功。日本にこの楽器を広め根づかせた「アケタオカリーナ」の創始者であり、「日本のオカリーナの父」と呼ばれている。長男はジャズ・ピアニストの明田川荘之。
真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 198… 真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 1984年7月28日)は、日本の舞台美術家、衣裳デザイナーである。日本舞台テレビ美術家協会会長を歴任した。 1909年(明治42年)6月4日、茨城県に生まれる。1927年に水戸中学卒業。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。 1935年(昭和10年)、東京宝塚劇場(現在の東宝)に入社、1936年(昭和11年)に同社が合併した日本劇場では、衣裳も装置も手がけている。1944年に妻との間に息子・マイク真木をもうける。 第二次世界大戦後、東宝を退社してフリーランスとなった。1958年(昭和33年)、大映東京撮影所が製作した増村保造監督の『巨人と玩具』や、1959年(昭和34年)、東宝が製作・配給した山本嘉次郎監督の『孫悟空』等の衣裳をデザイン・構成を手がけた。
浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 20… 浜口 陽三(はまぐち ようぞう、1909年4月5日 - 2000年12月25日)は、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)出身の版画家。 銅版画の一種であるメゾチントを復興し、カラーメゾチント技法の開拓者となった。同じく版画家の南桂子は妻。本名は濱口 陽三(はまぐち ようぞう)だが、筆名としては新字体の「浜」を用いていた。 1909年(明治42年)4月5日、和歌山県有田郡広村(現・有田郡広川町)に生まれた。生家の濱口儀兵衛家はヤマサ醤油の創業家であり、陽三は濱口梧洞(10代目濱口儀兵衛)の三男である。幼少時に一家で千葉県銚子市に転居した。 東京美術学校(現・東京藝術大学)では彫刻科塑造部に入学したが、2年で退学しパリへ渡航した。
石原 三起子(いしはら みきこ、1909年 <明治42年> … 石原 三起子(いしはら みきこ、1909年 <明治42年> 3月3日 - 1999年 <平成11年> 1月19日)は、元福島県教育委員会委員長。観世流名誉師範。位階は従六位。 夫石原幹市郎は自治大臣、福島県知事を務めた。元衆議院議員、元参議院議員の石原健太郎の母。父井上孝哉は戦前の内務次官、衆議院議員、各府県知事を歴任。 1958年5月22日投開票の第28回衆議院議員総選挙に、夫・幹市郎が所属した派閥の領袖大野伴睦より勧められ、衆議院の福島1区に出馬を決意、立候補するが次点に終わる。この選挙には同じく新人の天野光晴が前福島県知事の大竹作摩の支援を受け、河野一郎派から出馬当選している。三起子の衆議院議員選挙の出馬・落選により、福島1区での夫・幹市郎の基盤に陰りが生じ、参議院議員選挙落選へとつながっていく(幹市郎の引退後は息子や孫が地盤を引き継いでいる)。
越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982… 越谷 達之助(こしたに たつのすけ、1909年 - 1982年)は、日本の音楽教育家、作曲家、伴奏ピアニスト。 1931年、東京音楽学校師範科を卒業。和歌山師範学校に教官として赴任する。その後、俳優(芸名・高倉彰)を経て作曲家、伴奏ピアニスト(特に三浦環の伴奏家として著名)として各地で活躍する。第二次世界大戦後は、青山学院高等部に長年勤め、その傍ら同学院大学、短大講師を務めた。教育者としては一級であった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。
山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月1… 山田 申吾(やまだ しんご、1908年(明治41年)12月15日 - 1977年(昭和52年)7月7日)は日本画家。父は日本画家山田敬中。 父 敬中、母 はな の次男として東京府滝野川村(現・東京都北区)田端に生まれる。1926年(大正15年) 東京美術学校日本画科へ入学。同学年に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三らがいる。1930年(昭和5年)第11回帝展で《水辺初夏》が初入選。1931年(昭和6年)東京美術学校を卒業。卒業制作は《武蔵野》。その後、結城素明に師事する。 1944年(昭和19年) 私立麻布中学教諭となる。後に日本画家となる野田修一郎は麻布中学校時代に山田に師事している。 1950年(昭和25年) 第6回日展へ出品した《馬」》で特選、白寿賞を受賞する。
吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1… 吉村 順三(よしむら じゅんぞう、1908年9月7日 - 1997年4月11日)は、日本の建築家。東京藝術大学名誉教授。 東京市本所区緑町の呉服商の家に生まれる。東京府立三中卒業。東京美術学校(現東京藝術大学)で建築を学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れた。1931年に卒業後、アントニン・レーモンドに師事。モダニズム建築を体得するとともに、レーモンドに日本建築を伝える。1941年、吉村順三設計事務所を開設。1945年、東京美術学校助教授就任。1962年、東京藝術大学教授に就任。1970年、東京藝術大学名誉教授。1990年、日本芸術院会員。 皇居新宮殿の建設に関わった。日本の伝統とモダニズムの融合を図った。
大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日… 大智 浩(おおち ひろし、1908年〈明治41年〉8月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月18日)は、日本のグラフィックデザイナーである。岡山県出身。 旧制新潟県立村上中(現:新潟県立村上高等学校)、長岡高等工業学校を経て、東京美術大学(現在の東京芸術大学)卒業後、当時第二次世界大戦下で情報及び宣伝要員として活動した。戦後に独立し自身のデザイン事務所を設立し、多くの企業のCIマークの制作に携わる。1954年(昭和29年)にはニューヨークで開催された個展で大智の作品が出品され、デザイナー団体の日本代表に選出される等外でも有名となった。 その後は誠文堂新光社のデザイン雑誌『アイデア』のアートディレクターや東京教育大学や金沢美術工芸大学、実践女子大学の教授、国際デザイン交流協会会長を務めるなど、学生や海外のデザイナー対しての交流を深めた。
戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019… 戸田 繁子(とだ しげこ、1908年7月31日 - 2019年3月31日)は、日本の音楽教師。広島市で音楽教室「杉の子会」主宰。作曲家糀場富美子、指揮者大植英次らを育てた。 島根県飯南町出身。1923年に高等小学校を卒業、島根県女子高等師範学校に入学した。1927年に卒業後、島根県飯石郡吉田村小学校に赴任するが、さらに学ぶために松江市の飯田忠義の元に通いレッスンを受ける。1929年4月、東京音楽学校に設置された教員養成所の試験に合格。翌1930年5月から1932年3月まで、同校でピアノを遠山つや、声楽を田中伸江(ピアニスト田中希代子の母)に学ぶ。 1932年に卒業後は故郷に帰り、島根県立今市高等女学校(現・出雲高等学校)に勤務。
田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 197… 田中一村(たなか いっそん、1908年7月22日 - 1977年9月11日)は、日本画家である。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描いた。本名は田中孝。
東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年〈明治41年〉7月… 東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年〈明治41年〉7月8日 - 1999年〈平成11年〉5月6日)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。 船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる。父の仕事の関係で3歳の時に兵庫県神戸市西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現:東京芸術大学)の日本画科へ進学した。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に『山国の秋』を初出品し、初入選を果たす。
三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年… 三坂 耿一郎(みさか こういちろう、1908年 <明治41年> 5月26日 - 1995年 <平成7年> 8月3日)は、彫刻家、日本芸術院会員。本名は政治。位階は従四位。 福島県郡山市出身。1937年東京美術学校彫塑科卒業、新文展初入選。1939年研究科を修了し、その後清水多嘉示に師事。1947年日展特選。1961年日展審査員。1970年日展桂花賞受賞。1971年日展評議員。1972年日展文部大臣賞受賞。1979年日本芸術院賞受賞。1983年勲四等旭日小綬章受章。1986年日本芸術院会員。1987年郡山市名誉市民。1992年勲三等瑞宝章受章。1995年死去。死没日付をもって従四位に叙された。墓所は多磨霊園 熊本市にある宮本武蔵のブロンズ像、立教大学内の立教大学創始者ウイリアムズ主教像などの他、東京都練馬区や故郷の福島県郡山市に多くの作品がパブリックアートとして残る。
井口 基成(いぐち もとなり、1908年5月17日 - 19… 井口 基成(いぐち もとなり、1908年5月17日 - 1983年9月29日)は日本のピアニスト・ピアノ教育家。妹の井口愛子(後に佐藤愛子)と、前妻の井口秋子もピアニスト・ピアノ教育家という音楽一族。 井口基二と秀の長男として東京府東京市日本橋区浜町(現東京都中央区日本橋浜町)に生まれる。 1915年、浜町尋常小学校入学。1921年、京華中学校入学。16歳から田中規久士にピアノを師事。東京音楽学校器楽部ピアノ科にて高折宮次、レオニード・コハンスキに師事する。卒業後フランスに留学、イヴ・ナットのもとで研鑽を重ねた。1934年、帰国後初のリサイタルを日比谷公会堂で行い、その後活発な演奏活動を展開する。
南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976… 南 政善(みなみ まさよし 1908年5月3日 - 1976年4月28日)は、日本の洋画家。人物画を得意とした。 1908年(明治41年)5月3日、石川県羽咋郡志加浦村川尻(現・志賀町川尻)に生まれる。1935年(昭和10年)、東京美術学校油画科卒業。在学中には藤島武二に師事し、卒業の年に第二部会に出品して以降、官展、光風会展などに出品。1939年(昭和14年)の文展では「赤いチョッキ」で特選を受賞する。 第二次世界大戦中は中国への取材旅行を通じて戦争画も手掛けるようになり、1942年(昭和17年)の第二回聖戦美術展では「砲列布置」で陸軍大臣賞、「輸送船団」で海軍大臣賞を受賞した。 戦後は光風会の同志で交流のあった朝井閑右衛門、井手宣通、伊藤悌三、大河内信敬、須田剋太らとともに新樹会を創立。