藤田 明彦(ふじた あきひこ、1957年2月13日 - )は… 藤田 明彦(ふじた あきひこ、1957年2月13日 - )は、兵庫県西脇市出身の元野球指導者、元社会人野球選手。 東洋大姫路高校では左翼手、四番打者として活躍し、二年連続で夏の甲子園に出場。1973年夏の選手権は、2回戦(初戦)で旭川龍谷高に敗退。1974年夏の選手権は3回戦に進むが、平安高に惜敗。この時のチームメイトに遊撃手の弓岡敬二郎がいた。 系列校の東洋大学経営学部に進学。東都大学野球リーグでは、2年次に同期のエース松沼雅之と1学年上・達川光男のバッテリーを擁し1976年秋季リーグでチーム初優勝を経験。同年の明治神宮大会では準決勝で松本匡史、山倉和博、岡田彰布らを擁する早大に敗退。1978年秋季リーグでは2回目のリーグ優勝に貢献した。
鷲谷 亘(わしや わたる、1956年9月7日 - )は元プロ… 鷲谷 亘(わしや わたる、1956年9月7日 - )は元プロ野球審判員。秋田県由利本荘市出身。審判員袖番号は29(1988年初採用から1996年引退まで、現在は2年目の水落朋大)。
松沼 雅之(まつぬま まさゆき、1956年7月24日 - )… 松沼 雅之(まつぬま まさゆき、1956年7月24日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。 現役時代は、西武ライオンズに在籍。兄は元西武投手の松沼博久。西武在籍当時、博久は「松沼兄」雅之は「松沼弟」と呼ばれていた。通称「オトマツ」「おとやん」。 4人兄弟の末弟(四男)(博久は三男)として生まれる。東京都墨田区から千葉県流山市に転居。高校は茨城県の取手二高に進学。エースとして1974年夏の県大会決勝に進む。土浦日大高の工藤一彦と投げ合うが1-3で惜敗、甲子園出場を逸した。 卒業後は博久と同じく東洋大学に進む。東都大学野球リーグでは1年上の達川光男とバッテリーを組み、1976年秋季リーグで8勝1敗の好成績をあげ、チームのリーグ初優勝に貢献した。
達川 光男(たつかわ みつお、1955年7月13日 - )は… 達川 光男(たつかわ みつお、1955年7月13日 - )は、日本の元プロ野球選手(捕手)・監督、野球解説者。
松沼 博久(まつぬま ひろひさ、1952年9月29日 - )… 松沼 博久(まつぬま ひろひさ、1952年9月29日 - )は、東京都墨田区出身の元プロ野球選手(投手)。野球解説者。日本プロ野球OBクラブ副理事長も務めている。 弟は、元西武投手の松沼雅之。西武在籍当時、博久は「松沼兄」雅之は「松沼弟」と呼ばれていた。通称「アニヤン」。 4人兄弟の三男。東京都墨田区から千葉県流山市に転居。中学校の野球部の先輩が進学していたこともあり、茨城県の取手二高に進学。1969年秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、磯原高に敗退。 高校卒業後は東洋大学に入学。後に西武でチームメイトになる同期の市村則紀と、投手の二本柱として活躍した。しかし東都大学野球リーグでは駒大、中大に阻まれてリーグ初優勝には届かず、1973年秋季リーグから3季連続で2位に甘んじる(卒業後の1975年春の2位を含めると4季連続)。
市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は… 市村 則紀(いちむら のりお、1952年7月16日 - )は、茨城県常総市出身の元プロ野球選手(投手)。 茨城県の石下高校時代は、1970年の夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、竜ヶ崎一高に敗れる。 高校卒業後は、東洋大学へ進学し硬式野球部に入部する。東都大学リーグ通算37試合に登板し7勝8敗。1973年秋季リーグから3シーズン連続2位となるが優勝には届かなかった(卒業後の1975年春の2位を含めると4シーズン連続)。後に西武でチームメイトになる大学同期の松沼博久と、投手の二本柱として活躍した。また、大学の3学年後輩には達川光男がいた。 大学卒業後は、社会人野球の電電関東に入団。先発型の好投手が多く出場機会に恵まれなかったが、リリーフとして徐々に活躍。
玉井 信博(たまい のぶひろ、1949年9月7日 - )は、… 玉井 信博(たまい のぶひろ、1949年9月7日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。読売ジャイアンツ、太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズに所属した。
高橋 昭雄(たかはし あきお、1948年6月8日 - 202… 高橋 昭雄(たかはし あきお、1948年6月8日 - 2022年9月7日)は、埼玉県出身のアマチュア野球選手、野球指導者である。ポジションは捕手。旧姓は佐藤。 大宮工業高校では、捕手として1965年秋季関東大会県予選決勝に進むが、大宮高に敗退。卒業後は東洋大学に入学。東都大学野球リーグでは優勝に届かず、3位2回が最高成績であった。大学1年上に会田照夫、細川昌俊がいた。 大学卒業後に社会人野球の日産自動車に入社するが、僅か1年で退団した。 1972年から23歳という若さで母校の東洋大学の監督に就任した。1970年代は駒澤大や中央大が強く、東都大学野球リーグ戦では例年2位に甘んじていた。 1976年の秋季リーグで、松沼雅之投手 - 達川光男捕手のバッテリーで初の1部優勝を遂げた。
会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021… 会田 照夫(あいだ てるお、1947年6月5日 - 2021年2月22日)は、埼玉県春日部市出身のプロ野球選手(投手)。アンダースロー投手であった。 子は3男で、エコノミストの会田卓司、プロ野球選手の会田有志(三男)がいる。 小学6年から野球を始め、中学3年の時に遊撃手から投手に転向。 上尾高等学校ではエースとして1964年秋季関東大会に進むが、1回戦で市銚子高に延長10回サヨナラ負け。翌1965年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、大宮高校に敗退し甲子園出場はならなかった。高校の1年上に山崎裕之、同期に江田幸一がいる。 卒業後は高校時代の監督である野本喜一郎に引き連れられ、当時は東都大学野球リーグ二部に低迷していた東洋大学に進学。
細川 昌俊(ほそかわ まさとし、1947年 - )は、香川県… 細川 昌俊(ほそかわ まさとし、1947年 - )は、香川県出身の実業家、元アマチュア野球選手。 香川県立志度商業高等学校ではエースとして活躍。1964年秋季四国大会県予選では準決勝に進むが、丸亀商に敗退。1965年ドラフト会議でサンケイスワローズに8位指名を受けるが拒否。 東洋大学に進学し外野手に転向。当時の東洋大は東都大学野球リーグ二部に低迷していたが。同期のエース会田照夫の好投もあり1966年秋季リーグで二部優勝。入替戦で芝工大を降し、5年ぶりに1967年春季リーグから一部昇格を果たす。しかし一部優勝には届かず、1968年春季リーグの3位が最高成績であった。1968年秋季リーグでは、専大の芝池博明から神宮球場バックスクリーン越えの本塁打を放ち注目を集める。
上垣内 誠(かみごうち まこと、1944年6月30日 - )… 上垣内 誠(かみごうち まこと、1944年6月30日 - )は、広島市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手)。
上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は… 上野 美記夫(うえの みきお、1943年1月20日 ‐ )は、北海道函館市出身の元アマチュア野球選手・元アマチュア野球指導者。 北海道函館市で育ち、函館有斗高等学校では1番打者で遊撃手を務めた。 卒業後、富士製鉄室蘭に入団すると1年間プレーした。 1963年4月に東洋大学に入学したのと同時に20歳で函館大学付属有斗高等学校の監督に就任し、1998年3月に定年を迎えるまで35年間指導した。就任10年目の1972年、第4回明治神宮野球大会で監督として初の明治神宮野球大会出場を果たした(通算5度の出場で1勝5敗)。就任11年目の1973年、第45回選抜高等学校野球大会で監督として初の選抜高等学校野球大会出場を果たした(通算6度の出場で4勝6敗)。
宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2… 宮寺 勝利(みやでら かつとし、1940年11月4日 - 2025年5月20日)は、東京都目黒区出身のプロ野球選手(捕手)・解説者。 荏原高校では1958年に全国高等学校野球選手権東京大会で5回戦まで進出するが、明治高に敗退。高校卒業後は東洋大学に進学。東都大学リーグでは、高校同期の広沢忠雄(電電東京)とバッテリーを組み、1961年秋季二部リーグで優勝。入替戦で専大を降し、1962年春季リーグから一部リーグへの初昇格を果たす。同季は三沢今朝治(駒大)に次ぐ、リーグ2位の打率.409を記録し、ベストナイン(捕手)にも選出された。 大学卒業後の1963年に読売ジャイアンツへ入団するが、在籍中の公式戦出場は僅か32試合に留まった。
後藤 武晴(ごとう たけはる、1937年9月1日 - )は、… 後藤 武晴(ごとう たけはる、1937年9月1日 - )は、徳島県出身の元プロ野球選手。 脇町高校から東洋大学を経て1960年に東映フライヤーズへ入団。1軍試合出場は1年目の2試合のみとなり1963年に引退。
落合 博満 は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監… 落合 博満 は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督、野球解説者、タレント。