竹中 敏浩(たけなか としひろ、1956年 - )は、日本の… 竹中 敏浩(たけなか としひろ、1956年 - )は、日本の教育者。元兵庫県立神戸高等学校教頭、兵庫県立三木東高等学校第14代校長、兵庫県立北摂三田高等学校第12代校長。 兵庫県立神戸高等学校(27回生)を経て、信州大学理学部地質学科を卒業した。高校時代は、ラグビー部に所属[要出典]。 兵庫県高等学校の教員として、高等学校理科の地学分野で採用される。「以降、40年に渡って、兵庫県では高等学校理科の地学分野での採用がな」かったという。このほか、兵庫県立神戸甲北高等学校在職時の1998年、兵庫県理化学会兵庫県高等学校教育研究会理科部会の会誌に「理科教育の国際比較」という文章を掲載している。同校ではテニス部の監督も務めていた。
小寺 裕(こてら ひろし、1948年 - 2025年7月19… 小寺 裕(こてら ひろし、1948年 - 2025年7月19日 )は、日本の教育者、数学史家、和算家。 大阪府出身。信州大学理学部数学科卒。東大寺学園中学校・高等学校にて長く教鞭を取る。その折、小説『算法少女』を教材として採り上げ、その復刊に尽力する。2017年度をもって教師を退職。全国の算額の調査に取り組み、現在も継続中である。日本数学史学会運営委員長を務める。また二代目福田理軒の号を持つ和算家でもある。
小河 勝(おごう まさる、1944年9月18日 - ) は、… 小河 勝(おごう まさる、1944年9月18日 - ) は、大阪府大阪市出身の教育者。元公立中学校教諭。元大阪府教育委員会委員。元和歌山大学教育学部非常勤講師。元大阪樟蔭女子大学学芸学部非常勤講師。株式会社小河教育研究所代表取締役社長。ミレニアムエデュケーションセンターJAPAN(MEC-JAPAN)代表理事。学校法人ポプラ学園理事。ポプラ介護福祉学校校長。 1963年、大阪府立生野高等学校卒業。1970年、信州大学文理学部自然科学科卒業。 大阪市立本庄中学校の臨時講師を務めたことがきっかけで教育に関心を持ち、1973年に大阪市立加美中学校の理科教諭となる。大阪市立港中学校を経て、1998年から大阪市立市岡中学校に勤務。
上條 宏之(かみじょう ひろゆき、1936年1月17日 - … 上條 宏之(かみじょう ひろゆき、1936年1月17日 - 2023年2月7日)は、日本の歴史学者(郷土史家)・教育者。信州大学名誉教授。専攻は日本近代史。 長野県松本市出身。長野県松本深志高等学校を経て、1958年に東京教育大学文学部史学科を卒業。長野県内の公立高等学校教諭を経て、長野県県政史編纂室に勤務後、長野県短期大学助教授、信州大学教授を経て、長野県短期大学学長。 2018年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。
中野 和朗(なかの かずお、1933年 - 2026年5月1… 中野 和朗(なかの かずお、1933年 - 2026年5月19日)は、日本のドイツ文学者、教育者、信州大学名誉教授、松本大学名誉教授。松本大学の初代学長を務めた。 長野県松本市、ないし、岡谷市の出身。 信州大学文理学部から、東京都立大学 (1949-2011)(首都大学東京の前身のひとつ)大学院に進んでドイツ文学を学び、1963年に文学修士を取得。信州大学の教員となり、人文学部長、共通教育センター長などを務めた。 この間、おもにスイスのドイツ語作家ゴットフリート・ケラーの研究を行なった。 1999年に信州大学を定年退職し、松商学園短期大学学長に就任したが、当時は国立大学とはまったく異なる、教員も事務職員とともに高校訪問や就職支援業務にあたる私立大学の環境にカルチャーショックを受けたという。
毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) -… 毛涯 章平(けがい しょうへい、1923年(昭和12年) - 2016年(平成28年)7月18日)は、飯田市旧南信濃村出身の日本の教育者、著述家。 1943年(昭和18年)長野県師範学校男子部本科卒業(現在の信州大学教育学部)。 教壇に立った後に校長職などを歴任。その後も、長野県教育委員会指導主事、信濃教育会研究調査部主任、信濃教育会研究図書部主任、下伊那教育会長、下伊那校長会長、長野県中学校長会長、全日本中学校長会理事などを歴任し教育行政の発展に尽力する。1988年(昭和63年)に教職を退職。 その後、結婚を機に移り住んでいた豊丘村にて20年間豊丘村教育委員(うち17年間は教育長)を務める。豊丘村では恒例となった満1歳児と小中学生を対象にした誕生日本贈呈事業を始めた。
松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月2… 松井 芒人(まつい ぼうじん、本名: 源衛、1895年1月25日 - 1980年12月27日)は、日本の歌人、教育者である。 長野県上伊那郡伊那富村(現辰野町羽場)生まれ。長野県立諏訪中学校を経て、1914年長野県師範学校(現・信州大学)を卒業。上伊那郡七久保小学校を振り出しに県内各地で教職に携わる。高遠国民学校、高遠拓殖青年学校、高遠実科高等女学校の校長を歴任。 1917年、「アララギ」入会。島木赤彦、土屋文明、土田耕平と相識り、歌は「アララギ」一筋によりながら、1947年には歌誌「流域」を主宰して、上伊那地域の人々の短歌指導にあたった。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 19… 松岡 弘(まつおか ひろむ、1890年12月19日 - 1983年3月8日)は、日本の教育者。第二次世界大戦後、長く信濃教育会会長を務め、また日本連合教育会会長も務めた。 長野県南安曇郡温村(現在の安曇野市三郷温下長尾)に生まれた。務台理作とは同郷で、南安曇郡温村立長尾尋常小学校以来の同級生であった。梓農業補習学校に学んだ後、1908年に長野県師範学校(信州大学教育学部の前身のひとつ)に入学し、1912年に卒業して教師となり、以降、訓導、校長、県視学官などを務めた。 松岡は師範学校在学中に手塚縫蔵と知り合い、キリスト教に入信し、松本市の聖公会で受洗した。松岡は、長野県師範出身者を中心として青年教師らが集まっていた東西南北会に参加しており、1912年に最初に着任した南安曇郡温明小学校で校長排斥運動に関与したが、岡村千馬太に諭され、同校を去った。
岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 19… 岡村 千馬太(おかむら ちまた、1875年2月1日 - 1936年6月15日)は、日本の教育者。号は天機。 長野県安曇郡中萱村(現安曇野市)生まれ。南安曇郡高等小学校卒業後、明治24年(1891年)に上京し、小石川の尚志社に学んだのち、長野師範学校在学中に東邦協会に入会する。同30年(1897年)に卒業後、長野県内各地の尋常小学校で訓導や校長などを歴任した。同44年(1911年)同志の教育者とはかって「東西南北会」を設立し、長野に三宅雪嶺、犬養毅、古島一雄、池辺三山らを招いて講演会を開催し、人格主義教育を唱導した。 諏訪郡・小県郡視学や長野県視学を経て、大正11年(1922年)埴科郡長に任命されるが、教育に専念するため辞職。
寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863… 寄藤 好実(よりふじ よしざね、文久3年3月14日(1863年5月1日) - 昭和3年(1928年)5月21日)は、日本の教育者。幼名は銀吉。号は紫軒。 信濃国松本城下に松本藩士寄藤武八郎義弘の長男として生まれる。明治元年(1868年)藩校崇教館に学ぶ。廃藩による秩禄処分により、同7年(1874年)一家を挙げて安曇郡東穂高村(現長野県安曇野市)に移り、高橋白山の矢原研成学校に学ぶ。生活は困窮したが、苦学の末、同16年(1883年)長野県師範学校を卒業。南安曇郡穂高尋常小学校訓導、東筑摩郡小学督業、同郡堀之内尋常小学校校長を経て、同22年(1889年)松本尋常小学校(後の旧開智学校)校長兼訓導に転任し、同25年(1892年)同高等小学校校長兼訓導に任命された。