山本 太郎(やまもと たろう、1911年2月28日 - 没年… 山本 太郎(やまもと たろう、1911年2月28日 - 没年不詳)は、日本のラグビー選手。主なポジションはプロップ(PR)およびフッカー(HO)。旧姓は佐々倉(ささくら)。 1930年福岡県中学修猷館を卒業。慶應義塾大学へ進学し、ラグビー部に入部。 慶應義塾大学在学中にラグビー日本代表に選出され、1934年2月11日明治神宮外苑競技場で開催された、豪州学生選抜第1回来日第5戦、および1934年2月18日花園ラグビー場で開催された、豪州学生選抜第1回来日第7戦に出場した。キャップ2。 1945年9月中旬、山本は九州大学工学部のグラウンドで行われた修猷館中学対福岡中学のOB戦に出場した。この試合が九州ラグビー界戦後の幕開けとなっており、試合後に川津尚彦、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立を決議した。
豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 19… 豊永 幸三(とよなが こうぞう、1911年1月3日 - 1987年3月3日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。山口県出身。 1936年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、同年に王子製紙に入社。1949年に十條製紙に転じ、1965年11月に取締役に就任し、1968年5月に専務を経て、1973年5月に副社長に就任し、1976年6月には社長に就任。1982年6月に会長に就任。 1984年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1987年3月3日呼吸不全のために死去。76歳没。
菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)… 菱刈 隆文(ひしかり たかふみ、1911年 - 1974年)は、日本の報道記者、実業家。 1937年に同盟通信に入社し、中国戦線に記者として従軍。1941年12月、陸軍報道班員としてマレー作戦に従軍、第25軍司令部要人の通訳を務めるなどした。シンガポール陥落後は第25軍参謀部の情報工作に関与。戦後行われたシンガポール華僑粛清事件の戦犯裁判では杉田一次ら第25軍司令部参謀からの伝聞内容について証言。戦後、吉田茂首相秘書官等を経て1956年に空港グランドサービス社長。 1911年、東京で、実父が陸軍大将菱刈隆という軍人一家に生まれる。父からは、自動車の運転と外国語、写真を習っておくように言われていた。
山本秀夫(やまもと ひでお、1911年 - 1991年)は、… 山本秀夫(やまもと ひでお、1911年 - 1991年)は、日本の中国学者。東京府出身。 東京生まれ。1935年、慶應義塾大学文学部哲学科卒、東亜研究所に入る。1946年退職、1955年農業総合研究所中国研究室勤務。1977年退職。
三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月1… 三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月12日 - 2006年(平成18年)1月25日)は、日本の実業家。料亭「濱田家」の二代目。明治座の元代表取締役会長。 兄は元三田観光企業社長・三田庄三郎。息子は料亭濱田家、明治座社長の三田芳裕。孫は明治座常務取締役の三田光政と元フジテレビアナウンサーの三田友梨佳。 1910年(明治43年)、東京市日本橋区青物町(現中央区日本橋)に生まれる。父・五三郎は板前の職人で、日本橋の福井楼という料亭の料理長だった。政吉が生まれてから2年後の1912年(大正元年)に、父・五三郎は日本橋人形町の玄冶店跡地にて料亭「濱田家」を創業。子供の時はデパートに行くのが楽しみだった。
降旗 憲二郎(ふりはた のりじろう、1910年12月5日 -… 降旗 憲二郎(ふりはた のりじろう、1910年12月5日 - 2002年6月2日)は、日本の企業家。三菱銀行元常務。 長野県北安曇郡常盤村(現大町市)生まれ。1928年(昭和3年)旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1934年(昭和9年)慶応義塾大学経済学部卒業。 同年、三菱銀行の前身である千代田銀行入行。三菱銀行代表取締常務、富士紡績監査役を務めた。 1950年(昭和25年)の第7回通常国会において、商法改正に関する小委員会の設置に際し、財界より広く意見を聴取することを目的として以下の参考人メンバーが決定されたが、その中に降旗の名前も挙げられている。
籠山 京(篭山 京、かごやま たかし、1910年11月15日… 籠山 京(篭山 京、かごやま たかし、1910年11月15日 - 1990年6月16日)は、日本の衛生学者。 長崎県南高来郡小浜町(現・雲仙市)出身。1934年慶應義塾大学医学部卒。1938年「煖房に関する衛生気象学的研究」で医学博士。慶大講師、満鉄衛生研究所員、1944年同衛生試験所長。引き上げ後、中央労働学園大学教授、法政大学教授、1952年北海道大学教授。1969年上智大学教授。1981年定年、名誉教授。社会保障制度審議会委員など。1976年、著書の『戦後日本における貧困層の創出過程』について日本生活学会賞受賞、1983年勲二等瑞宝章受勲。著作集全8巻がある。 貧困層を調査、最低生活費について研究した。
高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 200… 高岩 肇(たかいわ はじめ、1910年11月9日 - 2000年1月28日)は、日本の脚本家。 東京生まれ。慶應義塾大学卒。在学中から小説『季節の展望』『素質』『新三田派』を発表した。1939年の映画『若き日の感激』で脚本を担当。以後シナリオ作家として活動し、1951年から東映や大映を中心に映画脚本を執筆した。 2000年1月28日、腎不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治4… 羽生田 進(はにゅうだ/はにうだ すすむ、1910年〈明治43年〉10月19日 - 1999年〈平成11年〉7月27日)は日本の政治家(衆議院議員、科学技術庁政務次官)、眼科医(医学博士、羽生田眼科医院院長、群馬県医師会名誉会長、日本眼科医会会長)。勲二等瑞宝章、藍綬褒章受章。陸軍軍医少尉。元参議院議員・羽生田俊の父。 羽生田家の先祖は長野県上高井郡豊丘村(現・須坂市大字豊丘)の旧家で、祖父・仁作が分家して群馬県勢多郡富士見村箕輪(現・前橋市富士見町赤城山)で牧場を経営した。進の父・俊次は長野県北安曇郡美麻村(現・大町市)の農家・田中常太郎・みす夫婦の次男として生まれ、医術開業試験に合格して眼科医となった。
浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10… 浜田 駿吉(はまだ しゅんきち、1910年(明治43年)10月19日 - 2009年(平成21年)12月7日)は、兵庫県神戸市生まれのフィールドホッケー選手、実業家。出身は同県の西淡町(現南あわじ市)。オーエム製作所の会長や大和紡績(現在のダイワボウホールディングス)の常務などを務めた。1933年慶應義塾大学経済学部卒業。。 中学校3年時より慶應義塾普通部へと転入、その後ホッケーを始め慶應義塾大学在籍時には日本代表へと選出された。1932年にはロサンゼルスオリンピックに代表選出されゴールキーパーとして出場、出場した3チーム中2位で銀メダルを獲得した。社会人となった1936年ベルリンオリンピックにも出場したが、予選リーグで敗退している。
牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 20… 牧野 直隆(まきの なおたか、1910年10月6日 - 2006年7月18日)は、鹿児島県出身の野球選手、指導者、日本高等学校野球連盟会長。 慶應義塾商工学校から慶應義塾大学経済学部卒業。慶大野球部では主将・遊撃手として活躍。水原茂と三遊間コンビを組んだ。水原リンゴ事件の際には主将として混乱の収拾にあたり、早慶戦、大学野球の灯りを死守した。 1934年に鐘淵紡績に入社した後もアマチュア野球選手としてプレーを続け、同年の第8回全日本都市対抗野球大会では三原脩と共に全大阪チームのメンバーとして出場して優勝したほか、アメリカ・大リーグ選抜が2度目の来日をした際には全日本チームのメンバーに選ばれた経験も持つ。
鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3… 鈴木 義雄(すずき よしお、1910年(明治43年)10月3日 - 1999年(平成11年)7月23日)は、日本の実業家、通産省官僚。通産省重工業局長、日揮社長・会長、日本輸出入銀行理事などを歴任した。
水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 19… 水谷 則一(みずたに のりかず、1910年9月1日 - 1984年8月29日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(外野手)、野球指導者(プロ野球監督)。
大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 198… 大澤 孝(おおさわ たかし、1910年7月26日 - 1987年1月10日)は、日本の経営者。山梨県出身。 府立一中を経て、1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に鐘紡に入社。 1949年に鐘淵化学工業(現在のカネカ)に転じ、1956年11月に取締役に就任し、1962年2月に常務、1968年5月に専務を経て、1969年5月に副社長に就任し、1974年11月には社長に昇格。1978年11月に会長に就任し、1982年6月から相談役を務めた。 1987年1月10日脳梗塞のために死去。76歳没。
守屋 時郎(もりや ときろう、1910年5月21日 - 20… 守屋 時郎(もりや ときろう、1910年5月21日 - 2001年6月4日)は、日本の経営者。大東京火災海上保険社長、会長を務めた。東京都出身。 1930年に慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。1956年6月に取締役に就任し、1957年6月に常務を経て、1960年6月に副社長に就任し、1962年6月には社長に昇格。1970年6月に会長に就任し、1975年6月から1979年7月までに常任監査役を務めた。 1971年10月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2001年6月4日胃癌のために死去。91歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
石川 七郎(いしかわ しちろう、1910年4月20日 - 1… 石川 七郎(いしかわ しちろう、1910年4月20日 - 1986年6月27日)は外科医、慶應義塾大学教授。 京都府京都市中京区出身。1936年(昭和11年)慶應義塾大学医学部卒。慶應義塾大学医学部教授を経て国立がんセンター病院長、総長を務める。胸部外科の権威として知られ、慶應義塾大学病院、国立がんセンター病院で辣腕を振るう。墓所は多磨霊園。 孫は元NHKアナウンサーの石川光太郎。 専門は呼吸循環器外科であり、数々の肺癌摘出手術を行うも、本人はヘビースモーカーであった。親分肌の豪快な人物として知られ多くの部下に慕われた。軍医として戦陣医療に携わった経験もある。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
沢海 東助(さわみ とうすけ、1910年(明治43年)3月3… 沢海 東助(さわみ とうすけ、1910年(明治43年)3月31日 - 没年不明)は、日本の水球選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1910年3月31日、新潟県に生まれる。慶應義塾大学予科に入学してからは、東京都渋谷区にある同大学の寄宿舎に暮らした。ポジションは右翼のフォワードで、長身を生かした力強いシュートを持ち味とした。1931年に翌年のオリンピックの選手として推薦される。1932年のロサンゼルスオリンピックでは水球競技において、8月7日のアメリカ合衆国戦と8月8日のハンガリー戦に出場したが、どちらでも他の全ての日本選手と同じく0シュートに終わった。その後、日本水泳連盟水球委員、日本学生水泳連盟水球常任委員、慶應義塾大学水球部主将などを歴任した。
高橋 勇雄(たかはし いさお、1910年(明治43年)3月1… 高橋 勇雄(たかはし いさお、1910年(明治43年)3月14日 - 1973年(昭和43年)5月25日)は、日本の元政治家、実業家。元倉敷市長。 戦後復興期から高度経済成長期前にかけ旧倉敷市長を5期15年以上務めた。同市議会議員、会社社長役員。倉敷市文化章(地方自治)受賞者。 広島県比婆郡東城町出身。 1933年、慶應義塾大学を卒業後、倉敷奨農土地(現・三楽)に入社。1939年、倉敷絹織(現・クラレ)西条工場に入社。 1947年、倉敷市議会議員に初当選し、以後は倉敷市議会議長を務める。 1949年2月、倉敷市長に初当選し、以後5期連続当選ののち辞任。 1964年(昭和39年)、倉敷国際ホテル取締役を経てクラレグループ各社役員、監査役、社長を歴任。
大庭 秀雄(おおば ひでお、1910年2月28日 - 199… 大庭 秀雄(おおば ひでお、1910年2月28日 - 1997年3月10日)は、東京市赤坂区青山(現・東京都港区青山)出身の映画監督である。妻は女優の森川まさみ。 1934年に慶應義塾大学国文科を卒業後、松竹蒲田撮影所に入社。清水組で佐々木康監督の助監督を経て、1939年に『良人の価値』で監督デビュー。1936年に開所した松竹大船撮影所で「大船調」と呼ばれるメロドラマやホームドラマを製作した。 菊田一夫原作のラジオドラマを映画化した『君の名は』三部作(1953年 - 1954年、主演・岸恵子)は空前の大ヒットとなった。そのためもっぱら通俗メロドラマの名監督として語られるが、地味なホームドラマにむしろ佳作が多い。
九重 京司(ここのえ きょうじ、1910年2月16日 - 1… 九重 京司(ここのえ きょうじ、1910年2月16日 - 1985年7月2日)は、日本の俳優、著述家(性神研究家)である。元助監督、元脚本家であり、小津安二郎の『東京の女』および『非常線の女』(1933年)に見習助監督としての記録がある。本名平塚 廣雄(ひらつか ひろお)。東京府知事、台湾総督府総務長官、貴族院勅選議員を歴任した平塚廣義は実父である。 1910年(明治43年)2月16日、長崎県長崎市に生まれる。父・平塚広義(1875年 - 1948年)は、当時は内務省の官僚であり、長男の廣雄(九重京司)は父が各地の知事を務めるたびに各地を転々とし、廣雄が15歳のころ、1925年(大正14年)9月16日には東京府知事に就任している。
乾 恒雄(いぬい つねお、1910年1月18日 - 1998… 乾 恒雄(いぬい つねお、1910年1月18日 - 1998年10月21日)は、日本の実業家。オリックス元社長・会長。 大阪府出身。法曹一家の生まれ。1933年に慶應義塾大学経済学部卒業後、三和銀行(現・三菱UFJ銀行)へ入社。[要出典]1964年にオリエント・リース設立に参加し、副社長に就任する。1967年、福井慶三の後任として2代目社長に就任。社長時代は、自主独自路線を選択し、出向者をゼロにし、親会社からの紹介を受けずに自ら知恵を出して顧客を開拓した社風を築いたことで知られていた。[要出典]1980年に社長の座を当時45歳の宮内義彦に譲り、会長に就任して長年にわたり務めた。1998年10月21日死去。
近藤 敬四郎(こんどう けいしろう、1910年 <明治43年… 近藤 敬四郎(こんどう けいしろう、1910年 <明治43年> 1月2日 - 1991年 <平成3年> 4月2日)は、日本の経営者、銀行家。新潟県長岡市出身。位階は従五位。 1936年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に六十九銀行(のちの北越銀行)に入行。 1965年11月に取締役に就任し、1968年12月に常務、1972年11月に専務を経て、1977年6月には頭取に就任。1981年6月には相談役に就任。 1982年4月に勲四等瑞宝章を受章。 1991年4月2日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
朝吹 英一(あさぶきえいいち、1909年(明治42年)12月… 朝吹 英一(あさぶきえいいち、1909年(明治42年)12月22日 - 1993年(平成5年)6月14日)は、日本の音楽家・経営者。千代田組会長を歴任。日本木琴協会(現・日本マリンバ協会)初代会長。 父は千代田組を創業した後、三越社長、帝国生命保険株式会社(現朝日生命保険相互会社)社長、日本庭球協会(現・日本テニス協会)を創立し初代会長を務めた朝吹常吉[要出典]。 幼い頃に木琴を買い与えられてプロ級の腕前となり、慶應義塾幼稚舎より進学した慶應義塾大学経済学部に在学中の1927年(昭和2年)から木琴奏者としてNHKのラジオ放送に出演し、1930年にアメリカで音楽を学んだのち、大手レコード会社各社からレコードを出すなどした。
梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2… 梅澤 純夫(うめざわ すみお、1909年11月22日 - 2000年3月30日)は、日本の有機合成化学者。専門は抗生物質。慶應義塾大学名誉教授。 東京都生まれ。旧制武蔵高等学校を経て、北海道帝国大学理学部卒業。北海道帝国大学助教授、藤原工業大学助教授を経て、1944年慶應義塾大学工学部(現理工学部)教授となる。 1944年「ペニシリン委員会」のメンバーとして、次弟の梅澤濱夫博士と共同で研究にあたり、日本初のペニシリン採取に成功。ペニシリン、ストレプトマイシン等の抗生物質の研究で世界的に知られる。また、梅澤濱夫らが発見した国産初の本格的抗生物質カナマイシンの化学構造の決定に寄与した。世界に先駆け、ストレプトマイシン(1974年)その他の数多くの抗生物質の全合成を達成し、日本の有機合成化学、抗生物質の研究をリードした。
今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉… 今井 善一郎(いまい ぜんいちろう、1909年〈明治42年〉10月8日 - 1976年〈昭和51年〉1月10日)は、群馬県出身の民俗学者。日本民俗学会評議員。群馬県勢多郡北橘村議会議員を務めた。 1909年(明治42年)10月8日、群馬県勢多郡北橘村下箱田(現・渋川市北橘町下箱田)の今井善平と新子の長男として生まれる。今井家は農林業のかたわら質屋を経営していた。今井家は代々「善兵衛」の名を継ぐ旧家で祖父の今井善兵衛は1905年から1909年まで北橘村村長をつとめていた。1916年(大正5年)、橘尋常高等小学校に入学する。1922年(大正11年)、前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学する。
金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9… 金丸 吉生(かなまる よしお、1909年 <明治42年> 9月6日 - 1995年 <平成7年> 9月20日)は、日本の経営者、銀行家。百五銀行頭取を務めた。位階は正五位。 三重県鈴鹿市出身。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1940年に百五銀行に入行。1955年10月に取締役に就任し、1957年10月に常務、1963年10月に専務を経て、1969年5月に副頭取に就任し、1977年11月に頭取に昇格。1991年6月に会長に就任。1987年6月から1995年6月までに近畿日本鉄道取締役を務めた。 1980年11月に勲五等瑞宝章を受章し、1988年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1995年9月20日心筋梗塞のために死去。
岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月… 岩元 達一(いわもと たついち、1909年(明治42年)9月1日 - 1982年(昭和57年)6月23日)は、日本の実業家、政治家。山形屋会長、貴族院多額納税者議員。 鹿児島県鹿児島市で、実業家・岩元善蔵(岩元信兵衛弟)の三男として生まれ、伯父・信兵衛の養嗣子となり、山形屋の6代目を継承した。第一鹿児島中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1934年(昭和9年)慶應義塾大学法学部を卒業した。その後、東京銀座の松屋に入社し、デパート経営を経験した。 1935年(昭和10年)山形屋の取締役に就任し、1943年(昭和18年)会長となる。その他、田辺鉄工所監査役、新生工業副社長、日本瓦斯取締役、小牧組取締役などを務めた。
藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979… 藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979年10月23日)は、東京市出身の俳優、元ラグビー選手。日本代表・キャップは1。
新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27… 新田 圭二(にった けいじ、1909年〈明治42年〉8月27日 - 1996年〈平成8年〉12月14日)は、日本の政治家、経営者。山口県宇部市長(第17代)。宇部興産(現:UBE)取締役山陽無煙鉱業所長、日本石灰工業所社長。 1934年(昭和9年)、慶應義塾大学法学部を卒業。宇部興産(後のUBE)グループにおいて、同社取締役山陽無煙鉱業所長、宇部化学工業(後の宇部マテリアルズ)専務取締役を歴任した。1947年(昭和22年)4月22日、宇部市基本財産として多額の私財を寄付し紺綬褒章を受章。 また社業と並んで宇部市議会議員を務め、1952年(昭和27年)には教育委員会制度の発足に伴い市議会代表として教育委員に選出。
内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 19… 内村 直也(うちむら なおや、1909年8月15日 - 1989年7月27日)は、日本の劇作家、翻訳家。本名:菅原実(すがわら みのる)。実業家・劇作家の菅原卓は兄である。妻の富子は安川敬一郎の孫。 東京生まれ。1932年、慶應義塾大学経済学部卒。岸田國士に師事、同人誌『劇作』を編集担当。1935年に処女作「秋水嶺」を発表、築地座で上演された。戦後の作品として「雑木林」(1948)、「遠い凱歌」(1956)などがある。 NHKの連続ラジオ劇「えり子とともに」(1948 - 1951)の脚本ならびに劇中歌「雪の降るまちを」の作詞で広く知られている。また、日本の民間放送で初のテレビドラマとなった「私は約束を守った」(日本テレビ)(1953)や、「追跡」(NHK)(1955)をはじめ、初期のテレビドラマでも多く作品を発表した。
中島 正義(なかじま まさよし、1909年7月29日 - 1… 中島 正義(なかじま まさよし、1909年7月29日 - 1991年12月25日)は、日本の経営者。アサヒビール社長を歴任。 東京都港区出身。1932年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本麦酒鉱泉に入社。朝日麦酒で西宮工場長、取締役、常務、専務などを歴任し、1966年2月から1971年2月までに社長を務めた。 1979年11月に勲三等瑞宝章を受章した。 1991年12月25日脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
加賀山 直三(かがやま なおぞう、1909年7月1日 - 1… 加賀山 直三(かがやま なおぞう、1909年7月1日 - 1978年1月26日)は、日本の歌舞伎評論家。 山口県生まれ、慶應義塾大学文学部国文科卒。在学中から岡鬼太郎に師事し、松竹、NHK勤務のかたわら戦時中より演劇評論を始める。1966年新設の国立劇場に勤務、芸能制作室長、芸能調査室長、1976年退任。 1978年1月、三原橋の街角で倒れ、死去。68歳没。『演劇界』に「家須満」の名で執筆していた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡野 祐(おかの たすく、1909年6月22日 - 1988… 岡野 祐(おかの たすく、1909年6月22日 - 1988年2月15日)は、日本の実業家、パシフィック・リーグ元会長。東京都出身。 1935年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄、企業としては現在の阪急阪神ホールディングス)に入社した。人事部次長、電鉄調査部長を歴任した後に、1953年7月に阪急バス常務に就任し、1957年12月には六甲山ホテル専務に就任した。 経営手腕を買われて、1960年から阪急ブレーブスの球団代表、1964年から1968年までに球団社長を務めた。球団社長在任中の1966年オフに、監督の西本幸雄が選手に対して「信任投票」を実施しその結果から岡野に辞表が提出されたが、オーナーの小林米三が監督の交代を望まず、留任となった。
市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年… 市橋 時蔵(いちはし ときぞう、1909年6月9日 - 没年不詳)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー審判員。 兵庫県立第一神戸中学校(現:兵庫県立神戸高等学校)の蹴球部に所属し、1927年に神戸一中を卒業。 慶應義塾大学に入学後はソッカー部に入部。在学中の1930年5月に第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、フィリピン代表戦で初出場し、得点も決めた。1931年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に慶應BRBのメンバーとして出場して準優勝に貢献した。 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後の1936年3月、大日本蹴球協会の理事会でベルリン五輪の日本代表候補に選出された(最終メンバーからは落選、ベルリンの奇跡を参照)。
澤村 三木男(さわむら みきお、1909年(明治42年)5月… 澤村 三木男(さわむら みきお、1909年(明治42年)5月24日 - 1979年(昭和54年)1月11日)は、文藝春秋四代目社長。 歌舞伎役者七代目澤村宗十郎の四男として生まれる。東京府立第三中学校(現都立両国高等学校)を経て慶應義塾大学文学部卒業。 松竹に入社後、1933年(昭和8年)文藝春秋社に転職。敗戦で菊池寛が文藝春秋を解散したあと、佐佐木茂索、池島信平、鷲尾洋三らと同社を再建、文藝春秋新社を発足される。長年専務を務め、1973年(昭和48年)池島社長の逝去に伴い四代目の社長に就任。75年日本宣伝賞を受賞し現職のまま逝去。
澤村三木男(さわむら みきお、1909年5月24日-1979… 澤村三木男(さわむら みきお、1909年5月24日-1979年1月11日)は、株式会社文藝春秋四代目社長。
阿部 主計(あべ かずえ、1909年5月22日 - 2006… 阿部 主計(あべ かずえ、1909年5月22日 - 2006年6月27日)は、日本の随筆家、翻訳家。日本推理作家協会名誉会員。 東京都生まれ。1927年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。慶應義塾大学国文科卒業。
杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月… 杉浦 六右衛門(すぎうら ろくえもん、8代目、1909年4月16日 - 1995年5月28日)は、日本の経営者。小西六写真工業(現在のコニカミノルタ)社長、会長を務めた。東京都出身。 1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に小西六写真工業に入社。 1941年に社長に就任し、1968年4月までに務めた。 1955年に紺綬褒章を受章。 1995年5月28日肺炎のために死去。86歳没。
三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月… 三橋 富治男(みつはし ふじお、1909年〈明治42年〉4月10日 - 1999年〈平成11年〉5月2日)は、日本の東洋史学者。位階は従四位。 東京出身。慶應義塾大学文学部東洋史学科卒。外務省調査部嘱託、明治大学助教授を経て、千葉大学文理学部助教授、教授となる。1975年定年退官、名誉教授となる。トルコ史が専門。1999年死去。死没日付をもって従四位に叙された。
松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1… 松下 隆章(まつした たかあき、1909年3月31日 - 1980年9月15日)は、日本の美術史家。中世日本美術を主として扱った。
松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1… 松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1997年1月6日)は、東京都文京区本郷出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはハーフバック(現在のミッドフィールダー)、フォワード。 東京府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)3年生時の1924年に同校で蹴球部が創設されたことを機にサッカーを始める。慶應義塾大学に進み、1932年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業した。ソッカー部では1931年より主将を務め、1932年に関東大学リーグと東西大学1位対抗に初優勝した。 天皇杯は1933年4月に慶應BRBの選手として第12回大会で優勝、同年10月には東京OBクラブの選手として第13回大会で優勝、1936年には再び慶應BRBの選手として第16回大会で優勝した。
和村 幸得(わむら こうとく、1909年 <明治42年> 2… 和村 幸得(わむら こうとく、1909年 <明治42年> 2月21日 - 1997年 <平成9年> 10月18日)は日本の政治家。岩手県普代村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 普代村出身。盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)から慶應義塾大学に進むが、健康を害して中退、普代に戻った。 1933年、普代村で約600人の死傷者を出した昭和三陸地震の津波を体験した。後に著した回想録『貧乏との戦い四十年』では「阿鼻叫喚とはこのことか。堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時にはなんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」と述懐している。 普代村役場で働いたのち、1947年に村長選挙に出馬して当選し、以後1987年まで10期40年に亘り務める。
横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日… 横田 郁(よこた たかし、1909年〈明治42年〉1月31日 - 1984年〈昭和59年〉6月9日)は、日本の銀行家。日本勧業銀行頭取、第一勧業銀行初代頭取、全国銀行協会連合会会長。 司法大臣・横田千之助の長男として、東京・麹町に生まれる。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1932年(昭和7年)に慶應義塾大学経済学部を卒業。翌年に日本勧業銀行に入行する。 築地支店長、大阪支店次長、審査第二部長、丸の内支店長を歴任。1955年(昭和33年)取締役に選任、丸の内支店長委嘱。常務、専務、副頭取を経て、1969年(昭和44年)2月、武田満作頭取の病気退任を受け、横田が後任として昇格した。 頭取に就任した当時、勧銀は都市銀行中位でもたついており、折からの国際化の進展で銀行が生き残るためには合併しかないと判断し、第一銀行の井上薫と共に、渋澤倉庫の八十島親義や日本経済新聞社の池内正人らの力を借りて、極秘裡に合併計画を進め、第一勧業銀行を発足させた。
水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19… 水原 茂(みずはら しげる、1909年〈明治42年〉1月19日 - 1982年〈昭和57年〉3月26日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手(内野手)・監督、解説者・評論家。 1955年から1959年の登録名は「水原 円裕(みずはら のぶしげ)」。 現役時代は東京巨人軍(1947年より読売ジャイアンツ、以下巨人)で活躍し、引退後は巨人、東映フライヤーズ、中日ドラゴンズの監督を歴任した。巨人監督時代の在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝き、セ・パ両リーグでチームを日本一に導いた(セ - 巨人、パ - 東映)。 幼少時に両親が離婚、父親が入り婿になり再婚した先の「水原」姓になったという。野球を始めたのも、実家の環境からの気晴らしであったという。
岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年(明治42年)1月8… 岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年(明治42年)1月8日 - 1990年(平成2年)3月30日)は、日本の実業家。三菱モンサント化成(現・三菱ケミカル)の元社長。 林雅之助の長男として東京府(現・東京都)に生まれ、三菱財閥の岩崎小弥太の婿養子となった。父・雅之助は外交官・林董の長男。 淑子夫人は岩崎俊弥の次女で小弥太の養女。なお淑子の母・八穂は盧高朗の六女にあたる(盧家は元々明帰化族の出であり、代々長崎で唐通事を任じられていた)。俊弥は小弥太の弟なので淑子は伯父の養女になり忠雄を婿養子として迎えたことになる。また順天堂大学の基礎を作った医師・佐藤泰然は忠雄の曾祖父にあたる。実姉の義弟(夫の弟)に潮田江次。
津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日… 津村 信夫(つむら のぶお、1909年〈明治42年〉1月5日 - 1944年〈昭和19年〉6月27日)は、日本の詩人。兄は映画評論家の津村秀夫。 法学博士・津村秀松を父として、兵庫県神戸市葺合区に生まれる。官僚・小山健三は祖父。神戸一中を卒業して慶應義塾大学経済学部に入学し以後は東京に住む。慶大予科に在学中に肋膜炎にかかり、1927年(昭和2年)10月、鎌倉・坂ノ下の旅館海月楼に滞在して予後を養う。翌年3月にかけてしばしば訪れる。療養期間中に文学への素養を深めた。1930年(昭和5年)に白鳥省吾が主宰する文芸誌『地上楽園』の同人に加わり、それに詩作を発表するようになる。室生犀星に師事し、生涯にわたってその指導と愛顧を受ける。
加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)… 加藤 恭平(かとう きょうへい、1909年 - 1983年)とは、日本の報道写真系統の写真家。栃木県に生まれる。慶應義塾大学卒業。 なお、回顧展などの加藤恭平を紹介する企画は開催されていない。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 19… 堀 定一(ほり さだいち、1909年(明治42年) - 1936年(昭和11年)2月21日)は、日本の元アマチュア野球選手。香川県出身。
岩田 仭(いわた たかし、1909年~1910年 - 194… 岩田 仭(いわた たかし、1909年~1910年 - 1943年1月8日)は、日本の経済学者。専門は国際貿易論。慶應義塾大学助教授。 東京高師附属中学を経て、慶應義塾大学に入学し向井鹿松の下で学ぶ。1934年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、直ちに助手となり、1940年に同学部助教授となる。 1942年9月初旬に原因不明の発熱により入院するも、「1,2週間くらいで退院できる症状だ」と元気に語っていた。しかし、数週間ほど原因不明のまま発熱に苦しみ、その後心内膜炎と判明する。山本登も度々病床を訪れ激励するも、同年の11月下旬に面会謝絶となり、1943年1月8日に逝去する。 慶應義塾大学では商業政策、貿易理論、独(英)語経済学の講義を担当した。
中村 英一 (なかむら えいいち、1909年 - 1945年… 中村 英一 (なかむら えいいち、1909年 - 1945年5月26日)は、日本のフィールドホッケー選手。 東京都出身。慶應義塾大学出身。 1932年ロサンゼルスオリンピックで日本代表チームの一人に選ばれる。日本代表チームには慶應大学出身者が3人含まれていた(主将の浅川増幸(OB)、浜田駿吉、中村英一)。ホッケーには3か国(英領インド・日本・米国)が出場し、日本は前回優勝国インドに大敗を喫したものの開催国アメリカに勝利を収め、銀メダルを手にした。 陸軍准尉として軍籍にあった1945年5月、東京大空襲のため死去。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。