岩崎 万次郎(いわさき まんじろう、1852年(嘉永5年)7… 岩崎 万次郎(いわさき まんじろう、1852年(嘉永5年)7月 - 1911年(明治44年)8月2日)は、日本の明治期の政治家。衆議院議員として当選2回。自由民権家として知られる。 1852年(嘉永5年)、下野国(現・栃木県)南部の農家に生まれる。若くして地元野木宿の名主や佐川野村戸長を務めたのちに明治法律学校で法を学ぶ。 1881年(明治14年)自由民権運動に惹かれ自由党に入党したが、運動の激化に伴って加波山事件に関わり、また大阪事件でも嫌疑をかけられて都度数か月収監された。1884年には栃木県会議員に当選し、以降4期務めている。1887年(明治20年)には保安条例により東京から退去を命ぜられた。
宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4… 宮城 浩蔵(みやぎ こうぞう、1852年6月2日(嘉永5年4月15日) - 1893年(明治26年)2月13日)は、日本の刑法学者、政治家。明治法律学校(のちの明治大学)創設者の一人。衆議院議員。 ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子。ボアソナード起草にかかる旧刑法下で、フランスの刑法理論である新古典派・折衷主義を日本にもたらすことに大きく貢献し、「東洋のオルトラン」と呼ばれた。なお、オルトランはボアソナードの師である。 その後、宮城の刑法理論は、資本主義の発達に伴う累犯の増加に対応できないとして新派刑法理論の立場から批判された[誰によって?]。 民法典論争では、梅謙次郎と共に施行断行派に与したが、その最中腸チフスのため42歳で急死した。
河村 藤四郎(かわむら とうしろう、1852年(嘉永5年) … 河村 藤四郎(かわむら とうしろう、1852年(嘉永5年) - 1929年(昭和3年)4月)は、佐賀県出身の政治家・実業家。藩末期から明治にかけて唐津の教育、政治、経済界で幅広く活躍した。長兄は初代唐津村長の河村如壽(河村家四代目当主)。唐津市初代の市長河村嘉一郎は藤四郎の長男。 唐津藩士で奉行職(普請小奉行)を勤めた河村如茂(河村家三代目当主)の三男として生まれる。 少年時代、陽明学派の一色耕造が開いた町田の一色塾に学び、後に多久の儒家草場佩川(はいせん)の長男草場船山(せんざん)の門に入った。その学業の優秀さが認められた藤四郎は、若年にもかかわらず、藩から食料を給された。次いで、長崎師範学校に学んだ藤四郎は上京し、1880年(明治14年)、岸本辰雄や西園寺公望らによって創立された明治法律学校(現在の明治大学)に入学、第1回生となった。
井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年… 井上 正一(いのうえ せいいち、1850年4月7日(嘉永3年2月25日) - 1936年(昭和11年)10月3日)は、日本の法学者、衆議院議員、大審院判事。 長門国大津郡伊上村(山口県大津郡菱海村、油谷町を経て現在の山口県長門市油谷伊上)生まれ。1866年の四境戦争に際して長州藩諸隊の一つ鐘秀隊に加わり、芸州口と石州口を転戦。その後許可を得て隊を離れ、萩明倫館と山口文学寮で学ぶ。維新後に単身上京して箕作麟祥の下でフランス学を修めた。1870年開成学校に入った後、長州藩の貢進生に選ばれ、大学南校を経て1875年に司法省法学校を卒業。同年秋にフランスに留学し、法学博士の学位を取得。1881年に帰国するとただちに司法省雇となり、開校間もない明治法律学校(のちの明治大学)にも講師として迎えられた。
杉村 慎治 は、日本の政治家。衆議院議員(1期)を務めた。
森山 浩行 は、日本の政治家。
三木 武夫 は、日本の政治家。
王 允卿(おう いんきょう、中国語: 王允卿; 拼音: Wá… 王 允卿(おう いんきょう、中国語: 王允卿; 拼音: Wáng Yŭnqīng; ウェード式: Wang Yün-ch'ing)は、中華民国・満州国の政治家・外交官。字は庚陽。 官費で日本へ留学し、明治大学法学部本科を卒業した。帰国後は奉天交渉署練習員、安東県甲種商業学校教務長、国立山西大学教授、山西軍官法政講習所教官、天津地方検察庁検察官、黒竜江省鶴崗煤鉱公司科長兼董事を歴任している。 満州事変(九・一八事件)勃発後、王允卿は鶴崗煤鉱を関東軍に引き渡し、その際に土肥原賢二から事務能力を認められたという。1932年(大同元年)3月に満州国が建国されると、吉林省高等検察庁庁長に起用され、1934年(康徳元年)3月には司法部行刑司司長に抜擢された。
高 一涵(こう いちかん)は中華民国・中華人民共和国の政治家… 高 一涵(こう いちかん)は中華民国・中華人民共和国の政治家・政治学者・ジャーナリスト。旧名は夢弼。 日本に留学し、1916年(民国5年・大正5年)に明治大学政治科を卒業した。1916年(民国5年)に帰国し、『晨鐘報』の編輯(編集員)となる。翌1917年(民国6年)、章士釗に招聘され、『甲寅日報』で論説委員となった。1918年(民国7年)からは『毎周評論』の編集を担当し、あわせて国立北京大学教授となる。1919年(民国8年)、雑誌『新青年』において、陳独秀らと共に輪番制編集者の1人となった。 1925年(民国14年)、教育界公理維持会に参加し、『現代評論』の論説委員となった。同年、中国国民党に加入したが、翌年には中国共産党に転じている。
江 洪杰(こう こうけつ、1876年 - 没年不明)は、清末… 江 洪杰(こう こうけつ、1876年 - 没年不明)は、清末民初の官僚・外交官・政治家・実業家。字は子因。中華民国維新政府の要人。 1897年(光緒23年)、山東省の法律学校で教官をつとめる。1899年、同省の県長に転じた。1907年(光緒33年)、江洪杰は副領事として横浜に赴任する。1909年(宣統元年・明治42年)、明治大学法科を卒業、法学士の称号を取得した。 1912年(民国元年)、外交総長秘書に任ぜられる。1915年(民国4年)、駐日公使館一等書記官に転じた。1930年(民国19年)4月時点で公使館参事官の地位にあったほか、1921年、1922年、1925年、1930年、1931年に、それぞれ臨時代理公使をつとめた。
呂 宜文(りょ ぎぶん/ろ ぎぶん)は、満州国の外交官・官僚… 呂 宜文(りょ ぎぶん/ろ ぎぶん)は、満州国の外交官・官僚・政治家、中華民国のジャーナリスト・軍人。 金州南金書院、大連工業学校を経て日本に留学し、明治大学専門部政治経済科を卒業した。帰国後は亜細亜製粉会社に入社し、続いて吉林省で山城鎮電燈公司経理となる。その後、旅順を拠点とする月刊紙『順律報』の創刊に関わり、編集長を務めた。1920年代末に大連へ移り、『泰東日報』編集長の傅立魚から勧誘されて同紙編集者となる。しかし、執筆した記事が原因で日本当局に弾圧され、呂は奉天へ逃れた。 まもなく呂宜文は張学良配下となり、東北軍航空司令部教官として起用された。1931年(民国20年)に満洲事変が勃発すると、張学良とは不仲の従弟・張学成に呂は随従し、満洲国樹立工作に関わるようになった。