松沢 光憲(松澤、まつざわ こうけん、1838年(天保9年2… 松沢 光憲(松澤、まつざわ こうけん、1838年(天保9年2月 )- 1913年(大正2年)12月17日)は、幕末の新庄藩士。明治期の内務・警察官僚、政治家。衆議院議員。幼名・錞太郎、直。号・芝山隠士。 出羽国最上郡新庄(山形県最上郡新庄町を経て現新庄市)で、新庄藩士の家に生まれた。江戸に出て昌平黌で学び、1861年10月(万延2年9月)に帰郷した。 戊辰戦争で新庄藩は新政府軍に加わり、二番銃隊斥候役として従軍し庄内藩攻略など各地を転戦した。1872年(明治2年2月)大学本校に入り1870年(明治3年)大学少舎長に就任。同年に卒業して帰郷し、藩校明倫堂の講師に就任。1871年(明治4年9月)新庄県13等出仕となり、新庄県が山形県に編入され同年11月、山形県権少属に就任し、1873年(明治6年)7月まで在任した。
門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(182… 門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(1826年11月17日) - 明治5年8月3日(1872年9月5日))は、江戸時代後期の武士(鳥取藩士)、国学者。初め将曹、のち少造と改めた。諱は重綾。 政治家の門脇重雄は二男。柔道家の門脇誠一郎は孫。
吉田 拙蔵(よしだ せつぞう、文政9年7月10日(1826年… 吉田 拙蔵(よしだ せつぞう、文政9年7月10日(1826年8月13日) - 明治20年(1887年)11月20日)は、越前大野藩士。諱は俊章、字は子明、静斎と号した。幕府の軍艦教授所で航海術を学び、藩が建造した洋式帆船大野丸の船長として活躍。明治初年では第26大区区長(学区取締兼任)、明治8年(1875年)以降学区取締や郡書記を務めた。 文政9年(1826年)越前国大野に生れる。父は吉田理左衛門、母は大島氏(生後数か月で離縁)。12歳で大野藩士小早川一平(のちに明倫館教授師)につき読書を始め、16歳(天保13年)で藩重臣内山隆左に入門し、弘化元年(1844年)大小姓として召し出された。その後藩校明倫館助教師となった。
大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826… 大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。 文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地にU・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功する。
尾澤 良甫(おざわ りょうほ、1826年5月14日〈旧暦文政… 尾澤 良甫(おざわ りょうほ、1826年5月14日〈旧暦文政9年4月8日〉- 1894年〈明治27年〉8月1日)は、日本の薬種商、政治家。旧姓は藤城(ふじしろ)。幼字は三次郎(さんじろう)。旧諱は良輔(りょうすけ)。 尾澤薬舗店主、東京市牛込区会議員などを歴任した。 武蔵国出身の薬種商である。薬種店を営む尾澤家の婿養子となるが、養父の早逝により辛酸を舐め、非常な苦労を経て家を再興した。1863年(旧暦文久3年)に麻疹が大流行すると、私財を投じて江戸の患者の治療に力を注いだ。調剤だけでなく医術の研鑽も積んでいたことから、江戸府内の民衆から「脈をとらせても当代一」と謳われた。明治維新後も引き続き薬種店を経営するとともに、さまざまな公職を歴任した。
日向 内記(ひなた ないき、文政9年〈1826年〉 - 明治… 日向 内記(ひなた ないき、文政9年〈1826年〉 - 明治18年〈1885年〉)は幕末の会津藩士。白虎隊士中二番隊の隊長として知られる。 会津若松城下に生まれる。日向家は家禄700石の上級藩士で内記は藩の軍制改革前は家老附組頭、その後砲兵隊頭となった。1868年3月、朱雀士中二番隊頭となる。4月18日には白虎士中二番隊頭に任命された。 白虎隊は予備部隊として設けられ、士中隊は主君の警護役である。新政府軍が会津国境を越えた8月22日には松平容保に従って滝沢本陣に入った。ここで、戸ノ口原方面(十六橋を会津若松城側に超えたところ)への援軍要請があったため、士中二番隊を率いて行軍し明朝の戦に備えて夜営を命じる。
四世 浜村 蔵六(よんせ はまむら ぞうろく、男性、文政9年… 四世 浜村 蔵六(よんせ はまむら ぞうろく、男性、文政9年(1826年) - 明治28年(1895年)2月24日)は、明治期の日本の篆刻家である。 正本氏、後に塩見氏を名乗る。名は観侯、字は大澥、蔵六を号し、別号に薇山・雨村。通称参蔵。備前岡山(岡山県瀬戸内市)の人。 20代の中頃に江戸に出て、万延元年(1860年)には断絶していた浜村家を継いだ。行政官記録係になるが讒言を受けて退職し、宇都宮で教育者となる。廃藩置県後、東京に戻り須崎村に住む。明治15年(1882年)の「日本書画價額表」によれば、この頃既に篆刻家として知られていた。 明治18年(1885年)、依田学海らと白鴎社を結ぶ。明治20年(1887年)、「墨堤植桜之碑」の碑文を書しているが、後にこの碑は墨田区登録文化財に登録された。
基 俊良(もとい しゅんりょう、1826年(文政9年3月) … 基 俊良(もとい しゅんりょう、1826年(文政9年3月) - 1904年(明治37年)5月15日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 薩摩国大島郡金久村(鹿児島県大島郡名瀬村、名瀬町、名瀬市を経て現奄美市)に生まれる。薩摩藩島吏を務め、明治維新を経て鹿児島県に出仕する。大島郡書記、金久支庁御用掛、同庁属を歴任する。ほか、大島興業社長、大阪七十九銀行大島支店支配人を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第7区から出馬し当選。弥生倶楽部に所属し衆議院議員を1期務めた。
常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉… 常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉 - 1869年10月2日〈明治2年8月27日〉)は、現在の長崎県南島原市(旧・肥前国高来郡)出身の大相撲力士。本名、身長、体重は不明。最高位は西関脇。常盤山部屋及び玉垣部屋に所属した。鷲ヶ濱音右エ門の岳父に当たる。 1851年4月から1852年閏2月までは八戸藩、1852年11月以降は島原藩のお抱えだった。岳父が自殺して嫌疑を受けたので脱藩したが、途中で参勤行列と出合い、運良く同郷の者が居たので一行に加えてくれるように頼み、怪力を買われて駕籠担ぎとして加わった。江戸に出てからは仲間として働いていたが怪力を見出され、勧誘されて入門した。
宮城野 馬五郎(みやぎの うまごろう、1826年(文政9年)… 宮城野 馬五郎(みやぎの うまごろう、1826年(文政9年) - 1889年(明治22年)8月17日)は、伊勢国三重郡(現在の三重県四日市市)出身で宮城野部屋に所属した力士。本名は宮城野 馬五郎(旧姓近藤)。4代宮城野。身長体重不明。最高位は東小結。 1844年1月に宮城野部屋に入門し、一時は八戸藩の抱えになるほどに期待をされた。しかしなかなか番付が上がらず、入幕を果たしたのは1858年11月で既に数え33歳であった。師匠の元の四股名の荒馬大五郎を名乗り幕内を務めたが、引き分け・預かりが多く番付は小康状態であった。1866年に二枚鑑札となり、その後1868年7月に数え43歳で小結に昇進している。
養鸕 徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日〈181… 養鸕 徹定(うがい てつじょう、文化11年3月15日〈1814年5月4日〉 - 1891年〈明治24年〉3月15日)は、幕末・明治期の浄土宗僧侶・仏教史家。 筑後国久留米にて久留米藩士鵜飼万五郎政善・久保氏の次男に生まれる。6歳で地元の西岸寺に入り、後に京都や江戸で修行する。21歳の時に増上寺にて宗脈を受ける。後に増上寺学寮を掌った。文久元年(1861年)に浄国寺住職となる。文久3年(1863年)自身の羅漢研究を纏めた『羅漢図讃集』を刊行する。これは今日から見ても高い学術的価値を持つ著作であり、徹定の優れた学識が窺える。また徹定は羅漢の知識を狩野一信に教え、増上寺に残る計100幅にも及ぶ一信の「五百羅漢図」制作にも役立った。
田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月15日(… 田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月15日(1814年4月5日) - 明治40年(1907年)1月21日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家。日本最後期の文人画家として知られる。 田能村竹田の養継子。幼名は、はじめ松太、のち傳太。諱は、はじめ蓼、のち痴。字は、はじめ虚紅、のち顧絶。号は、はじめ小虎、のち直入。通称は小虎とした。別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。豊後直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)生まれ。 豊後国直入郡竹田町(現・大分県竹田市)において、岡藩士三宮伝右衛門の三男として生まれる。伯父渡辺蓬島が田能村竹田の幼児期の師であったことから紹介され、文政5年(1822年)9歳のときに竹田の画塾に入門。
小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3… 小野 湖山(おの こざん、文化11年1月12日(1814年3月3日) - 1910年(明治43年)4月10日)は、幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。 文化11年1月12日(1814年3月3日)、三河吉田藩領であった近江国浅井郡高畑村(現滋賀県長浜市高畑町)に、医師・横山玄篤(東湖)の長子として生まれた。横山家は加賀藩家老横山党と同族で平安時代前期の公卿・小野篁の後裔と伝えられ、後に小野へ改姓した。 当初家業を継ぐべく彦根藩医に医術を学ぶが、本人の好む所でなかったことから、近村の儒者・大岡右仲(松堂)に経書史書を学び、文政9年(1826年)に父と共に京都において頼山陽に面謁し朱子学漢詩を学ぶことを決意した。
森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月… 森 寛斎(もり かんさい、1814年3月2日〈文化11年1月11日〉 - 1894年〈明治27年〉6月2日)は、日本の幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、日本画家。本姓は石田。幼名は幸吉、のち尚太郎。諱は公粛。字は子容、または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山、造化室、天開図画楼。 森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。若い頃は攘夷運動に熱中したのとは裏腹に、温和で情趣的な画風で、「明治の応挙」と評された。 長州藩士、石田傳内道政の三男として生まれる。父道政は藩の分限帳などに名が無く、家督を継いだ長兄は『金禄券根帳』に「給禄米壱石八斗」とあることから、微禄の下級藩士だったようだ。
鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11… 鴻 雪爪(おおとり せっそう、1814年2月20日(文化11年1月1日) - 1904年(明治37年)6月18日)は、幕末・明治期の宗教家である。備後国出身であり、曹洞宗の僧侶として全昌寺・孝顕寺・清凉寺住職を歴任した。明治期には仏教の改革運動に取り組み、仏僧の肉食妻帯を認めさせた。その後、還俗し神職となった。大教院長。御嶽教2代管長。禅僧としては鉄面清拙とも名乗り、ほかに江湖翁の号も用いた。 文化11年1月1日(1814年2月20日)、備後国因島に誕生。俗姓は宮地。父親は宮地長光(与三兵衛)、母親は木原氏の某。幼名は不明。雪爪は次男であり、兄に松之助、弟に与三兵衛秀明がいた。鴻が自ら記すところによれば、宮地氏は醍醐天皇の皇子である源高明に系譜を遡ることができる家柄であり、氏は保安年間に備中宮地荘を賜ったことに由来するという。
黒岩 壽太郎(くろいわ じゅたろう、1814年(文化11年)… 黒岩 壽太郎(くろいわ じゅたろう、1814年(文化11年) - 1857年6月13日(安政4年5月22日))は、讃岐国香川郡(現・香川県高松市錦町)出身の大相撲力士。本名は不明。幕末屈指の強豪でありながら不幸にも三役に登れぬまま現役で亡くなった。最高位西前頭筆頭。 始め大坂相撲の5代押尾川に入門。のち江戸に下り7代雷の弟子となり1845年(弘化2年)10月二段目に付け出される。好成績を残しながら番付はあまり上がらなかったが1849年(嘉永2年)11月相撲会所の英断により二段目11枚目から一躍入幕を果たした。 入幕後も期待に応え大関小柳常吉に3勝1敗4分、のちの大関猪王山森右エ門に4勝2敗3分1預、のちの横綱雲龍久吉に1勝1敗5分と強豪相手に一歩も譲らぬ活躍を見せた。
神戸の長吉(かんべのながきち、1814年 - 1880年3月… 神戸の長吉(かんべのながきち、1814年 - 1880年3月20日)は、日本の侠客である。村上元三の小説『次郎長三国志』に同名で登場、「荒神山の喧嘩」の中心となった人物である。神戸長吉(読み同)とも。「神戸の長吉」と呼ばれる前は吉五郎(きちごろう)と名のっていた。本名は初芝 才次郎(はつしば さいじろう)。 1814年(文化11年)、下総国千葉郡浜野村(現在の千葉県千葉市中央区浜野町)に生まれる。小島政二郎の小説『次郎長日向』(1955年)には、吉良の仁吉(本名・太田仁吉、1839年 - 1866年)に対して加勢のお礼を述べに来て、その帰りに角井門之助に斬殺される「よね」という母が登場するが、フィクションである。
伊古田 純道 (いこた じゅんどう、享和2年10月17日(1… 伊古田 純道 (いこた じゅんどう、享和2年10月17日(1802年11月12日) - 明治19年(1886年)9月4日)は、日本の医者。本名伊古田寧。幼名富次郎、諱は重満、号は楢陵、白茅樵舎主人。日本初の帝王切開を行い、成功させた。 伊古田村(現埼玉県秩父市)生まれ。幼名富次郎。 番匠村(現埼玉県ときがわ町)の有名な産婦人科医、小室元長からオランダ医学等を学び、後に江戸で学び、秩父で開業した。 嘉永5年(1852年)に坂元村(現飯能市)で日本で最初の帝王切開を、南川村(現飯能市)の医者岡部均平と行い、胎児は既に死亡していたが、母体は助かった。
剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790… 剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790年12月8日(寛政2年11月3日)- 1871年7月27日(明治4年6月10日))は日本の数学者、和算家。諱は章行。字は成紀。号は豫山または任数堂。通称は要七。後半生は関東各地を遊歴し、香取、海上、印旛、匝瑳、常陸、武州等を中心に、約1000人の門弟を持った。 上野国吾妻郡沢渡(現在の群馬県中之条町)に生まれ、本業は農業。幼いころから数学を好んだ。小野榮重に師事し、1824年(文政7年)には「小野栄重門人 上毛吾妻郡澤渡邑 剣持要七郎章行」として清水寺(高崎市石原町)観音堂に算額を奉納している。1827年(文政10年)栄重から免許皆伝を与えられた。
加藤 棕盧(かとう そうろ、1790年(寛政2年) - 18… 加藤 棕盧(かとう そうろ、1790年(寛政2年) - 1851年9月18日(嘉永4年8月23日))は、江戸時代後期の儒学者。安芸国(現広島県)出身。名は景纉(かげより)。字は君緒。太郎三、太郎助、株鷹とも称する。別号は肯堂。
長崎のマグダレナ(ながさきのマグダレナ、1610年 - 16… 長崎のマグダレナ(ながさきのマグダレナ、1610年 - 1634年10月15日)は、江戸時代初期のキリシタン。ドミニコ会第三会の修道女であり、1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人として、大村のマリナと共に日本人女性として初めてカトリック教会の聖人に列せられた。 1610年(慶長15年)、マグダレナは長崎近郊の村にて誕生。両親は敬虔なキリシタン(カトリック信者)であり、後に殉教したといわれている。知られているのは生年、生誕地、洗礼名のみで、日本名は知られていない。はじめ聖アウグスチノ修道会の司祭の指導を受けたが、後にドミニコ会の司祭ジョルダーノ・アンサローネの指導を受けるようになる。彼女はその身を神にささげる決心をして第三会に入り、1632年(寛永9年)ごろ誓願を果たしたが、修練が終わらないうちに、アンサローネ神父は逮捕された。