スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
菊沢 竜佑(きくさわ りゅうすけ、1988年5月16日 - … 菊沢 竜佑(きくさわ りゅうすけ、1988年5月16日 - )は、秋田県秋田市出身の出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学校4年次に野球を始める。 秋田県立秋田高校時代は1年時からベンチ入りを果たすも、2年時に左大腿骨骨折の怪我を負う。3年時の夏の大会は主力投手として活躍、4試合に登板し準々決勝では後にスワローズでチームメイトとなる石山泰稚を擁する金足農業高校を破るも、準決勝で本荘高校に7回コールド負けを喫した。 高校卒業後は立教大学に進学。1年時からベンチ入りし、立教大学野球部が通算800勝を達成した試合での勝ち投手にもなった。3年時の夏に右肘の靱帯再建手術を受けたこともあり、4年間で通算14試合登板・勝ち星は1年生の時の1つだけに終わる。
後藤 光尊(ごとう みつたか、1978年7月27日 - )は… 後藤 光尊(ごとう みつたか、1978年7月27日 - )は、 秋田県南秋田郡八郎潟町出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、野球指導者、野球解説者。 八郎潟町立八郎潟中学校時代は野球とラグビーを掛け持ちし、ラグビーでは県大会優勝経験がある。 秋田工業高等学校に1年からレギュラー確約条件にスカウトされたが、秋田県内有数の進学校である秋田高等学校に進学、3年時にエース投手として第68回選抜高等学校野球大会に出場する。 スポーツ推薦で法政大学に進学したが、上級生らによりいじめを受けて留年が確定し、そのまま大学を中退する。 その後、1997年に同じ秋田高校OBで川崎製鉄千葉野球部監督の齋藤正直に誘われて同野球部に練習生として参加し、1998年に入社。
阿部 茂樹(あべ しげき、1972年7月5日 - )は、秋田… 阿部 茂樹(あべ しげき、1972年7月5日 - )は、秋田県出身の元プロ野球選手(捕手)。 現在は東京ヤクルトスワローズでスコアラーを務めている。 大潟村立大潟小学校5年で野球を始める。中学3年生の春に県大会優勝。秋田高校では1年生の5月から捕手で4番を打ち、2年春に甲子園に出場(初戦で北陸高校に4-1で敗退)。3年夏は県ベスト8止まり。高校通算本塁打15本(内公式戦10本)。 1990年ドラフト会議で読売ジャイアンツに4位指名され入団。 1997年に自由契約になった。 1998年にテストを経てヤクルトスワローズ入団。 1999年シーズン最終戦の9回表に代打としてプロ初出場。 2001年3月に現役引退。
石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、… 石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、日本の元プロ野球選手、政治家、実業家。自由民主党所属の参議院議員(3期)。 2010年、参議院議員選挙に自由民主党から立候補し、初当選。以降3回連続当選。秋田県南秋田郡八郎潟町出身。 八郎潟町立一日市小(6年生の時に統合して八郎潟町立八郎潟小学校となる)、八郎潟町立八郎潟中学校を卒業後、1980年に県内一の進学校であり、県内では野球強豪校でもある秋田県立秋田高等学校に進学。1年先輩に主将を務めた猿田和三がいた。1981年秋季東北大会に進み、東北高との1回戦で投手として先発、金子誠一と投げ合うがコールド負けを喫する。翌年夏も秋田大会で敗れ甲子園には出場できなかった。
齋藤 正直(さいとう まさなお、1960年4月3日 - )は… 齋藤 正直(さいとう まさなお、1960年4月3日 - )は、秋田県由利郡象潟町(現・にかほ市)出身の野球指導者。 6歳年上の兄の影響で野球を始める。友達を誘い、秋田市内の八橋に所在する日吉八幡神社近辺の空き地で野球を楽しんだ。通学していた秋田市立旭北小学校や秋田市立山王中学校の野球チームに所属していた。 秋田高校では、強打の左打者として1年時よりレギュラー。高校在学中の3年間で甲子園大会などの全国大会出場は叶わなかった。 進学した東都大学野球の専修大学では1年の春季リーグから四番を担う。リーグでは3年と4年の秋にそれぞれ優勝し、ベストナインにも2度選出されている。1981年の明治神宮野球大会では準優勝の成績を修める。
小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 202… 小西 秀朗(こにし ひでろう、1937年9月8日 - 2020年1月13日)は、秋田県出身のプロ野球選手(外野手)。左投左打。 秋田高校では1954年、2年生の時にエース青山伍(大映スターズ)を擁し、四番打者、右翼手として第36回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦(初戦)で恵川康太郎のいた三原高に敗退。青山以外のチームメートに高橋捷郎(慶大-東洋レーヨン)がいた。同年の秋季奥羽大会県予選も決勝に進むが、エース嵯峨健四郎を擁する秋田商に惜敗。翌1955年夏は奥羽大会1回戦で岩手高に敗れ、甲子園には出場できなかった。 高校卒業後は立教大学に進む。東京六大学野球リーグでは5度の優勝を経験。4年時の1959年秋季リーグで優勝に貢献し、自身もベストナイン(外野手)に選ばれている。
滝田 政治(たきた まさはる、1926年10月26日 - 没… 滝田 政治(たきた まさはる、1926年10月26日 - 没年不明)は、秋田県秋田市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)。左打者。 秋田県立秋田中学校(現:秋田県立秋田高等学校)を卒業後、秋田鉱山専門学校(現:秋田大学)に入学。 卒業後はノンプロの中央工業に所属し、1948年、外野手として急映に入団。1949年からは大映に移籍、1950年には初めて規定打席(33位、打率.249)に達する。1952年6月22日にはサイクルヒットを達成し、同年は63試合に先発出場。翌1953年は一塁手に転向、開幕から三番打者として活躍しチームの3年ぶりの3位進出に貢献した。1954年は自己最高の打率.283(14位)を記録する。
永井 洋二郎(ながい ようじろう、1923年11月30日 -… 永井 洋二郎(ながい ようじろう、1923年11月30日 - 2018年4月25日)は、秋田県出身のプロ野球選手(捕手)。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、第27回全国中等学校優勝野球大会が日中戦争の激化により中止されるなど甲子園出場はなし。専修大学を経て1949年に読売ジャイアンツに入団。同年2試合に出場するも、翌1950年に引退。 2018年4月25日に老衰のため死去。
梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944… 梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年 - 1944年12月)は、日本の元アマチュア野球選手。秋田県出身。ポジションは投手。 1916年、秋田市に生まれた。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)在学中は、甲子園に4回出場。夏のみ。4回(1931年~1934年まで4年連続)出場し、最後の出場となった1934年夏の大会ではベスト4に入る健闘を見せた(準決勝で、藤村富美男らを擁した優勝候補筆頭の呉港中学〈現・呉港高等学校〉と当たり0-9で大敗)。梅崎、赤根谷飛雄太郎(梅崎のライバルで、秋田商出身。後に急映・東急でプレー)、渡辺誠太郎(土崎商出身。後に阪神等でプレー)の三人を称して、「戦前秋田の三大投手」と呼ばれた。
伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 19… 伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)、監督。 日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会(第8回大会、第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 全日本職業野球連盟が発足した1936年、大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。
築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1… 築地 俊龍(つきじ しゅんりゅう、1904年3月7日 - 1972年11月13日)は、日本の野球選手である。 秋田県馬川村久保(後の秋田県五城目町久保)にある自性院(じしょういん)の住職であった父龍明、母ヨシの長男として生まれる。幼名は龍夫(たつお)といったが、寺を継がせたいという父親の意向で小学校卒業のころに俊龍と改名した。 子供のころは川原で石投げ遊びをしていると誰よりもと奥まで石を投げることができたという強肩の片鱗を見せていた。1918年に県立秋田中学校(後の秋田県立秋田高等学校)に入学。180センチ近い身長で頑健な体格から多くの運動部の勧誘を受ける中、遠投力を見込まれて野球部に入部。1922年に仙台市で行われた東北中学校野球大会では、秋田中学校のエースピッチャーとして決勝までの5試合を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、東北から唯一の全国大会への出場権を得た。
斎藤 正人(さいとう まさと)は、日本の元アマチュア野球選手… 斎藤 正人(さいとう まさと)は、日本の元アマチュア野球選手である。ポジションは捕手。 秋田高校で2年生の時に、1965年夏の選手権で左翼手として出場し、チームは準決勝に進むが、その準決勝で上田卓三、林田俊雄らがいた三池工業高校に敗れた。 翌1966年の夏の選手権では捕手として出場した。しかし1回戦で加藤英夫、矢沢正、伊熊博一、平林二郎らがいる中京商業高校に敗れた。岐阜国体にも出場したが、1回戦で報徳学園高校に敗れた。同年のドラフト会議で西鉄ライオンズから4位指名されたが入団を拒否。 高校卒業後は秋田相互銀行に入社した。