スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
渡部 修斗(わたなべ しゅうと、1989年2月27日 - )… 渡部 修斗(わたなべ しゅうと、1989年2月27日 - )は、日本の男性総合格闘家、柔術家、元レスリング選手。栃木県足利市出身。ストライプル新百合ヶ丘所属。初代Fighting NEXUSバンタム級王者。父は修斗初代ウェルター級王者の渡部優一、妻は総合格闘家の青野ひかる。 小学5年生より柔道を学び、中学からは並行してレスリング部に所属し、高校はレスリングの名門校足利工大附高に入学。大学に入り一時期レスリングから遠ざかったが、魔裟斗の引退試合に感動し、父と同じ格闘技の道を歩むことを決意する。 2012年4月1日、パンクラスでプロデビュー。 2012年9月17日、SWAT!バンタム級トーナメント2012の決勝戦で伊藤盛一郎にチョークスリーパーで一本勝ち。
金井 修也(かない しゅうや、1981年2月1日 - )は、… 金井 修也(かない しゅうや、1981年2月1日 - )は、日本の元男子バレーボール選手。 群馬県伊勢崎市出身。実兄の影響で、名和小学4年よりバレーボールを始める。 2003年にVリーグの堺ブレイザーズに入団。 2006年度全日本代表候補に選ばれ、同年アジアクラブ選手権大会、第18回アジア太平洋カップ福岡国際男子バレーボール大会、アジアチャレンジカップなどに出場した。 2010年1月16日のJT戦で左手第四指中手骨骨折、全治10週間の怪我を負った。2012年5月の黒鷲旗大会をもって引退が発表された。2012年7月より太田市職員として勤務。
山本 博(やまもと ひろし、1978年〈昭和53年〉9月5日… 山本 博(やまもと ひろし、1978年〈昭和53年〉9月5日 - )は、日本のお笑いタレント、俳優、声優、元プロボクサー、絵本作家、ゲーム実況者、YouTuber。お笑いトリオ・ロバートのメンバー。群馬県邑楽郡邑楽町出身。吉本興業所属。 小学校時代は少年野球で三番ショートのキャプテンを務め、陸上クラブで走り高跳びの選手だった。動けたことからバスケットのチームにも助っ人で所属。中学時代は軟式テニス部、高校で硬式テニス部に所属するが、うまく適応出来ず退部し、回転寿司屋でのアルバイトに専念。足利工業大学附属高等学校電気科卒業。 卒業後はフォークリフトの運転手として就職する予定で、内定先が決まって入社式も控えていたが、高校卒業間際、友人にお笑いの道に誘われて上京。
河野 裕輔(かわの ゆうすけ、1975年8月1日 - )は、… 河野 裕輔(かわの ゆうすけ、1975年8月1日 - )は、日本の元男子バレーボール選手、指導者。 茨城県古河市出身。第四小5年生次からバレーボールを始める。全国大会では下田悟がいた尼崎北SSに敗れている。第二中学へ入学すると吹奏楽部に入部するも、夏にはバレー部へ編入する。高校は栃木県の足利工大付属高へ越境入学し、主にレフトだったが様々なポジションを経験した。その後、中央大へ進学する。大学の同級に臺光章。 1998年、日本たばこ産業(JT)に入社し、JTサンダーズに入団。同期に臺、下田、苅谷淳司、齋藤学。オポジットとして活躍、2000年黒鷲旗でベスト6賞、2000-01シーズンの第7回Vリーグ新人王、2001年黒鷲旗で優勝しベスト6賞を受賞した。
福田 雅一(ふくだ まさかず、1972年5月17日 - 20… 福田 雅一(ふくだ まさかず、1972年5月17日 - 2000年4月19日)は、日本の男性プロレスラー。栃木県那須郡黒羽町(現:大田原市)出身。血液型A型。日本の男子プロレスラーで初めて、試合中の事故により死去した人物である。 中学3年生の時に関東相撲大会に出場して3位に入った。同大会では、後の横綱でもある貴乃花(花田光司)と対戦している。 高校3年生(足利工業大学附属高等学校)の時に全国高等学校総合体育大会で行われたレスリングに出場してベスト8に入る。 1994年、大学4年生(日本大学)の時に国民体育大会で行われたレスリングフリースタイル82kg級で2位に入る。 1995年6月、レッスル夢ファクトリーに入門。
KAMIKAZE(カミカゼ、1971年11月1日 - )は、… KAMIKAZE(カミカゼ、1971年11月1日 - )は、日本のプロレスラー。本名:丸山 昭一(まるやま しょういち)、 レスリングの名門足利工業大学附属高等学校レスリング部出身である。 SPWF入団後の1992年10月28日にプロレスデビューを果たした。この時期に新日本プロレスにて行われた、ジュニアタッグリーグ戦に出場し、数々のビッグマウスを吐くものの、リーグ戦では散々な結果に終わった。ただし、リーグ戦終了後に「ビッグマウスについては『神風』のキャラクターを貫いていただけであり、新日のリングに上がれて勉強になり感謝している」と発言している。 1994年にSPWFを退団し、フリーランスを経て同年レッスル夢ファクトリーに入団した。
川田 利明(かわだ としあき、1963年12月8日 - )は… 川田 利明(かわだ としあき、1963年12月8日 - )は、日本の男性プロレスラー、実業家、調理師、タレント。栃木県下都賀郡大平町(現:栃木市)出身。タレントとして太田プロダクションに所属。血液型O型。2010年をもってプロレスラーとしては事実上引退状態となっている。 「名勝負製造機」とも称される試合巧者振りと、キック主体のレスリングスタイルが特徴であった。 中学時代からプロレスラーを志し、野球部・相撲部に所属していた。2004年に同じ太田プロダクション所属のスマイリーキクチ・有吉弘行と対談を行った際には、中学2年生の時点で身長は公表しているプロフィールと同じ183cmもあり、現在も当時と変わっていないと川田も発言している。
スーパーライダー(1962年11月9日 - )は、日本の覆面… スーパーライダー(1962年11月9日 - )は、日本の覆面レスラー。本名:渡部 優一(わたなべ ゆういち)。武道団体・掣圏真陰流興義館の館長。元プロ総合格闘家で修斗初代ウェルター級チャンピオン。栃木県足利市出身。 1993年10月28日、谷津嘉章が設立したプロレス団体「SPWF」に仮面ライダー的マスクを被ったホッパーキングとして登場。野鳥の森とーぶ福寿殿駐車場で行われた興行で、鶴見五郎・大矢剛功とタッグを組み、三浦博文、川端輝鎮、丸山昭一組を相手にデビュー戦を行った。 その後、プロレスショップの助言を受けて、1996年1月25日の「PWC」北沢タウンホール大会よりリングネームをスーパーライダーに改名。
宮内 輝和(みやうち てるかず、1960年7月6日 - 20… 宮内 輝和(みやうち てるかず、1960年7月6日 - 2026年1月11日)は、群馬県出身の元レスリング選手、元春日野部屋大相撲力士。最高位は東幕下30枚目(1986年1月場所)。 足利工業大学付属高等学校を経て、日本大学に入学。大学でもレスリング部に入り、1980年の全日本選手権で男子グレコローマンの100kg以上級で優勝。同年のモスクワオリンピック日本代表に選ばれたが、日本はボイコットしたため、出場できなかった。その後、大学を中退し大相撲に転向。 春日野部屋に入門し1981年1月場所に初土俵を踏んだ。同場所では近畿大学を中退し大相撲に飛び込んだ杉野森(後横綱旭富士・現伊勢ヶ浜親方)も初土俵を踏んだ。
谷津 嘉章(やつ よしあき、1956年7月19日 - )は、… 谷津 嘉章(やつ よしあき、1956年7月19日 - )は、日本のレスリング選手、プロレスラー。 学生時代はアマチュアレスリングのフリースタイル重量級で国内無敵を誇り、オリンピックの日本代表に2大会連続で選ばれる。プロレスラーとしては新日本プロレスからキャリアを始め、全日本プロレスやSWS、WJプロレスなどで主力選手として活躍。2019年に糖尿病の影響で右足を切断して以降は障がい者レスリングに取り組む。 足利工業大学附属高等学校でレスリングを始める。日本大学レスリング部時代には全日本学生選手権や全日本選手権で優勝を重ね、1976年には日本代表としてモントリオールオリンピックに出場(8位)。1980年モスクワオリンピックでも日本代表に選ばれたが、日本が不参加だったため2大会連続出場はならなかった。
清水 アキラ(しみず アキラ、1954年6月29日 - )は… 清水 アキラ(しみず アキラ、1954年6月29日 - )は、日本のものまねタレント、お笑いタレント。本名は清水 章(読み同じ)。清水エイジェンシー所属。 長野県下高井郡山ノ内町出身。 設計事務所を営んでいた父の影響を受け、家業を継ぐため建築家を目指し足利工業大学工学部機械工学科に進学するも、20歳の時に父親が他界し、中退。『ぎんざNOW!』のオーディションに合格し「コメディアン道場」5週連続チャンピオンを達成。『ぎんざNOW!』の出演を機にバラエティ番組に出演するようになり、後にコメディアン道場のチャンピオン同士でザ・ハンダースを結成。ザ・ワイルドワンズの「想い出の渚」をリメイクするなどのヒット曲を生み出す。
須永 徹(すなが とおる、1950年〈昭和25年〉2月14日… 須永 徹(すなが とおる、1950年〈昭和25年〉2月14日 - 1991年〈平成3年〉11月23日)は、日本の政治家。元日本社会党衆議院議員(1期)。 群馬県太田市出身。足利大学附属高等学校を卒業。1971年群馬大学工業短期大学部卒。富士重工に入り、その後衆議院議員小川省吾の秘書を務めた。太田中小企業労務協会理事長、自治労群馬県本部特別執行委員、日本社会党太田総支部書記長、同党群馬県副委員長を経て、1990年の総選挙で旧群馬2区から立候補して初当選。その前の第38回衆議院議員総選挙では落選している。 しかし在職中の1991年11月23日、群馬県桐生市内の知人の結婚披露宴に出席し祝辞を述べた直後に倒れ、近くの大間々町の恵愛堂病院に搬送されたが、30分後に死亡した。