岸本 千明(きしもと ちあき、1933年1月24日 - )は… 岸本 千明(きしもと ちあき、1933年1月24日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 京阪商業から1952年に南海ホークスへ入団。1953年に退団。 孫はサンケイスポーツの社員として活動している。
大阪府立芦間高等学校:8人
岸本 千明(きしもと ちあき、1933年1月24日 - )は… 岸本 千明(きしもと ちあき、1933年1月24日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 京阪商業から1952年に南海ホークスへ入団。1953年に退団。 孫はサンケイスポーツの社員として活動している。
大沢 喜好(おおさわ きよし、1925年7月21日 - 生死… 大沢 喜好(おおさわ きよし、1925年7月21日 - 生死不明 )は、大阪府出身の元プロ野球選手。 京阪商業学校から1946年にパシフィックへ入団。同年途中にセネタースへ移籍。
丸山 二三雄(まるやま ふみお、1925年5月23日 -20… 丸山 二三雄(まるやま ふみお、1925年5月23日 -2006年)は、大阪府出身の元プロ野球選手、社会人野球選手。ポジションは投手。 京阪商業から1943年に南海軍へ入団。1945年に召集され、復帰した1946年に25勝を挙げ、1947年も10勝を挙げている。1949年に中日ドラゴンズへ移籍。1951年は大洋ホエールズに移籍し、この年に引退した。カーブ、シュートボールを武器とするが、制球難の為、崩れやすい特徴があった。 プロを引退した翌年の1952年から、尼崎中央商店街にあったキャバレー春美の野球部にて社会人野球で現役を続行、1952年の第2回日本産業対抗野球大会(サンベツ)で春美が「百貨店・商業部門」代表として出場した。
佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 201… 佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 2017年3月12日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手。右投げ右打ち。パシフィック→太陽→松竹、国鉄でプレイ。ポジションは捕手・一塁手。 京阪商(現:大阪府立芦間高等学校)を卒業後、宮崎県でゼロ戦の整備に従事していたが、第二次世界大戦終戦後のある日、新聞を見ていたところ、プロ野球球団・パシフィックの選手募集広告を見つけたことがきっかけで1946年にパシフィックへ入団。1年目から34試合出場するも、捕手としては18試合しか出場しておらず、専ら代打として出場し37打数5安打5打点1本塁打と特に目立った活躍はしなかった。 しかし、太陽ロビンスとチーム名を変えた2年目、佐竹は正一塁手を獲得。
乾 国雄(いぬい くにお、1923年3月18日 - 没年不明… 乾 国雄(いぬい くにお、1923年3月18日 - 没年不明)は兵庫県芦屋市生まれ大阪府大阪狭山市育ちの元プロ野球選手。 1942年に京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)から、阪神に入団。2年目の1943年には62試合に出場した。1944年から登録が無く、1946年に阪神に復帰するも翌1947年シーズン前に退団し、新たに創設された国民野球連盟の大塚アスレチックスに参加した。1950年には、古沢建設から栃木県代表として都市対抗野球に出場し、2年後には明利酒類から同県代表としてサンベツに出場した。 2024年のドラフト会議でオリックス・バファローズから育成6巡目指名を受けた乾健斗は孫にあたる。
加地 健三郎(かち けんさぶろう、1921年 - 没年不明)… 加地 健三郎(かち けんさぶろう、1921年 - 没年不明)は、大阪府出身のプロ野球選手。右投右打で、ポジションは二塁手、三塁手、遊撃手。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年)、夏2回(1938年、1939年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに宮口美吉、深尾文彦(2人とものち南海軍)、乾国雄(のち阪神軍)がいる。 1940年3月15日、ライオン軍と契約し入団。二塁、三塁、遊撃を守ることができるユーティリティープレイヤーとして活躍した。打率は低かったが勝負強い打撃で8打点をマークした。同年末にライオン軍を退団。 それから10年後の1950年に読売ジャイアンツに復帰。
深尾 文彦(ふかお ふみひこ、1920年 - 没年不明)は、… 深尾 文彦(ふかお ふみひこ、1920年 - 没年不明)は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年)、夏2回(1938年,1939年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに宮口美吉や加地健三郎がいる。 1940年、南海軍に入団。しかしデビュー戦となった1940年4月6日の阪急軍戦で、劉瀬章、平野正太郎の後を受け3番手投手として登板するも、7回から9回までの3イニングで17失点を浴びた。個人の投手での1試合17失点は当時のプロ野球記録(現在のプロ野球記録は1950年に伊藤万喜三〈東急〉が記録した18失点)。投手としてはこの1試合で見切られ、野手や代打要員として出場するも全く活躍できず、1941年限りで現役引退。
宮口 美吉(みやぐち よしきち、1919年 - 戦死)は、大… 宮口 美吉(みやぐち よしきち、1919年 - 戦死)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年),夏1回(1938年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに深尾文彦や加地健三郎がいる。 1938年秋、南海軍に入団。南海の初代エースとして活躍し、負けが先行しながらも6勝(当時の南海ではチーム一の勝ち頭だった)を挙げた。同シーズンには防御率2.25で防御率トップ10の5位に入っている。1939年5月6日の阪急軍戦では平野正太郎投手とのリレーで無安打に抑えるも、2点を取られるという珍記録を持っている(日本プロ野球公式戦唯一の被安打0敗戦)。