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矢野 実(やの みのる、1959年4月21日 - )は、兵庫… 矢野 実(やの みのる、1959年4月21日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。 1991年の登録名は矢野 實、1992年の登録名は矢野 未乘、1993年以降の登録名は矢野 未乗(いずれも読み同じ)。 芦屋高では3年夏の県大会ベスト8。社会人野球の神戸大丸・大丸では第52回都市対抗野球大会で岩切英司とのバッテリーで2/3回のみ登板、1981年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから3位指名を受け入団。 スライダーを武器に右の中継ぎとしてチームを支えた。 1988年にはリーグ最多登板を記録する。 1990年オフに今井雄太郎との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。 1992年オフに金銭トレードでホークスに復帰。
佐藤 治夫(さとう はるお、1947年 - )は、日本の元ア… 佐藤 治夫(さとう はるお、1947年 - )は、日本の元アマチュア野球選手(内野手)。実父は佐藤平七。 芦屋高校から法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中に3回優勝。2年生から中村之保の後継として二塁手に定着、1967年秋季リーグから4季連続でベストナインに選出される。1年上の田淵幸一、山本浩司らとともに活躍。1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会に東京六大学野球リーグ代表として出場。最上級生となった1969年秋季リーグでも、同期のエース山中正竹を擁し優勝に貢献する。同年の第8回アジア選手権日本代表に選出される。大学同期に山中の他、江本孟紀、黒田正宏、堀井和人、山田克己らがいた。
安藤 敏雄(あんどう としお、1941年10月4日 - )は… 安藤 敏雄(あんどう としお、1941年10月4日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手。 芦屋高校では藤悟郎の1年下。2年生の秋からエースとなり本格派右腕として注目される。同期の広瀬幸司とバッテリーを組み活躍。1958年秋季近畿大会準決勝に進み、平安高の藤野隆司と投げ合うが敗退。しかし翌1959年春の選抜への出場を決める。大会では1回戦で三浦和美のいた広陵高を完封するが、2回戦で浪華商に敗れる。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退、甲子園には届かなかった。他の高校同期に一塁手の西岡浩史らがいる。 1960年に西鉄ライオンズへ入団するが、肩を故障しアンダースローへの転進を余儀なくされる。1962年に一軍初登板。
西岡 浩史(にしおか ひろし、1941年9月12日 - )は… 西岡 浩史(にしおか ひろし、1941年9月12日 - )は、兵庫県出身のアマチュア野球選手(一塁手)、実業家。野球選手引退後は東芝グループで要職を務めた。 芦屋高校では一塁手として活躍。1年上のエース藤悟郎を擁し、1958年春の選抜へ出場。1回戦で宇都宮工に敗退。同年夏の甲子園県予選は準々決勝で兵庫工に敗れる。翌1959年も春の選抜に連続出場。1回戦で三浦和美のいた広陵高を降すが、2回戦で浪華商に敗れる。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退、甲子園には届かなかった。高校同期には安藤敏雄、広瀬幸司のバッテリーがいた。 卒業後は慶應義塾大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1962年秋季リーグ、1963年春季リーグに優勝。
広瀬 幸司(ひろせ こうじ、1941年 - )は、兵庫県出身… 広瀬 幸司(ひろせ こうじ、1941年 - )は、兵庫県出身の野球選手(捕手)。 芦屋高校では、同期のエース安藤敏雄とバッテリーを組む。2年次の1958年に秋季近畿大会準決勝へ進み、平安高の藤野隆司に抑えられ敗退するが、3年次の1959年春の選抜出場を決める。大会では1回戦で三浦和美のいた広陵高を降すが、2回戦で浪華商に敗れる。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退、甲子園には届かなかった。他の高校同期に一塁手の西岡浩史らがいる。 高校卒業後は1960年に法政大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは4回の優勝を経験。2年次の1961年から正捕手となり、2年上の新山彰忠、同期の山崎武昭・龍隆行らとバッテリーを組む。
藤 悟郎(ふじ ごろう、1940年 - )は、兵庫県出身の元… 藤 悟郎(ふじ ごろう、1940年 - )は、兵庫県出身の元アマチュア野球選手(投手)。 芦屋高では、エースとして1958年秋季近畿大会県予選決勝に進み兵庫工と延長13回1-1の引き分け。再試合も延長20回0-0で引き分けとなり話題となる。翌1958年春の選抜に出場するが、1回戦で宇都宮工に敗退。同年夏の甲子園県予選は準決勝で兵庫工に敗退。高校の1年下に安藤敏雄がいた。 慶應義塾大学に進学。東京六大学野球リーグでは、1年上に早慶六連戦で主軸となった清沢忠彦、角谷隆、三浦清(日本石油-大昭和製紙)、丹羽弘(全鐘紡)の4投手がおり、なかなか活躍の機会はなかった。しかし4年生時にはエースとして同期の大橋勲とバッテリーを組み、1962年秋季リーグで優勝、ベストナイン(投手)に選出された。
寺本 勇(てらもと いさむ、1939年7月3日 - )は、兵… 寺本 勇(てらもと いさむ、1939年7月3日 - )は、兵庫県芦屋市出身の元プロ野球選手(外野手)・プロ野球審判員。元パシフィック・リーグ審判部長。 芦屋高等学校では1956年、2年生の時に左翼手として春の選抜に出場。準決勝まで進むが中京商に敗れる。一学年上のチームメートに渡海昇二がいた。卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは1、2年在学中に3度の優勝を経験するが、その後の立大は低迷を続ける。しかし1961年秋季リーグでチームは2位まで順位を戻し、寺本も打率.410(2位)を記録して、同季のベストナインに選出された。大学同期に丸山完二、青野修三がいる。 1962年に大毎オリオンズに入団するが、一軍出場に恵まれないまま1963年に退団。
渡海 昇二(とかい しょうじ、1938年5月3日 - 201… 渡海 昇二(とかい しょうじ、1938年5月3日 - 2016年6月30日)は、兵庫県出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。 芦屋高校では、1956年に中堅手として春の選抜に出場する。準決勝まで進むが中京商業高の安井勝に抑えられ完封を喫する。なお、中京商業高は同大会で優勝した。高校時代の1学年下のチームメートに寺本勇(元大毎オリオンズ、引退後プロ野球審判員)がいた。 高校卒業後は、慶應義塾大学に進学する。東京六大学野球リーグで優勝はできなかったが、主将として1960年秋季リーグの早慶六連戦で活躍。2年生捕手の大橋勲とともに打線の中軸を担い、同季のベストナイン(外野手)にも選出される。リーグ通算81試合出場、290打数76安打、2本塁打、31打点、打率.262、ベストナイン(外野手)2回。
本屋敷 錦吾(もとやしき きんご、1935年10月31日 -… 本屋敷 錦吾(もとやしき きんご、1935年10月31日 - )は、兵庫県神戸市東灘区出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。現在は芦屋市在住。 芦屋高校では在学中に甲子園に3回、国体に3回出場。1年時はベンチ外だったが、チームが出場した1951年夏の選手権では、1年先輩のエース植村義信を擁し準々決勝に進出するも、中西太のいた高松一高に敗退。秋の広島国体では決勝に進むが、広島観音高に敗退。2年上のチームメートに杉谷和男中堅手(のち大映)がいる。二塁手として出場した翌1952年春の選抜では、2回戦で平安高に敗れる。同年夏の選手権は順調に勝ち進み、決勝でエース木村保を擁する八尾高を降し初優勝を飾る。
植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - 20… 植村 義信(うえむら よしのぶ、1935年1月5日 - 2023年5月30日)は、兵庫県芦屋市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。 息子はフジテレビプロデューサーの植村義勝。 当時スポーツの花形であった野球をするのは男子のステータスの一つであり、植村もその波に乗っかった。ボール一つに不自由した時代でもあり、芦屋高校で野球部に入ると「白球を触るだけでうれしかった」という。ボール拾いの際に1球こっそり持ち帰り、裸電球の下、自宅そばの土壁に当てて投球練習をした。この積み重ねが豪速球とドロップを生み出し、その後の人生も変えていった。 杉谷和男(大映)の1学年下、本屋敷錦吾(阪急・阪神)の1学年上で、2年次の1951年夏から3回連続で甲子園に出場。
杉谷 和男(すぎたに かずお、1933年4月20日 - )は… 杉谷 和男(すぎたに かずお、1933年4月20日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手。 芦屋高校では1951年に第33回夏の甲子園に出場。1回戦の小倉高校戦で大会第2号となる本塁打を打っている。 1952年に大映スターズへ入団。1955年に退団した。
有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日 - )は… 有本 義明(ありもと よしあき、1931年6月1日 - )は、兵庫県芦屋市出身のスポーツライター・解説者、野球監督。 現在はスポーツニッポン特別編集委員。 父・臣次は育英商から関西大を出て野球に親しみ、西宮市出身で甲陽中にも在籍した天知俊一と一緒の写真もあった。有本が幼い頃にキャッチボールすると「ちゃんと捕れるじゃないか」と喜んでくれた。 1945年8月15日の終戦後、9月に新学期を迎えると、当時芦屋中2年生の有本は剣道部に入部。小学生時代から壁当てや天井投げをして野球に親しんでいたが、野球部はなかった。芦屋中進学は甲南中受験に失敗したからであり、この時も西脇の疎開先で転校手続きに入っていた。そんな折、10月に校内軟式野球大会が芦屋・打出浜の海技専門学校であった。