スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
鈴鹿 央士(すずか おうじ、2000年〈平成12年〉1月11… 鈴鹿 央士(すずか おうじ、2000年〈平成12年〉1月11日 - )は、日本の俳優、モデル。 岡山県岡山市出身。フォスター所属。 2歳上の兄の影響で同じ県立高校に進学、同じバドミントン部に入る。高校2年生だった2016年11月、在学中の高校で映画『先生!、、、好きになってもいいですか?』のロケが行われ、エキストラとして参加。その際、出演者の広瀬すずの目に留まり、広瀬がマネジャーに「スタイルが良くて目立つ子がいる。声かけたほうがいいよ」とスカウトするよう進言した。 2018年4月、スカウトをきっかけに、東京の大学へ進学すると同時に芸能事務所に所属。「すず」にちなんだ芸名とした。同年秋、ファッション誌「第33回『MEN'S NON-NO』専属モデルオーディション」にてグランプリを獲得した。
奥山 洋平(おくやま ようへい、1999年10月28日 - … 奥山 洋平(おくやま ようへい、1999年10月28日 - )は、岡山県岡山市中区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・レノファ山口FC所属。ポジションはミッドフィールダー。 高校時代は無名の存在だったが、阪南大学進学後に頭角を現す。2021年の関西学生サッカーリーグではリーグ2位の12アシストを決めた。 2021年12月からいわてグルージャ盛岡のトライアルに参加し、2022年2月2日に加入決定が発表された。2月27日、J2リーグ第2節のFC町田ゼルビア戦でプロデビュー。6月15日、第16節モンテディオ山形戦でプロ初ゴールを決めた。 2023年、FC町田ゼルビアへ完全移籍。しかし公式戦の出場は2023年の天皇杯の1試合のみだった。
田辺 大樹(たなべ だいき、1989年4月15日 - )は、… 田辺 大樹(たなべ だいき、1989年4月15日 - )は、日本の起業家、エンジェル投資家。株式会社viviane創業者、同代表取締役。 岡山県岡山市出身。神戸学院大学に在学中に株式会社vivianeを設立、映画・ドラマ・アニメを中心とするポップカルチャーに特化した情報サイト「ciatr」、動画配信サービスの横断検索サイトおよびオンラインデータベースサイト「ワンスクリーン」の企画・開発・運営に関わる。 2019年には個人投資家らから数千万円の資金調達を実施し、2020年3月に東証一部上場企業である株式会社ファンコミュニケーションズと資本業務提携を行った。2024年9月26日に、ciatrおよびワンスクリーンがエボイス株式会社に事業譲渡されることが発表された。
大森 勇(おおもり いさむ、1989年2月23日 - )は、… 大森 勇(おおもり いさむ、1989年2月23日 - )は、日本のバスケットボール選手である。岡山県瀬戸内市(旧邑久町)出身。ポジションはポイントガード。持ち味はスピード。 小学4年生の時、兄の影響でバスケットボールを始める。岡山県立西大寺高等学校を卒業後、教師になるため大阪教育大学に進学したが、プロバスケットボール選手になる夢を捨てきれず、大学在学中よりプロチームのトライアウトに挑戦。大学卒業後は、大阪実業団リーグの日新シール工業に所属。2012年2月、高松宮記念杯第44回全日本実業団バスケットボール選手権大会に出場している。 2012年6月、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)・高松ファイブアローズのトライアウトを受験。
三松 直美(みまつ なおみ、1978年11月21日 - )は… 三松 直美(みまつ なおみ、1978年11月21日 - )は、岡山県出身、香川県在住の競艇選手。登録番号3943。身長162cm。血液型A型。81期。岡山支部所属。 同期に佐々木康幸、深井利寿、正木聖賢、川村正輝、黒崎竜也、渡辺真至、飯山泰、繁野谷圭介、池田浩二、寺田祥、池田浩美らがいる。
岡﨑 克哉(おかざき かつや、1971年10月12日 - )… 岡﨑 克哉(おかざき かつや、1971年10月12日 - )は、日本で活動するミュージカル俳優および元小学校教員である。岡山県岡山市出身。株式会社アンカット所属。 岡山県立西大寺高等学校卒業後は岡山大学教育学部小学校教員養成課程に進学し、小学校教員を志望していた。在学中はグリークラブに所属し、歌の他にダンスにも熱中していた。大学卒業後は志望通り小学校教員となり、県内の小学校へ赴任され教師として活動していた。同時に舞台出演もしており、31歳だった2003年に劇団四季随時オーディションに合格し、教員を退職して劇団四季へ入団しミュージカル俳優に転身した。以降ファミリーミュージカルを中心に数多くの作品に出演していた。
ダイナマイト・イシムラ(1963年9月19日 - 、男性)は… ダイナマイト・イシムラ(1963年9月19日 - 、男性)は、岡山県を拠点にタレント活動をしているディスクジョッキー。ダイナマイト・オフィス代表。 岡山県出身。血液型B型。 主に岡山県と香川県で放送されるテレビ番組・ラジオ番組に出演。同エリアで放送されるCMのナレーションも数多く手掛けている。2008年からはファジアーノ岡山ホームゲームのスタジアムDJも務めている。
赤木 曠児郎(あかぎ こうじろう、1934年(昭和9年)1月… 赤木 曠児郎(あかぎ こうじろう、1934年(昭和9年)1月3日 - 2021年(令和3年)2月15日)は、日本の洋画家。 岡山県岡山市に生まれる。第2次大戦後、家が戦災で焼け出されたため各地移転。 岡山大学理学部物理学科を卒業後フランスに渡り、長らくパリに在住していた。油彩、水彩、リトグラフによるパリ、フランスの風景を描き続ける。ル・サロン展油絵金賞を受賞し、終身無鑑査。その他フランス大統領賞、フランス学士院絵画賞受賞等。 また、岡山県の山陽放送に月に1回「パリ通信」、山陽新聞に「フランス日本・遠眼鏡」を寄稿している。 (以来フランスの各種具象美術団体展に出品)
吉永 祐介(よしなが ゆうすけ、1932年(昭和7年)2月1… 吉永 祐介(よしなが ゆうすけ、1932年(昭和7年)2月14日 - 2013年(平成25年)6月23日)は、日本の検察官(第18代検事総長)。弁護士。岡山市生まれ。位階は正三位。 日通事件、ロッキード事件など数多くの事件を東京地検特捜部で手がけ、俗にいう“現場派”として検事総長を歴任。2004年(平成16年)4月29日、瑞宝大綬章受章。 ロッキード事件の際、吉永副部長は新聞記者に対して「黙れ」「とにかく今後P3Cと書くことはならん」と言い、違反したら地検の会見には出させないと脅した。翌日からP3Cが紙面からきれいさっぱり消えたという。また、実質的な司法取引による刑事免責を与えられたロッキード社幹部のアーチボルド・コーチャンの証言について、吉永副部長は「米国人は聖書に手を置いて証言するから嘘は言わない」と新聞記者に言ったという。
奥山 雄材(おくやま ゆうさい、1931年8月31日 - 2… 奥山 雄材(おくやま ゆうさい、1931年8月31日 - 2026年1月11日[要出典])は日本の郵政官僚。郵政事務次官を経て、稲盛和夫とともにKDDIの設立に尽力し、同社初代代表取締役社長、電気通信事業者協会会長、簡易保険福祉事業団理事長等を歴任した。 岡山県出身。岡山県立西大寺高等学校を経て、1954年、岡山大学法文学部法学科を2期生として卒業。小長啓一元通商産業事務次官は大学時代の友人。旧郵政省(現:総務省)でNTT民営化にあたるなどし、郵政省通信政策局長などを経て、1988年、郵政事務次官。1993年、第二電電(現:KDDI)社長に就任。NTTドコモやNTTコミュニケーションズに対抗するため、稲盛和夫会長とともに、国際電信電話、日本移動通信の親会社であるトヨタ自動車の奥田碩会長などと面談をし、第二電電を存続会社にした合併によりKDDIの設立を行い、同社初代社長に就任した。
小長 啓一(こなが けいいち、1930年12月12日 - )… 小長 啓一(こなが けいいち、1930年12月12日 - )は、日本の官僚、弁護士。 元通商産業事務次官。AOCホールディングス会長、同台経済懇話会代表幹事、経済産業調査会会長、東急元取締役。 岡山県備前市生まれ。陸軍幼年学校を経て、旧制岡山県西大寺中学校(現・岡山県立西大寺高等学校)、旧制第六高等学校から新制岡山大学法文学部に進み、1953年に卒業。同期には吉永祐介(検事総長)、1年後輩に奥山雄材(郵政事務次官)がいた。 猛勉強の末に在学中に国家公務員上級職(法律職)試験と旧司法試験に合格していたが、「先の戦争は、日本が石油を押さえられて軍部が突っ走ったために起きた。今後、資源のない日本が世界で生き残っていくためには貿易立国しかない」という思いから、1953年通商産業省に入省した。
時実 新子(ときざね しんこ、本名:大野 恵美子(おおの え… 時実 新子(ときざね しんこ、本名:大野 恵美子(おおの えみこ)、1929年1月23日 - 2007年3月10日)は、日本の川柳作家、随筆家。現代川柳の一時代を築いた人物として知られる。岡山県上道郡九蟠村(現・岡山市東区西大寺)出身。 1941年、岡山県立岡山西大寺高等女学校(現・岡山県立西大寺高等学校)入学。学徒動員や空襲を経て、1946年兵庫県姫路市の文具商と結婚。傷痍軍人であった夫の暴力に苦しむ中で、新聞の投稿欄で川柳に出会う。もともとは学生時代から短歌を詠んでいたが[要出典]、1954年神戸新聞の川柳壇に初めて投句して入選する。1956年「ふあうすと」に参加するも、翌年同会を退会して『川柳研究』幹事となる。