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岡光 序治(おかみつ のぶはる、1939年(昭和14年)2月… 岡光 序治(おかみつ のぶはる、1939年(昭和14年)2月1日 - )は、日本の官僚。厚生事務次官を経て、収賄罪で懲役。出所後、ウィーティービーフーズ株式会社を設立し、同社社長や会長を務める。 広島県呉市出身。呉海軍工廠に勤務していた父親が、岡光1歳の時に亡くなり、親ひとり子ひとり、女手ひとつで育てられ、苦学して広島県立呉三津田高等学校に進学、東京大学法学部卒業後、1963年(昭和38年) 厚生省に入省した。社会局援護課に配属された。厚生省を選んだ理由は、子供の頃、呉の実家近くに岸信介らが設立した東洋パルプの工場があり、大量の汚水を瀬戸内海に流す光景が頭から離れず、豊かで美しい瀬戸内海を取り戻したいという思いからだという。
保田 博(やすだ ひろし、1932年5月14日 - )は、日… 保田 博(やすだ ひろし、1932年5月14日 - )は、日本の大蔵官僚。元大蔵事務次官、初代国際協力銀行総裁。 広島県呉市(江田島)出身。父は呉海軍工廠技官。呉市立二河国民学校を経て、呉第一中学校(のちの呉三津田高校)入学。高校時代テニス選手で広島県ベスト4だったが、肋膜炎を患い高校3年夏に休学。翌年、留年に直面し下級生の組に編入されるのがイヤで都立日比谷高校の編入学試験に挑戦し合格した。日比谷高へ転校した後、東京大学文一入学。 東京大学法学部第2類(公法コース)を卒業後、法学部第1類(私法コース)へ内部学士入学し、国家六級職試験を通り、1957年、大蔵省入省。入省同期に、次官候補のライバルだった的場順三(内閣官房副長官、国土事務次官、内閣官房内閣内政審議室長)、内海孚(財務官)、森田一(衆議院議員、運輸大臣)、大山綱明(日本関税協会理事長、全国清涼飲料連合会会長、関税局長)、中田一男(OMCカード会長、北海道開発次官)、亀井敬之(泉州銀行頭取、大臣官房審議官)、山崎高司(日本総研副理事長、IMF理事、駐英公使)など。
山野 正登(やまの まさと、1925年(大正14年)1月1日… 山野 正登(やまの まさと、1925年(大正14年)1月1日 - 2012年(平成24年)8月15日)は、日本の元官僚。科学技術事務次官。宇宙開発事業団理事長。通商産業省にて日本初の民間輸送機YS-11の開発事業等、航空機の開発行政に従事、科学技術庁にて宇宙開発委員会の発足・宇宙開発事業団の創設等、主に宇宙開発事業草創期の礎を築くとともに、宇宙開発事業団では自主技術である純国産大型ロケットH-IIの打ち上げ成功・国際宇宙ステーション計画の推進等、日本の宇宙開発を欧米先発国と肩を並べるまで導いた功労者のひとり。 広島県江田島市出身。呉第一中学校、旧制第六高等学校を経て、1944年(昭和19年)東京帝国大学第二工学部航空機体学科に入学、終戦により航空機体学科が解体されたため、1947年(昭和22年)物理工学科を卒業した。
小松 勇五郎(こまつ ゆうごろう、1920年(大正9年)9月… 小松 勇五郎(こまつ ゆうごろう、1920年(大正9年)9月18日 - 1995年(平成7年)12月23日)は、広島県出身の通産官僚。通商産業事務次官。神戸製鋼会長。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 呉第一中学、広島高等学校文科乙類、東京帝国大学法学部卒業。1944年軍需省入省、整備局配属。戦後は通商産業省へ移り、広島通産局、鉄鋼局鉄鋼政策課、企業局企業第一課勤務を経て、1953年外務省経済局スターリング課に出向、1955年-1960年在西ドイツ大使館一等書記官としてボンに駐在。帰国後ヨーロッパ経済の実情を『小松レポート』にまとめ論客として登場した。 通商局国際経済課長、重工業局産業機械課長、企業局企業第一課長、大臣官房総務課長、通商局国際経済部長(1968年~1971年)、官房長(1971年6月~1972年5月)、通商局長(1972年6月~、次の和田敏信局長で通商政策局と改組)、初代産業政策局長(1973年7月~、企業局から改組)を経て、事務次官(1974年11月~1976年7月)。
栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27… 栗栖 弘臣(くりす ひろおみ、1920年〈大正9年〉2月27日 - 2004年〈平成16年〉7月19日)は、日本の内務官僚、海軍軍人及び陸上自衛官。第13代陸上幕僚長、第10代統合幕僚会議議長。 呉第一中学校、第一高等学校を経て1943年(昭和18年)9月、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験(高文)行政科に首席で合格し内務省に入省するが、短期現役海軍法務科士官を志願し帝国海軍へ。南方戦線へ従軍し、海軍法務大尉として1945年(昭和20年)8月の終戦を迎える。終戦後も、現地で戦犯の特別弁護人を務め、復員が1948年(昭和23年)まで遅れた。 復員後は官僚に戻らず、弁護士となったが、1950年(昭和25年)に総理府事務官となり、1951年(昭和26年)9月、警察予備隊(保安隊を経て陸上自衛隊)に入隊し、警察士長(陸軍少佐・三等陸佐に相当)に任じられる。