矢内原美邦(やないはら みくに、1971年1月25日 - )… 矢内原美邦(やないはら みくに、1971年1月25日 - )は、日本の振付家・演出家・劇作家。ニブロール、ミクニヤナイハラプロジェクト主宰。愛媛県今治市出身。 上海ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、妻有トリエンナーレ、NYキッチン、セルバンティーノ演劇祭、などに参加しているアーティスト
愛媛県立今治南高等学校:12人
※有名人ナビに登録されている12人を職業別に数えました。複数の職業を持つ人は、それぞれの職業に数えています。
矢内原美邦(やないはら みくに、1971年1月25日 - )… 矢内原美邦(やないはら みくに、1971年1月25日 - )は、日本の振付家・演出家・劇作家。ニブロール、ミクニヤナイハラプロジェクト主宰。愛媛県今治市出身。 上海ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、妻有トリエンナーレ、NYキッチン、セルバンティーノ演劇祭、などに参加しているアーティスト
村上 修司(むらかみ しゅうじ、1964年5月28日 - )… 村上 修司(むらかみ しゅうじ、1964年5月28日 - )は愛媛県出身の日本の柔道家。95kg超級の選手。現役時代は身長185cm。体重120kg。 今治南高校3年の時にインターハイの重量級で優勝を飾った。1983年に日本大学へ進学すると、1年の時には優勝大会と新人体重別95kg超級で3位になった。2年の時には優勝大会で3位だったが、新人体重別では優勝を飾った。正力国際の無差別では決勝で天理大学4年の正木嘉美に敗れて2位だったものの、団体戦では優勝した。3年の時には講道館杯で優勝を飾った。優勝大会でも1年後輩の持田達人などとともに活躍してチームの優勝をもたらした。正力杯でも決勝で秋田経済法科大学4年の渡辺浩稔を破って優勝を飾り、団体戦との2冠を達成した。
小澤 雄二(おざわ ゆうじ、1963年7月8日 - )は、愛… 小澤 雄二(おざわ ゆうじ、1963年7月8日 - )は、愛媛県出身の、日本の柔道選手である。階級は60kg級。身長161cm。 今治南高校2年の時にインターハイの軽量級で3位になった。 筑波大学3年の時に講道館杯の決勝で奈良工業高校教員の細川伸二に敗れて2位だった。正力杯でも2位にとどまった。また、東ドイツ国際では3位だったが、西ドイツ国際 では優勝を飾った。4年の時にはフランス国際でも優勝した。1986年には山形県教育委員会の所属になると、講道館杯では決勝でダイコロの木田守に敗れて2位だった。1987年の講道館杯では3位だった。1988年にはハンガリー国際で優勝するも、体重別では3位だった。
青野 敏行(あおの としゆき、1960年3月5日 - )は、… 青野 敏行(あおの としゆき、1960年3月5日 - )は、日本の喜劇俳優、お笑い芸人、ナレーター、吉本新喜劇座員。 愛媛県今治市出身。吉本興業所属。 愛媛県立今治南高等学校卒業。 素人時代に『TVジョッキー』の「ザ・チャレンジ」ものまねチャンピオン大会に宇野栄二とコンビで出場し、第9代ウルトラチャンピオンになる。当時高校生だったとんねるずの木梨憲武と同じ舞台に立っていた。 四角い顔で浪花節的な濁りの入った渋い声の持ち主で、時代劇俳優指向が強い。声質を活かし、ナレーションも務めている(「出演番組」の項を参照)。 俳優として東映ニューフェイスでデビュー。上京したが出戻り、漫才コンビを組んで大阪へ。
門田 純良(かどた すみよし、1951年4月5日 - )は、… 門田 純良(かどた すみよし、1951年4月5日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。 今治南高から、社会人野球の愛媛相互銀行へと進み、谷山高明とともに主力投手として活躍。 1970年のプロ野球ドラフト会議で南海ホークスから3位指名される。しかし保留する。 1971年の都市対抗に谷山とともに丸善石油の補強選手として出場。2回戦では盛岡鉄道管理局を相手に先発するが、早々に打ち込まれ真価を発揮できなかった。準々決勝でも先発を任され、日本石油の奥江英幸と投げ合う。この試合は3回からエースの久玉清人に継投して勝利を飾った。決勝に進出し新日鐵広畑と対戦。7回から久玉をリリーフするが白滝政孝、佐々木恭介に適時打を浴び降板、敗退した。
正岡 真二(まさおか しんじ、1949年8月15日 - )は… 正岡 真二(まさおか しんじ、1949年8月15日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(内野手)。1971年までは村上(むらかみ)姓であった。 2014年まで中日ドラゴンズのスカウトを務めていた。 今治南高校では遊撃手、一番打者として1967年夏の甲子園予選北四国大会決勝に進出。玉井信博投手を主戦とする松山商を降し甲子園に出場。準々決勝に進むが、野上俊夫投手を擁する市和歌山商に延長10回の熱戦の末3-4xで敗れた。 高校球界ナンバーワンの遊撃手と評価され、1967年のドラフト4位で中日ドラゴンズに入団。打撃に極端に難があり、二軍暮らしが長かった。 1973年に一軍に定着、華麗な守備で徐々に出場機会を増やすが、打撃面での弱さが克服できず、広瀬宰とのレギュラー遊撃手争いが続く。
金子 準一(かねこ じゅんいち、1947年11月5日 - )… 金子 準一(かねこ じゅんいち、1947年11月5日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。 元阪神タイガースの金子哲夫の実弟。 今治南高では、エースとして甲子園に2回出場。2年生時の1964年には夏の甲子園北四国大会決勝で高松高を降し、夏の選手権に出場。1回戦で熊谷商工に延長12回敗退。同年秋季四国大会でも準決勝に進み、高知商の江本孟紀と投げ合い敗退。3位決定戦でも徳島商に敗れるが、高知商に野球部内不祥事があり、翌1965年春の選抜への出場を辞退。繰り上がりで春の選抜に出場する。しかし1回戦で大谷高に惜敗。 1965年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから9位指名を受けるも、近鉄が交渉権を放棄。
河野 義光(こうの よしみつ、1946年10月17日 - )… 河野 義光(こうの よしみつ、1946年10月17日 - )は、愛媛県出身の日本の柔道家。階級は軽中量級(70kg級)。 今治南高校2年の時にインターハイ軽量級で優勝すると、3年の時には中量級で優勝を飾った。1965年に日本大学へ進むと、1966年の全日本学生柔道優勝大会では2位となった。1967年に東京で開催されたユニバーシアードには団体戦に出場してチームの優勝に貢献した。1968年のソ連及びハンガリー遠征の際には活躍して、ハンガリー大会での個人戦中量級で優勝を果たした。全日本学生柔道選手権大会軽中量級では中央大学の津沢寿志に優勢負けして2位だった。1969年の世界選手権には軽中量級に出場して決勝まで進むが、金沢工業大学教員の湊谷弘に掬投で敗れて2位にとどまった。
菅 良二(かん りょうじ、1943年(昭和18年)8月27日… 菅 良二(かん りょうじ、1943年(昭和18年)8月27日 - )は、日本の政治家。愛媛県今治市長(3期)、愛媛県議会議員(2期)、大三島町長(2期)、大三島町議会議員(5期)等を務めた。 愛媛県今治市大三島町生まれ。愛媛県立今治南高等学校、第一薬科大学薬学部卒業。薬剤師免許を取得している。 製薬会社での勤務を経て、大三島に帰郷し薬局を開業。1977年、大三島町議会議員選挙に出馬し、初当選。以後5期連続当選。 5期目の任期途中で町議を辞職し、菅省三町長死去に伴い1996年に行われた大三島町長選挙に立候補し初当選。2000年の大三島町長選挙でも再選を果たした。 町長時代には伯方塩業の誘致実現やラントゥレーベン大三島(滞在型農園施設)の整備等を手がけた。
大沢一彦(おおざわ かずひこ、1940年5月10日 - )は… 大沢一彦(おおざわ かずひこ、1940年5月10日 - )は、日本の実業家。日本食研創業者・会長で、同社を含む日本食研グループ16社の最高経営責任者。 1940年、愛媛県今治市出身。愛媛県立今治南高等学校を経て、1963年東京農業大学卒業。 1971年10月、大沢一彦ら6名で、高松市にて畜産加工研究所として創業。1973年2月13日、株式会社畜産加工研究所設立。1975年2月、日本食研株式会社に商号変更。 異業種交流等も主宰。焼肉のたれ 宮殿のCMに出演。 2010年4月、藍綬褒章を受章。 2020年4月、今治市名誉市民の称号を授与される。 2023年4月、旭日小綬章受章。同年5月、食料産業特別貢献大賞受賞。
大原 敏夫(おおはら としお、1918年1月7日 - 193… 大原 敏夫(おおはら としお、1918年1月7日 - 1939年)は、愛媛県出身のプロ野球選手(捕手)。 愛媛県立越智中学校(現・愛媛県立今治南高等学校)在学時代は内野手だった。その後呉海軍工廠では捕手を務め、1937年に阪急軍に入団。 当時の阪急の捕手には倉本信護(ちなみに、彼とは呉海軍工廠でチームメイトだった)、島本義文がいて出場が難しいかと思われたが、デビュー戦となった1937年4月12日のイーグルス戦で、8番捕手として先発出場。2打数1安打1打点1盗塁と活躍し、2人の正捕手争いに割って入る事ができた。その後、倉本が名古屋軍へ移籍し、島本が持病の肩痛で出場機会が減少したことから、翌1938年に阪急の正捕手になった。
重松 通雄(しげまつ みちお、1916年9月16日 - 19… 重松 通雄(しげまつ みちお、1916年9月16日 - 1979年12月16日)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 NPBにおけるアンダースロー第1号ともいわれる。 越智中学校から広島県呉市の呉海軍工廠電気部に所属し、11チームあった同社の硬式野球部の電気部エースとして「オール呉」が編成されるといつも選抜された。また、1936年に創設された現行プロ野球に名乗りを上げたが、加盟は認められなかった名古屋市の球団「セントラル・シティ」に偽名で登録し、数試合投げていた。しかし、試合後に酒を飲んで警察に拘留された件で呉工廠への復帰が閉ざされ、先に阪急入りしていた倉本信護から阪急入団テストの話を聞いてテストに合格し、1936年に創立したばかりの阪急軍に入団すると、三宅大輔監督からアンダースローへの変更を言い渡される。