スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
岡田 正裕(おかだ まさひろ、1945年7月27日 - )は… 岡田 正裕(おかだ まさひろ、1945年7月27日 - )は、熊本県熊本市出身の元陸上競技選手・現指導者。専門は現役時・指導者ともに長距離走である。鎮西高等学校、亜細亜大学出身。 大学3年時には主将を務め、第43回箱根駅伝で母校を初出場に導く。同大会では9区を走り区間9位。チームは総合11位でシード権を逃した。4年時の第44回大会では3区を走り区間10位。チームは総合8位で初のシード権を獲得した。 1968年に地元食品メーカーのフンドーダイに就職。営業として社業に従事しながら陸上競技を継続。九州一周駅伝に10年連続出場し、33歳で現役を引退。 1986年から地元のスーパーマーケットチェーン・ニコニコドーに出向し女子陸上部を創設、監督に就任する。
脇坂 隆志(わきさか たかし、1945年6月30日 - )は… 脇坂 隆志(わきさか たかし、1945年6月30日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手。
岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は… 岡田 幸喜(おかだ ゆきよし、1942年11月5日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。
肥後 宗典(ひご むねのり、1942年4月30日 - 200… 肥後 宗典(ひご むねのり、1942年4月30日 - 2002年7月23日[要出典])は日本のプロレスラー。本名及び旧リングネームは本郷篤(ほんごう あつし)。 1969年2月、鎮西高等学校から国際プロレスへ入団。 同年4月27日、佐野東八を相手にデビュー(デビュー戦は6月16日の大剛鉄之助戦とする説もある)。国際時代は同郷のグレート草津の付き人も務めた。 1972年、全日本プロレスの旗揚げシリーズに参戦したのをきっかけに、ジャイアント馬場に請われる形で全日本へ移籍。この時、リングネームも本名由来のものから肥後宗典へと改名している。 1974年、オーストラリアへ3ヶ月間遠征。 帰国後は主に前座戦線で活躍したが、1980年4月、自らが起こした婦女暴行事件の影響で引退。
末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は… 末次 利光(すえつぐ としみつ、1942年3月2日 - )は、熊本県人吉市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。旧名は民夫(たみお、1974年に改名)。
木村 政彦(きむら まさひこ、1917年〈大正6年〉9月10… 木村 政彦(きむら まさひこ、1917年〈大正6年〉9月10日 - 1993年〈平成5年〉4月18日)は、日本の柔道家・プロレスラー。段位は講道館柔道七段。鬼の木村の異名を持つ。 全日本選手権13年連続保持、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、後々にも史上最強の柔道家と称されることが多い。身長170 cm、体重85 kgと小兵ながら、トレーニングにより鍛え抜かれた強靭な肉体、爆発的な瞬発力、得意技である切れ味鋭い大外刈りのスピードとパワー、高専柔道で身につけた寝技技術、またこれらを支える一日10時間を越える練習量と柔道に命を賭す強靭な精神力を武器に15年間不敗を成し遂げた。
池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)… 池尻 愼一(いけじり しんいち、1908年 - 1945年)はハンセン病を専門とした医師、作家。ハンセン病、ハンセン病患者と真剣に向かいあい、作品『傷める葦』は1年未満で30版を数えた。太平洋戦争で応召し、1945年1月ジャワで戦死した。ペンネームは邑楽 愼一(おおら しんいち)。陸軍軍医の最終階級は軍医中尉。 1908年、福岡県浮羽郡水縄村大字益生田(現・久留米市)生まれ。父・池尻久四郎は郡医師会長を務めた人物であったが、愼一の生母とは正式の結婚でなかったので、彼は一時ぐれた。福岡県中学明善校(福岡県立明善高等学校の前身)に入学していたが、2年後叔父を頼って熊本にいき、熊本の鎮西中学校(後の鎮西高等学校)を卒業した。
牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月… 牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 - 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。 熊本県熊本市の製油業者の家に生まれる。元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。熊本では講道館柔道よりも、まだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦は、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決するもので、時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。
河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979… 河津 寅雄(かわづ とらお、1902年3月1日 - 1979年2月2日)は、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)出身の政治家。 1948年(昭和23年)から死去する1979年(昭和52年)まで小国町長を務め、1963年(昭和38年)10月から1978年(昭和38年)10月まで8期15年間に渡って全国町村会長を務めた。町長時代には給与など一切の報酬を辞退した。また、1957年(昭和32年)から自由民主党熊本県連会長も務めた。 1902年(明治35年)3月1日、熊本県阿蘇郡北小国村(現・小国町)に生まれ、旧制鎮西中学校を卒業した。 生家は造り酒屋の河津酒造であり、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に小国町議会議員に就任すると、戦後の1948年(昭和23年)には小国町長に就任した。
吉永 浩二(よしなが こうじ)は熊本県出身の日本の柔道家。中… 吉永 浩二(よしなが こうじ)は熊本県出身の日本の柔道家。中量級の選手。 鎮西高校1年の時には早くもインターハイ団体戦で優勝を飾った。2年と3年の時は3位だった。また、3年の時は個人戦の重量級で3位に入った。 明治大学へ進学すると、1年の時から団体戦のレギュラーで活躍して優勝大会では2位になった。2年の時には新人体重別の重量級決勝で天理大学の奥田元則を破って優勝すると、優勝大会でも優勝を果たした。全日本学生選手権には中量級で出場するが、決勝で高校時代からのライバルだった明治大学では1学年下となる原吉実(吉永とは同じ年だが、浪人したために学年は1つ下となった)に合技で敗れた。3年の時には優勝大会で2連覇すると、体重別の中量級で3位になった。
福永 一臣 は、日本の政治家、実業家。位階は従三位。
秋本 勝則(あきもと かつのり)は熊本県牛深市出身の柔道選手… 秋本 勝則(あきもと かつのり)は熊本県牛深市出身の柔道選手である。1975年世界柔道選手権大会の軽中量級で銅メダル、1978年の嘉納治五郎杯東京国際柔道大会で優勝している。 牛深市立牛深中学校卒業後、柔道の名門である鎮西高等学校、拓殖大学に進学、当時の拓殖大学柔道部監督は木村政彦。現役時代の階級は軽中量級(65kg級)。現在は熊本県宇城市(旧下益城郡松橋町)で秋本整骨院を経営している。 バロン吉元作「現代柔侠伝」の主人公柳勘一のモデルといわれており、柔道の強さに反して人情味溢れる物腰の柔らかい人柄で、慕う大学の後輩も多い。 長男の秋本修平(鎮西高校・中央大学出身、元了徳寺学園職)は1999年インターハイ73kg級2位・全日本ジュニア柔道体重別選手権大会1999年73kg級優勝・2000年66kg級2位、次男の秋本啓之(桐蔭学園高等学校/筑波大学出身、了徳寺学園職)は2007年のフランス国際柔道優勝、2010年世界柔道選手権大会で金メダルを獲得し史上初の親子メダリストとなった。