スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
江石 清行(えいし きよゆき、1956年11月 - )は、日… 江石 清行(えいし きよゆき、1956年11月 - )は、日本の医師。長崎大学医学部心臓血管外科教授。医学博士。日本胸部外科学会指導医、日本外科学会指導医。 長崎市長射殺事件の際に、大学病院に搬送された長崎市長伊藤一長(当時)の緊急手術を担当した。 弁形成術、顕微鏡下冠動脈バイパス術、心拍動下冠動脈バイパス術、低侵襲人工心肺システム、人工弁置換術の専門家。弁形成術の日本における第一人者の一人。
林 明人(はやし あきと、1956年 - )は、日本の医師・… 林 明人(はやし あきと、1956年 - )は、日本の医師・医学博士。 鹿児島県国分市(現・霧島市)生まれ。鶴丸高校から順天堂大学に進む。米国ウィスコンシン州立大学准教授、筑波大学講師を経て、順天堂大学医学部教授。専門はリハビリテーション医学(順天堂大学浦安病院教授)、脳神経内科(順天堂医院教授併任)。日本運動障害研究会会長。学生時代に全日本医科学生剣道大会団体優勝。医師となり全日本医師剣道大会団体優勝。全剣連強化訓練帯同医師。茨城国体大将の部強化選手。 つくば市自燈剣道スポーツ少年団指導者。順天堂大学剣道部OBOG会長。全日本医師剣道連盟事務局長。
角 秀秋(かど ひであき、1951年 - )は、日本の心臓血… 角 秀秋(かど ひであき、1951年 - )は、日本の心臓血管外科医。福岡市立こども病院副院長、九州大学医学部心臓血管外科臨床教授などを歴任。2022年より令和健康科学大学特任教授。 鹿児島県川辺郡川辺町(現:南九州市)生まれ。鹿児島県立鶴丸高等学校、九州大学医学部卒業。 福岡市立こども病において1980年創立当初から同院の心臓血管外科診療に従し、1985年同院部長、2011年から同院副院、2022年同院定年退職。福岡市立こども病院在任中、6000件件以上の小児心臓手術執刀する。日本小児循環器学会副理事長、第47回日本小児循環器学会会長(2011年、福岡市)、日本小児心臓外科医会(CHSS Japan)代表世話人、小児心臓手術手技研究会代表世話人などを歴任。
浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968… 浜田 到(はまだ いたる、1918年6月19日 - 1968年4月30日)は、日本の歌人、詩人、医師。ロサンゼルス出身。 1912年、農園を経営していた両親が移住していたロサンゼルスに生まれ、4歳のとき帰国。両親の出身地である鹿児島県国分市(現・霧島市)に育つ。鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)在学中に短歌を始め、旧制姫路高等学校、旧制岡山医科大学を卒業。 1935年に、一中の教員であった安田尚義が主宰する潮音系短歌雑誌『山茶花』に短歌作品を発表。異色ある作品として注目される。以後、『歌宴』『工人』を経由。 1944年に岡山医科大学卒業後、鹿児島市内の済生会病院に勤務(内科医)。 1951年、中井英夫に見出され『短歌研究』8月号の「モダニズム短歌特集」に塚本邦雄らとともに寄稿、1960年には塚本邦雄、寺山修司、山中智恵子、菱川善夫らとともに同人誌「極」に参加。
黒丸 正四郎(くろまる しょうしろう、1915年4月6日 -… 黒丸 正四郎(くろまる しょうしろう、1915年4月6日 - 2003年11月6日)は、日本の医学者、精神科医。神戸大学名誉教授。 鹿児島県出身。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)を経て、1935年第七高等学校造士館 (旧制)卒業。京都帝国大学医学部卒。1948年医学博士。大阪市立大学医学部助教授、神戸医科大学助教授、1959年同教授、1966年神戸大学教授、1980年定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授、1986年退任。精神神経科学。 1988年、勲三等旭日中綬章を受章。2003年11月6日、肺炎のため死去。
山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 … 山下 秀之助(やました ひでのすけ、1897年11月29日 - 1974年4月4日)は、日本の医師・歌人。短歌雑誌『創作』の若山牧水、『潮音』の太田水穂に師事し、吉植庄亮主宰の『橄欖』を経て、1946年『原始林』(第2次)を札幌市で創刊。北海道の歌壇の基礎を築いた一人と評価され、戦前・戦後の北海道文壇・歌壇の指導的な存在であった。 1897年(明治30年)11月29日、鹿児島県鹿児島市東千石町に生まれる。鹿児島第一中学校、第七高等学校造士館を経て、1922年(大正11年)東京帝国大学医学部を卒業。同年5月、北海道帝国大学医学部助手として北海道に移る。北大医学部講師、小樽病院を経て、移住四年後の1926年(大正15年)から国鉄傘下の札幌鉄道病院(現在のJR札幌病院)に勤務。
寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月… 寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日 - 1964年(昭和39年)8月13日)は、日本の医師。陸軍軍医中将。日本初の衛生飛行機を作成したことで知られる。 1882年(明治15年)、士族の漢方医伊東楽之助の次男として鹿児島県日置郡日置村(現日置市日吉町日置)に生まれる。満5歳の時に同じく士族である寺師清の養子となり寺師家を継いだ。寺師家では医師が多数いたため義信も医師に成ることを望まれたが、義信は漢詩や文筆を好み小説家を志向していた。鹿児島一中に進み、在学時に森鷗外の『水沫集』の影響を受け地方新聞に小説の連載を持っていた。実父の楽之助から何としても医者になるよう命じられたため義信は思い悩んでいたが、一中の岩崎行親校長から「鴎外先生は大文豪であると共に優れた医学者だ。