スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
一色 湊(いっしき みなと、1993年7月20日 - )は、… 一色 湊(いっしき みなと、1993年7月20日 - )は、日本の俳優、モデル、カフェ経営。沖縄県宮古島市出身。 大学4年時に芸能活動を開始。卒業後に関西の情報番組リポーターやバラエティー番組のサブMCとして活躍後、フリーに。俳優・モデルとしても活動の場を広げ、2020年「仮面ライダーゼロワン」での新屋敷達己役として注目を集めた。2020年7月に六本木にカフェ・ダイニングバー「WONDERFUL LIFE」をオープンし、オーナーを務める。 沖縄県立宮古高等学校から岡山のIPU環太平洋大学に進学。サッカー部では4年連続全国大会出場。 小学校、中学・高等学校(保健体育)教員免許取得。趣味はサッカー、キックボクシング、お菓子作り この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。
石垣 航平(いしがき こうへい、1993年6月25日 - )… 石垣 航平(いしがき こうへい、1993年6月25日 - )は、ジャパンラグビーリーグワン日本製鉄釜石シーウェイブスに所属するラグビー選手。 ラグビーを始めたきっかけは高校の先生に誘われたことから。 2012年、宮古高校卒業後、帝京大学に入る。 2016年、帝京大学卒業後、コカ・コーラレッドスパークスに加入。同年9月10日に行われたジャパンラグビートップリーグ第3節の神戸製鋼コベルコスティーラーズ戦にて先発出場で公式戦初出場を果たす。 2021年、宗像サニックスブルースに加入。 2022年、釜石シーウェイブス(現・日本製鉄釜石シーウェイブス)に加入。
上里 琢文(うえさと たくみ、1990年4月29日 - )は… 上里 琢文(うえさと たくみ、1990年4月29日 - )は、沖縄県宮古島市(旧平良市)出身の元プロサッカー選手、ビーチサッカー選手。サッカーでのポジションはフォワード。 父親が小学校のバスケットボール指導者だったこともあり物心ついたころから兄弟揃ってバスケットボールに熱中していたが、幼稚園に体験したサッカー教室がきっかけとなり、サッカーも始める。小学校6年生からサッカーに専念する。 高校進学時には県外の強豪校からも誘いがあったものの、地元の沖縄県立宮古高等学校に進学。 同校では1年時から活躍し、第61回国民体育大会に沖縄県代表として出場。県勢の初優勝に貢献する。3年時には複数のクラブが獲得に動く中、2年時に練習参加をしていた京都サンガF.C.に入団。
与那嶺 恭兵(よなみね きょうへい、1987年8月15日 -… 与那嶺 恭兵(よなみね きょうへい、1987年8月15日 - )は、日本の陸上競技長距離選手。琉球物流所属。 沖縄県平良市(現、宮古島市)出身。宮古高等学校を経て東海大学卒業。その後、沖縄で活動。 高校1年次の沖縄県陸上競技選手権大会で3000m少年Bで優勝。 東海大学体育学部競技スポーツ学科へ入学。佐藤悠基は1つ先輩にあたる。3年次、4年次に関東インカレ1500m出場。3年次の箱根駅伝は6区の補欠。4年次の箱根駅伝は7区を出走。21.3kmを1時間6分39秒で区間12位。都道府県駅伝は2年連続で沖縄県のアンカー。 長距離種目における実業団がない沖縄県を拠点に活動を続け、県内で数多く開催されているローカル大会に、アラタプロジェクトメンバーとして大会に出場し、沖縄の長距離競技レベル向上のため競技やPR活動を続けている。
上里 一将(うえさと かずまさ、1986年3月13日 - )… 上里 一将(うえさと かずまさ、1986年3月13日 - )は、沖縄県宮古島市(旧平良市)出身の元プロサッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー(MF)。宮古島及び宮古高等学校出身で初のプロサッカー選手。 小学1年生(6歳)の時に友人の誘いでサッカーを始め、3年生から本格的に打ち込むようになる。当時は身長に恵まれず、中学校入学時点で138cmしかなかった事もあって所属チームの練習後に1人居残り左足の技術を徹底的に磨き続けた。中学校卒業後は地元の高校で、上里の中学3年生次に全国高等学校サッカー選手権大会への初出場を果たした沖縄県立宮古高等学校に進学。高校の3年間で全国大会の出場は適わず、個人としても代表や選抜に招集された経験もなかった為に全国的には無名の存在だったが、当時から攻撃的な中盤の選手としてボールコントロールには定評があり、その才能を評価したJ2のコンサドーレ札幌より誘いを受け、2003年11月22日に同クラブより上里の獲得が発表された。
島袋 脩(しまぶくろ おさむ、1982年6月21日 - )は… 島袋 脩(しまぶくろ おさむ、1982年6月21日 - )は、沖縄県宮古郡多良間村出身の元プロバスケットボール選手である。。日本男子プロバスケットボールリーグbjリーグの大分ヒートデビルズに所属していた。当時のポジションはシューティングガード、スモールフォワード。 身体能力が高く、運動量豊富でガッツ溢れるプレーが特長。 バスケットボールを始めたのは遅く、多良間中学校を卒業して、宮古高校に入学してから始める。(15歳の時)。高校を卒業後は、天理大学に進学。大学時代はセンターとしてプレーしていた。センターとしては低身長ながらも、抜群の跳躍力でリバウンドをもぎ取って活躍。2004年に開催された関西学生選手権大会ではチームの準優勝に貢献し、優秀選手賞を受賞。
島尻 政明(しまじり まさあき、1980年3月30日 - )… 島尻 政明(しまじり まさあき、1980年3月30日 - )は、沖縄県平良市(現宮古島市)出身の空手選手。極真空手弐段。一般社団法人極真会館(全日本極真連合会)所属。NPO法人極真会館沖縄県支部指導員。 全日本ウエイト制空手道選手権大会 全日本空手道選手権大会 極真連合杯世界空手道選手権大会 極真連合杯ワールドカップ空手道選手権大会
垣花 正(かきはな ただし、1972年〈昭和47年〉1月1日… 垣花 正(かきはな ただし、1972年〈昭和47年〉1月1日 - ) は、日本のフリーアナウンサー。妻は声優の西田裕美。身長177cm。 名前の「正(ただし)」は、正月生まれであることから。愛称は「カッキー」。『垣花正のオールナイトニッポン』を経て、1995年11月から放送した『ゲルゲットショッキングセンター』のアシスタントを「LF COOL K」(通称クールK、LL Cool Jに由来)のマイクネームで担当し、髪型もモヒカンにするなど奇抜な格好で出演し、中高生などから絶大な支持を得た。1999年3月の番組終了後も、半年後の9月まで夜帯の番組で「LFクールK」のマイクネームを使い続けた。2003年から『垣花正のニュースわかんない!?』のパーソナリティを担当して森永卓郎と共演し、2005年4月以降は放送枠を平日の早朝に移して、森永とともに『森永卓郎 朝はニッポン一番ノリ!』『森永卓郎と垣花正の朝はニッポン一番ノリ!』のパーソナリティを務めた。
下地イサム(しもじ いさむ、1969年10月8日 - )は、… 下地イサム(しもじ いさむ、1969年10月8日 - )は、沖縄県宮古島市出身のシンガーソングライター。本名および旧アーティスト名は下地勇。ミャークフツ(宮古口)の歌詞を、ブルースを始めとしてレゲエ・フォルクローレなどの幅広いジャンルの音楽にのせて歌う。2002年8月にリリースされたシングル「我達が生まり島」(ばんたがんまりずま)は、3か月で7000枚を超すセールスを記録した。同年12月のアルバム「天〜tin〜」のセールスも1万枚を超えた。近年[いつ?]では、地元放送局でラジオ番組も持っている。 2012年にデビュー10周年を迎え、青森を皮切りにソロまたはバンドスタイルにてツアーを開始し、故郷の宮古島では2000人の観客を動員した。
嘉数 登(かかず のぼる、1963年〈昭和38年〉8月28日… 嘉数 登(かかず のぼる、1963年〈昭和38年〉8月28日 - )は、日本の政治家。沖縄県宮古島市長(1期)。元宮古島市副市長(2期)。 1963年(昭和38年)、宮古島市生まれ。平良市立西城小学校、平良市立平良中学校、沖縄県立宮古高等学校を経て、日本福祉大学社会福祉科卒業。 1989年(平成元年)沖縄県事務吏員採用となり、2014年(平成26年)沖縄県企画部交通政策課長、2015年(平成27年)沖縄県総務部人事課長、2017年(平成29年)沖縄県企画部企画振興統括監、2019年(平成31年)沖縄県商工労働部長、2022年(令和4年)沖縄県知事公室長、2023年(令和5年)宮古島市副市長経て、2025年(令和7年)宮古島市市長選挙に現職の座喜味一幸ら5人を破り初当選した。
下地 幹郎(しもじ みきお、1961年〈昭和36年〉8月14… 下地 幹郎(しもじ みきお、1961年〈昭和36年〉8月14日 - )は、日本の実業家、政治家。久米島オーシャンジェット会長。 衆議院議員(6期)、沖縄開発政務次官(小渕内閣・小渕第1次改造内閣)、経済産業大臣政務官(第1次小泉内閣)、内閣府特命担当大臣<防災・郵政民営化担当>(野田第3次改造内閣)、政治団体「無所属 創造」代表、国民新党国会対策委員長(第3代)、同政務調査会長(第3代)、同選挙対策本部長(初代)、同幹事長(第3代)兼代表代行、日本維新の会非常任役員、同国会議員団副代表、同政務調査会長、同国会議員団副代表兼選対本部長等を歴任。 父は大米建設の創業者であり、元沖縄県平良市長の下地米一。
下地 暁(しもじ さとる、1957年 - )は、沖縄県宮古島… 下地 暁(しもじ さとる、1957年 - )は、沖縄県宮古島市城辺出身のシンガーソングライター。 1992年、宮古島市の沖縄県立宮古高等学校卒業後に東京にて音楽活動をしていたが、島の言葉「宮古方言」を歌で次世代に繋げることができないかと考え故郷宮古島に活動拠点を移した。以来2013年現在、宮古島の音楽を宮古島から世界へ向けての発信活動21年目となる。「宮古方言」はユネスコにより消滅危機にあると認定されている言語の一つである。 創作活動では、アルバム「オトーリ」を初めとし、2010年8月に携帯着うたサイトの「沖縄ちゅらサウンズ」で10週連続1位を記録した「宮古まもる君のうた」、Goh Hotoda(ゴウ・ホトダ)プロデュースによる最新アルバム「Myahk」まで70以上の作品を発表している。
友鵬 勝尊(ゆうほう まさたか、1956年12月5日 - 2… 友鵬 勝尊(ゆうほう まさたか、1956年12月5日 - 2017年9月8日)は、沖縄県宮古島市(旧・平良市)出身で大鵬部屋に所属した大相撲力士。引退後は大鵬部屋を経て大嶽部屋に所属し、日本相撲協会の世話人を務めていた。本名は長崎 勝。最高位は西幕下筆頭(1987年1月場所)。得意技は押し。 沖縄県立宮古高等学校で柔道を始め、沖縄県の新人戦で3位に入った。準決勝で対戦した相手の父親が大鵬部屋大阪後援会と知り合いだった縁で、1975年2月に大鵬が自ら宮古島までスカウトに来た。上京して一旗揚げたい気持ちが強まり、大鵬部屋に入門、高校は中退した。 1975年5月場所に「宮古島」の四股名で初土俵を踏む。
伊良皆 光夫(いらみな みつお、1955年〈昭和30年〉5月… 伊良皆 光夫(いらみな みつお、1955年〈昭和30年〉5月25日 - )は、日本の政治家。沖縄県多良間村長(第29 - 32代)。 米国施政下にあった沖縄の宮古郡多良間村塩川出身。沖縄県立宮古高等学校を経て、琉球大学短期大学部法経学科を卒業。1979年(昭和54年)12月、宮古郡農業協同組合に入組。同組合金融課長、沖縄県農業協同組合多良間支店金融共済課長などを歴任。 2005年(平成17年)7月、多良間村助役に就任。 2007年(平成19年)4月、多良間村副村長に就任。2012年(平成24年)10月まで務めた。 2013年(平成25年)5月11日、多良間村長選挙への出馬を表明。同年6月16日に投開票され、3選を目指した現職の下地昌明を破り初当選。
座喜味 一幸 (ざきみ かずゆき、1949年(昭和24年)1… 座喜味 一幸 (ざきみ かずゆき、1949年(昭和24年)12月15日 - )は、日本の政治家。第3代宮古島市長(1期)。元沖縄県議会議員(3期)。 1949年、アメリカ統治下の沖縄(宮古民政府)平良市(現・沖縄県宮古島市平良字西仲宗根)に生まれる。平良市立北小学校(現・宮古島市立北小学校)、平良市立平良中学校(現・宮古島市立平良中学校)、琉球政府立宮古高等学校(現・沖縄県立宮古高等学校)卒業。1972年、琉球大学農学部卒業。同年、沖縄の本土復帰(沖縄返還)に伴い設置された沖縄総合事務局に入局。 1995年、宮古土地改良区事務局長就任。 2008年、沖縄県議会議員選挙に自由民主党公認で立候補し初当選。
下地 敏彦(しもじ としひこ、1945年(昭和20年)12月… 下地 敏彦(しもじ としひこ、1945年(昭和20年)12月10日 - )は、日本の政治家。元沖縄県宮古島市長(3期)。2015年8月、沖縄の保守系市長の会「チーム沖縄」を立ち上げ、その会長に就任した。落選後の2021年5月、陸上自衛隊駐屯地の用地売却を巡る贈収賄事件で逮捕された。 沖縄県宮古郡平良町(現宮古島市平良)生まれ。沖縄県立宮古高等学校、琉球大学理工学部生物学科卒業。 沖縄県宮古支庁長や旧城辺町助役を務めた。 2002年、平良市長選挙に出馬するも、現職の伊志嶺亮に敗れ、落選。2005年11月、市町村合併に伴い誕生した宮古島市の市長選に出馬したが、再び伊志嶺に413票差で敗れる。2006年6月より沖縄県漁業協同組合連合会会長を務めた。
与儀 達敏(よぎ たつびん、與儀 達敏、1901年5月19日… 与儀 達敏(よぎ たつびん、與儀 達敏、1901年5月19日 - 1965年2月25日)は、宮古民政府及び琉球政府の政治家。1956年4月から1958年3月まで立法院議長を務めた。沖縄県宮古郡下地村(現宮古島市)出身。 明治34年(1901年)5月19日生まれ。昭和4年(1929年)に東洋大学専門部倫理科を卒業し、地元の沖縄県立宮古中学校(現沖縄県立宮古高等学校)の教諭となり、教職に就いた。 沖縄戦後は、宮古民政府の副知事に就任した。1952年の第1回立法院議員総選挙に当選し立法院議員となった。 そして、比嘉秀平とともに新党結成に奔走し、「琉球民主党(後の沖縄自由民主党)」を立ち上げた。 行政主席の比嘉秀平の下で行政副主席を務めた後、立法院議長に選ばれた。