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松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(… 松本 文三郎(まつもと ぶんざぶろう、1869年6月16日(明治2年5月7日) - 1944年12月18日)は、仏教学者。インド哲学、インド文化・仏教美術史学者。号は亡洋。京都帝国大学名誉教授。インド哲学の泰斗として知られ、仏教芸術に関しても多くの論文を発表した。 1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。 1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた。1899年、ドイツに留学。同年、文学博士号を取得。 第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり、同大学インド哲学史教授に就任。
岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月1… 岩元 禎(いわもと てい、明治2年5月3日(1869年6月12日) - 昭和16年(1941年)7月14日)は、日本の哲学者。 鹿児島県鹿児島市山下町生まれ。士族岩元基の長男。1889年に鹿児島高等中学造士館予科を第1期生として卒業後、第一高等中学校(第一高等学校の前身)本科に進学。1891年に卒業し、東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)に進んだ。哲学科で学び、ラファエル・フォン・ケーベルに師事。1894年に卒業し、同大学大学院に進学。大学院に在籍して哲学研究を進める一方、浄土宗高等学院(現在の大正大学)でドイツ語と哲学を、高等師範学校で哲学を教えた。 1899年からは第一高等学校でドイツ語を教えた。
丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868… 丘 浅次郎(おか あさじろう、明治元年11月18日(1868年12月31日) - 昭和19年(1944年)5月2日)は、日本の動物学者。高等師範学校教授を歴任。 1868年、遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。大坂英語学校に入学し抜群の成績を修め、その後に旧制第一高等学校の前身である東京大学予備門に入学するも、歴史科目のみ成績が極端に悪く、2年続けて落第したため退学処分となった。このため大学の正規課程への入学資格を持たず、1886年帝国大学理科大学動物学科選科に入学した。1891年から3年間ドイツに留学し、フライブルク大学でアウグスト・ヴァイスマンに、またライプツィヒ大学でカール・ロイカルトに師事。
安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年… 安田 篤(やすだ あつし、1868年9月8日 - 1924年5月12日)は、日本の菌類学者である。 東京の旗本の家に生まれた。府立一中から第一高等学校を経て、東京帝国大学植物学科に入学した。松村任三、三好学の指導を受け、菌類の生理学を学んだ。1897年、第二高等学校(東北大学)の講師となり、同年教授となった。蘚苔類、地衣類、菌類の研究を行った。樹木の病害を起こす原因菌の研究も行い、記載した菌類には、Thelephora japonica Yasuda(イボタケ)、Mycoleptodonoides pergamenea (Yasuda) Aoshima & H.Furuk(ブナハリタケ)、Trametes orientalis (Yasuda) Imazeki(クジラタケ)、などがある。
高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年… 高橋 作衛(たかはし さくえ、1867年11月5日(慶応3年10月10日)- 1920年(大正9年)9月12日)は、日本の法学者・政治家。専門は国際法。学位は、法学博士。東京帝国大学名誉教授。帝国学士院会員、貴族院議員、法制局長官。 信濃国高遠藩儒で、維新後に長野県立長野中学教諭となった高橋白山の長男として肥前国(長崎県)に生まれる。第一高等学校を経て、1894年9月、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。海軍教授となり、日清戦争に際し常備艦隊司令長官付の幕僚(法律顧問)、さらに旅順口根拠地司令長官付(通訳)に異動。1895年5月、海軍大学校勤務となり1896年3月まで務めた。1897年9月から英仏独に留学。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(186… 服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3年4月30日(1867年6月2日) - 昭和14年(1939年)7月11日)は、日本の中国学者。近代的な中国哲学研究の開拓者の一人。東京帝国大学教授、京城帝国大学総長、國學院大學学長、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。現福島県二本松市出身。 1867年、陸奥国の二本松藩士の三男として生まれる。幼時に生母が早世し、戊辰戦争での父の戦死や自身の右眼失明など苦労を重ねた。1873年、養父の叔父一家と東京に移住、麻布小学校、共立学校に学ぶ。 1883年、大学予備門(後に第一高等学校)入学。1887年、第一高等学校卒業、帝国大学文科大学(後に東大文学部)入学。
原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶… 原 嘉道(はら よしみち(かどう)、1867年3月23日〈慶応3年2月18日〉- 1944年〈昭和19年〉8月7日)は、日本の官僚、弁護士、法学者、政治家。男爵、法学博士。帝国弁護士会名誉会員。第9代中央大学学長。 田中義一内閣の司法大臣や太平洋戦争開戦当時の枢密院議長を歴任した。 1867年3月23日信濃国高井郡小山村(現在の長野県須坂市小山)に原茂作の長男として生まれる。幼名は亀太郎。父は旧須坂藩の足軽小頭を務めたが、もともとは原虎胤の末裔を称する庄屋格の農家の出である。明治維新で秩禄処分後も、農家だったのでさほど生活苦を味わわずに済んだ。 大学予備門を経て、旧制第一高等学校、1890年(明治23年)帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)英法学部を首席で卒業する。
赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(… 赤沼 金三郎(あかぬま きんざぶろう、1865年7月22日(慶応元年5月30日) - 1900年(明治33年)11月5日)は明治時代の教育者、軍人、倫理学者。字は士朗、号は天心狂史、枕戟学人。死去時の地位は第一高等学校講師・陸軍歩兵中尉・従七位勲六等・文学士。 信濃国諏訪藩に生まれ、地元長野県諏訪郡で小学校教師を勤めた後、上京して第一高等中学校で語学、哲学を学び、寄宿寮で学生自治を主導した。日清戦争に参戦した後、東京帝国大学を卒業し、比較倫理学研究に着手したが、志半ばで死去した。 1865年(慶応元年)、信濃国諏訪郡高島城下において諏訪藩士赤沼豊亭と母の山田氏との間に生まれた。赤沼氏は代々諏訪藩に仕え、曽祖父豊綢、祖父豊肄と学問に通じたが、父豊亭中甫は幼少の内に両親を失い困窮し、田畑や家財を売り払ったが、代々伝わる蔵書は家に残され、読書の必要性を教えられた。
宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応… 宮入 慶之助(みやいり けいのすけ、1865年6月8日〈慶応元年5月15日〉 - 1946年〈昭和21年〉4月6日)は日本の寄生虫学者、衛生学者。九州帝国大学教授。 信濃国更級郡西寺尾村(現・長野市松代町西寺尾)に松代藩士祐筆の宮入敬長の三男として生まれる。1890年東京帝国大学医科大学を卒業。1895年第一高等学校教授。1900年、内務技師として日本薬局方調査会の幹事を務め、1902年、ドイツのフリードリヒ・レフラー教授の下へ留学する。 帰国後1904年に京都帝国大学福岡医科大学(現・九州大学医学部)衛生学の初代教授に就任し、翌年医学博士の学位を得る。1912年九州帝国大学医学部衛生学第一講座担任に就任。
浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5… 浅田 栄次(あさだ えいじ、慶応元年4月28日(1865年5月22日) - 大正3年(1914年)11月10日)は、日本の英語学者、エスペランティスト、聖書学者。 徳山藩の家に生まれ、京都中学校を1883年7月に同校を優等賞にて卒業。その後、上京し、東京英和学校(現:青山学院)を経て、1886年に工部大学校予科を優等賞にて卒業。学制改革に伴い、第一高等学校を経て、帝国大学理科大学(現:東京大学理学部)へ進学。キリスト教に対する信仰心の高まりもあり、中退後に渡米しノースウェスタン大学にて神学と言語学を学ぶ。1893年、シカゴ大学にて第一号となる博士号を取得した(博士論文:旧約聖書ゼカリヤ書(第1章 - 第8章)の原典比較研究)。
古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治… 古屋 恒次郎(ふるや つねじろう、1864年9月28日(元治元年8月28日) - 1912年(大正元年)10月25日)は、日本の薬学者、教育家。薬学博士。千葉医学専門学校教授。正五位勲五等。 石川県士族・古屋安左衛門の二男。1890年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業して薬学士の称号を得た。医科大学助手となった。京都府医学校教諭に任じ1897年12月、第一高等学校教授に任じ正七位に叙せられた。1912年9月、薬学博士の学位を授与された。住所は東京市本郷区駒込西片町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久… 山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年(昭和20年)3月4日)は、明治時代から大正時代にかけての日本の物理学者、官僚。理学博士。 出雲国(現・島根県)松江に、松江藩士・山口軍兵衛礼行(知行は200石)の三男として生まれる。1884年、東京大学理学部物理学科を卒業。 東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。 その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。
久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11… 久原 躬弦(くはら みつる、1856年1月5日〈安政2年11月28日〉 - 1919年〈大正8年〉11月21日)は明治時代から大正時代にかけての日本の化学者。理学博士。 東京大学理学部・医学部教授、第一高等学校校長、東京化学会(後の日本化学会)会長、京都帝国大学理工科大学長、京都帝国大学総長。帝国学士院会員。専門は有機化学。業績にベックマン転位の研究など。 1855年(安政2年)、代々津山藩の藩医を勤める久原家の9代・宗甫の息子として現在の津山市に生まれた。なお躬弦は化学者になったが、弟が医師となって父の後を継いでいる。津山藩の藩校で漢文や数学を、1868年(明治元年)からは箕作麟祥の塾で英語を学んだ後、1870年(明治3年)に全国から集められた貢進生の一人として大学南校(後の東京大学)に入学した。
加藤 政司郎(かとう せいしろう / まさしろう、生没年不詳… 加藤 政司郎(かとう せいしろう / まさしろう、生没年不詳)は、大正から昭和期の教育者、翻訳家、編集者、軍事史学者。東京高等師範学校(現・筑波大学)で教え、アメリカの教科書を纂訳し出版したほか、軍事史学の翻訳書なども著した。 千葉県平郡、後の安房郡平群村(現南房総市)で生まれた。東京・築地の立教学校(現・立教大学)に入学し、英文学を修学する。第一高等学校大学予科を経て 1903年(明治36年)7月、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。その後、大学院に進み1914年(大正3年)4月、東京高等師範学校(現・筑波大学)教諭を務めた。 その後、翻訳家になり、大正期には、松宮春一郎(世界文庫刊行会主宰者、後の中央大学事務部長)と活動をともにして、水野葉舟とアメリカの教科書を纂訳し刊行したほか、複数の軍事史学の翻訳書を著す。
張 耀曽(ちょう ようそ)は中華民国の政治家・法学者。中国同… 張 耀曽(ちょう ようそ)は中華民国の政治家・法学者。中国同盟会に属した革命派の人物で、後に北京政府の要人となった。字は鎔西。ペー族(白族)。 公立京師大学堂(北京大学の前身)を卒業した後に日本に留学した。第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学する。この間に中国同盟会に加入し、雑誌『雲南』の創刊に参加した。 辛亥革命が勃発すると、張耀曽は学業の途中で帰国する。帰国後は革命派の雲南代表として中華民国臨時約法の起草に参与した。臨時参議院が成立すると、議員兼法制委員長に任ぜられている。1912年(民国元年)、国民党に加入した。翌1913年(民国2年)には国会衆議院議員となり、後に憲法起草委員会委員となった。