スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 19… 佐々木 巌夫(ささき いわお、1907年12月3日 - 1971年12月3日)は、日本の柔道家(講道館9段)、実業家。旧姓笠原。 学生時代に全国中等学校柔道大会や明治神宮大会柔道競技で優勝等の成績を残し、特に早稲田大学在学中には学生柔道界の花形としてその勇名を轟かせ全日本選士権大会も獲得。卒業後は古河鉱業に就職し、営業部長や資材部長、炭鉱所長、監査役、顧問等を歴任し、実業家として活躍した。 栃木県宇都宮市で医師を務める笠原家10人兄弟の5男として東京都世田谷区の奥沢に生まれ、少年期より栃木県で育った。兄3人が旧制宇都宮中学校(現・県立宇都宮高校)から旧制第四高校へ進んだ柔道選手であったほか、姉2人の夫も旧制第四高校の柔道選手であった関係で、笠原も物心が付いた頃には家の中の十畳間で兄達が乱取を行うのを見て育つなど、既に柔道が身近な存在となっていた。
鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月2… 鈴木 万平(すずき まんぺい、1903年(明治36年)7月20日 - 1975年(昭和50年)12月3日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(2期)。 静岡県静岡市で生まれる。静岡県立静岡中学校を経て第四高等学校を卒業。1925年(大正14年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業した。 日本セメント(現太平洋セメント)に入社。1928年(昭和3年)東洋紡績(現東洋紡)に転じ、常務を経て1945年(昭和20年)社長に就任。1946年(昭和21年)社長を辞して東洋冷蔵を経営した。 1949年(昭和24年)望まれて三共第4代社長に就任し、人員整理と品種制限により経営を再建した。
渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1… 渡辺 俊平(わたなべ しゅんぺい、1901年(明治34年)1月19日 - 1972年(昭和47年)11月28日)は、日本の科学者・教育者・実業家。ホトフィニ株式会社(現在の株式会社JPF)創設者。日本大学芸術学部長を務めた。 現在の東京都文京区に、父・三平と母・勝の長男として生まれる。明化小学校、豊島師範付属小学校、開成中学校、官立旧制第四高等学校を経て、東京大学工学部造兵学科を卒業し、1925年(大正14年)、財団法人理化学研究所に入所した。 理化学研究所に入所した渡辺は、理化学研究所3代目所長を務めた大河内正敏の研究室に所属し、工学士としての長年に亘る研究生活を経て、独自の多面積式録音方式および自動現像方式を発明した。
白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月2… 白川 一雄(しらかわ かずお、1898年(明治31年)3月25日 - 1957年(昭和32年)5月14日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)。 香川県、のちの丸亀市で、白川友一の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科を卒業した。 父の事業に携わり白川保善社専務取締役を経て、1930年(昭和5)同社長に就任。1931年(昭和6年)12月、名古屋市の三引陶器(株)の経営再建に携わり業績を回復し、1932年(昭和7年)12月、社名を白川製陶に改称して社長に就任。日本興業銀行からの要請で、合板発明家の浅野吉次郎が創業した名古屋合板(株)の経営を1932年(昭和7年)7月から引き継ぎ社長に就任した。
時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月2… 時國 益夫(ときくに ますお、1893年(明治26年)3月23日 - 1989年(平成元年)9月1日)は、日本の実業家、技術者。キリンビール代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 第四高等学校を経て、1917年東京帝国大学工学部応用化学科卒業、キリンビール入社。1933年仙台工場長。1940年取締役。1942年取締役横浜工場長。1943年監査役。1946年監査役兼企業部長。1951年取締役。1953年常務取締役。1956年常務取締役製造部長。1958年専務取締役。1966年から代表取締役社長を務め、創業家として長年君臨した磯野長蔵亡きあとの経営を担い、ラガービールの品質本位路線などを進めた。
清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1… 清水 良策(しみず りょうさく、1893年2月27日 - 1989年9月7日)は、日本の内務官僚、実業家。県知事、川崎重工業取締役。 現在の石川県七尾市出身。清水栄蔵の二男として生まれる。第四高等学校を経て、1916年、京都帝国大学法科大学政治科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り京都府属となる。 以後、京都府理事官、栃木県学務部長、内務事務官、内務省土木局道路課長、同港湾課長、静岡県書記官・内務部長などを歴任。 1932年6月、和歌山県知事に就任。1934年11月に退任し、満州国民政部総務司長に転じた。1936年6月、徳島県知事となり、次いで、宮城県知事に異動。1940年4月、宮城県知事を辞任して退官し、川崎重工業取締役に就任し、1946年まで在任。
山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6… 山田 紹之助(やまだ つぐのすけ、1889年〈明治22年〉6月12日 - 没年不明)は、日本の実業家、工学者。北海道帝国大学教授。阜新製作所社長。満州炭鉱理事。衆議院議員山田喜之助の長男。 東京府の弁護士・山田喜之助の長男。1909年7月、石川県金沢の第四高等学校を卒業後、9月東京帝国大学工科大学機械工学科に進学。1912年7月、大学を卒業し、鉄道院に奉職。1913年、家督を相続した。 その後、官を辞して明治鉱業に入社した。欧米各国に留学した。1925年8月、北海道帝国大学に開設された工学部の教授(鉱山工学教室・鉱山機械学担当)に就任した。1938年3月、北海道帝国大学教授を退官して満州炭鉱株式会社の技師に転じた。
有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉… 有村 慎之助(ありむら しんのすけ、1885年〈明治18年〉12月 - 1960年以降没)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者、実業家。大同電力取締役兼営業部長・工務部長などを務めた。福井県出身。 有村慎之助は、1885年(明治18年)12月、福井県人・有村静江の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1909年(明治42年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。 大学在学中の実習で、富士水電という静岡県東部の電力会社が行っていた発電所建設工事に関わったことから、富士水電に懇望されて卒業後はそのまま同社に技師として入社した。
飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6… 飯田 直次郎(いいだ なおじろう、1884年(明治17年)6月26日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の実業家。髙島屋社長を務めた。 3代飯田新七の長男として京都府に生まれる。 京一中、第四高等学校、東京帝国大学法科経済学科卒業後、1909年12月、髙島屋飯田合名会社に入社。 1919年8月、髙島屋呉服店(髙島屋の前身)が創設されると取締役に就任し、海外貿易事業に従事。1926年に専務に就任してからは、大阪・なんば、東京・日本橋の両店を開店して、百貨店の基礎を築き、髙島屋を百貨店として成長させた。1942年3月、4代飯田新七が健康上の理由から社長を辞任したため、第3代社長に就任した。
得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3… 得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3日 - 1964年(昭和39年)6月19日)は、日本の内務官僚、実業家。官選岩手県知事。 富山県出身。得能通孝の六男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、岡山県試補、警視庁警視、山形県警察部長、滋賀県警察部長、台湾総督府警視兼同府警察官及び司獄官練習所長、拓殖局書記官、内務書記官、北海道庁書記官・内務部長などを歴任。 1925年9月、岩手県知事に就任。公平無私な県政運営を行う。和賀妻堰・中央耕地の整備、公会堂建築、農学校移転などに尽力。
宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12… 宮長 平作(みやなが へいさく、1883年〈明治16年〉12月 - 1956年〈昭和31年〉4月24日)は、日本の土木技術者、実業家である。 1883年(明治13年)12月、富山県射水郡水口村の豪農として名を馳せた父・宮長平六の次男として誕生。第四高等学校(後の金沢大学)を経て、1908年(明治41年)7月、東京帝国大学土木工学科を卒業。同月、久原鉱業所に入社し日立鉱山にて技師として従事、当時高さ世界一を誇る煙突の建設に関わるなどした。 1924年(大正13年)2月24日、個人名義で屋号を久原工事部となし土木建築請負業を開設。同社が1930年(昭和5年)9月に日本産業株式会社の直系子会社、中央土木(後の日産土木、日産建設、現・RN建設)株式会社として改組・発足の運びとなってはその専務取締役に就任、1939年(昭和14年)6月より同社取締役社長。
杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年… 杉山 栄(杉山 榮、すぎやま さかえ、1881年〈明治14年〉3月6日 - 1938年〈昭和13年〉10月7日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の土木技術者、実業家。主に電気事業に関与し、矢作水力副社長・大同電力取締役などを務めた。岐阜県出身。 杉山栄は1881年(明治14年)3月6日、岐阜県士族杉山斧吉の長男として生まれた。本籍地は岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市)。1901年(明治34年)7月金沢の第四高等学校第二部工科を卒業、次いで1905年(明治38年)7月東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業する。その後は電力界に入り、まず箱根水力電気に入社して同社の土木課長となる。箱根水力電気は箱根早川の開発と横浜市への電力供給を目的に1906年(明治39年)12月に設立された電力会社で、1909年(明治42年)5月に塔之沢発電所を完成させた。
秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月… 秋月 種英(あきづき たねひで、1880年(明治13年)3月9日 - 1961年(昭和36年)10月29日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。 旧高鍋藩主家当主、子爵・秋月種樹の二男として生まれる。兄秋月種繁の死去に伴い家督を相続し、1890年(明治23年)10月2日、子爵を襲爵した。 第四高等学校を経て、1910年(明治43年)7月、京都帝国大学法科大学を卒業。同年、司法省に入省し司法属となる。以後、輸出水産取締役、明治漁業監査役、カルピス製造監査役などを務めた。 1914年(大正3年)7月11日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで5期在任した。
谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月… 谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月9日 - 1951年(昭和26年)9月16日)は、日本の台湾総督府官僚、政治家、実業家。衆議院議員。 富山県下新川郡仏田村(現富山県魚津市)で、谷平吉の長男として生まれ、1897年4月、谷順平の長女・寿意と結婚し婿養子となる。第四高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年8月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1906年2月、台湾総督府に入り、同属、同専売局書記、同事務官、同脳務課長などを歴任した。1913年に退官。 1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月2… 横山 隆俊(よこやま たかとし、1876年(明治9年)9月25日 - 1933年(昭和8年)12月19日)は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員。従三位勲四等。加賀八家横山家第14代当主。 石川県石川郡金沢で加賀八家横山家当主・横山隆平の長男として生まれる。父の死去に伴い、1903年(明治36年)8月14日に男爵を襲爵した。 第四高等学校補充科で学び、その後、東京に出て専修学校に入学し、田尻稲次郎、阪谷芳郎などから理財学を学び、1897年(明治30年)に卒業し帰郷した。父が経営していた尾小屋鉱山に入り事業の拡大を図った。また親族横山隆興が経営していた平金鉱山(岐阜県)と合併して横山鉱業部を設立し、さらに大蔵鉱山(山形県)、宮田又鉱山(秋田県)などを買収して経営を拡大した。
河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月… 河原 直孝(かわはら なおたか、1873年(明治6年)11月5日 - 1945年(昭和20年)7月2日)は、大正から昭和時代前期の政治家・実業家。北海道小樽市長。 河原一郎の長男として石川県金沢城下に生まれ、1922年(大正11年)家督を相続する。1897年(明治30年)7月、第四高等学校大学予科第一部を修了後、1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1905年(明治38年)4月に北海道庁立小樽中学校(現・北海道小樽潮陵高等学校)の嘱託教員となる。 実業界に転じ、小樽電気・北海道精米・小樽電燈などの取締役を務め、さらに、小樽商業会議所議員、小樽区会議員などを歴任する。市制施行すると、1922年(大正11年)10月、小樽市会議員に就任し、同議長を兼任した。
堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、187… 堀内 秀太郎(ほりうち ひでたろう / しゅうたろう、1873年(明治6年)10月11日 - 1941年(昭和16年)6月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事。 石川県金沢市出身。旧加賀藩士・堀内茂成の長男として生まれる。第四高等学校を首席で卒業。1898年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。内務省に入省し社寺局属となる。1899年11月、文官高等試験行政科試験に合格。 以後、内務属臨時検疫局事務官、警察監獄学校教授、内務省参事官、神奈川県参事官、同事務官、徳島県事務官・第一部長兼第三部長、同内務部長、大阪府事務官・内務部長、北海道庁内務部長などを歴任。 1915年8月、宮崎県知事に就任。