村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月… 村瀬 輝光(むらせ てるみつ、1915年 - 1985年5月9日)は、昭和時代後期日本の中等教育教員。神奈川県の2代目県民歌「光あらたに」の作詞者として知られる。 また、推理作家としてのペンネームに深草 蛍五(ふかくさ けいご)がある。 横浜市中区出身。旧制厚木中学校を経て神奈川師範学校を卒業した後、1945年(昭和20年)に旧制相洋中学校の国語教諭となり、1947年(昭和22年)の新制高等学校への改組に伴い校歌を作詞した。 1950年(昭和25年)、神奈川県が行った2代目県民歌の懸賞公募で応募作「光あらたに」が採用され、同年4月10日付で制定される。ところが、制定から15年余りを過ぎた1967年(昭和42年)に当時の津田文吾知事が4番の歌詞について「大気汚染が社会問題化する中で不適切な表現ではないか」として改訂を指示し、作曲者の飯田信夫と共に難色を示したが結論が出ないまま1968年(昭和43年)を以て知事から問題視された4番自体が廃止されることになった。
加藤 淑子(かとう としこ、1915年 - 2017年1月2… 加藤 淑子(かとう としこ、1915年 - 2017年1月2日)は、ロシア料理店スンガリーの店主。 1915年、京都府に呉服商の娘として生まれる。京都市立堀川高等女学校卒業。 1935年に津田幸四郎と結婚する(婿入り婚)。その直後、満州に移住する。幸四郎は満州国の特務機関員をしていたとの情報がある。白系ロシア人宅に間借りして住んでいたこともある。1943年ごろ、幸四郎が徴兵される。終戦直後、収容所生活となる。ソ連軍兵士が土足で入ろうとした際、毅然と「ここは私たちの眠る場所です。畳の上を靴で歩かないでください」と注意する 。 1946年秋、日本に帰国する。無事だった夫・幸四郎に再会し、一家5人の生活がスタートする。
播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年… 播磨 幸太郎(はりま こうたろう、1915年 - 1953年7月19日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード。兵庫県神戸市出身。 兵庫県御影師範学校附属小学校を経て、兵庫県立第一神戸中学校(神戸一中、現:兵庫県立神戸高等学校)に入学し、サッカー部に所属。右近徳太郎が2年先輩に、直木和、津田幸男および二宮洋一が1年後輩に当たる。1933年1月に開催された第15回全国中等学校蹴球選手権大会での優勝に貢献した。 1933年に神戸一中を卒業して、慶應義塾大学予科に入学。慶應入学後よりソッカー部に所属して予科1年次よりレギュラー選手となった。また、在学中には慶應BRBで1度(1936年)、慶應義塾大学として1度(1937年)の計2回全日本選手権(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で優勝した。
山本 甚作(やまもと じんさく、1915年(大正4年) - … 山本 甚作(やまもと じんさく、1915年(大正4年) - 1996年(平成8年)10月4日)は、日本の画家。
室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6… 室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6日)は、大阪府出身のプロ野球選手。主なポジションは捕手。
中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 19… 中田 武雄(なかた たけお、1915年(大正4年) - 1943年(昭和18年)7月22日)は、昭和初期の中等学校野球及び大学野球で活躍した野球選手。1933年(昭和8年)の第19回全国中等学校優勝野球大会準決勝において、兵庫県立明石中学校の投手として中京商業学校との延長25回の試合を投げきったことで著名。左投げ左打ち。
由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11… 由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11月26日)は、日本のアマチュア野球選手。東武雄や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。1943年11月26日満州興山で戦死。野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。
本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1… 本橋 精一(もとはし せいいち 1915年 - 1946年1月31日)は、日本の元アマチュア野球選手。東京都出身。
佐々木 現順(ささき げんじゅん、1915年 - 2010年… 佐々木 現順(ささき げんじゅん、1915年 - 2010年1月26日)は、天台真盛宗の僧、仏教心理学者。 1915年、福井県生まれ。京都帝国大学文学部を卒業し、大谷大学助教授、教授を務めた。1950年代にはドイツ、ハンブルク大学で仏教学の客員教授も務めた。1962年、「仏教心理学の研究」を大谷大学に提出して文学博士号を取得する。1986年に定年退職し、名誉教授となった。西徳寺住職。 仏教を心理学の立場からとらえる仏教心理学の提唱者である。
畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月… 畑江 五郎(はたえ ごろう、1915年 - 1980年11月9日)は、日本の競走馬生産者、馬主。 兵庫県神戸市出身。慶應義塾大学法学部卒業後の1941年、北海道・日高に渡り、牧場を開設して学生時代から思い描いていた競走馬生産を始める。牧場を開設するにあたり、当時の馬産牧場の最大手であり名門でもあった小岩井農場からフロラヴァースを譲り受けるなどして自身の理想を実現しようと力を入れていた。 第二次世界大戦末期の1944年、赤紙が届く。出征前、牧場所有の繁殖牝馬を保存しておくように家族に命じていたという。 畑江は中国大陸での戦闘に従事。1945年の第二次世界大戦終結後、ソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留を経験することとなる。
久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22… 久野 古夫(くの ひさお、1915年 - 2009年6月22日)は、テレビ技術者。静岡県生まれ。 松下電器製作所(現在のパナソニック)における、ラジオ、テレビの開発黎明期の中心的メンバーの一人である。
朴 海禎(パク・ヘジョン、朝鮮語: 박해정/朴海禎、1915… 朴 海禎(パク・ヘジョン、朝鮮語: 박해정/朴海禎、1915年または1916年7月21日 - 1966年2月6日)は、大韓民国の警察官僚、政治家。元交通部長官、制憲・第3・4・5代韓国国会議員。本貫は密陽朴氏。 日本統治時代の慶尚北道慶山郡(現・慶山市)出身。大邱公立高等普通学校、大邱師範学校講習科、中央大学専門部・法学部卒。光復後は慶尚北道警察局総務課長、警察庁警察学校副校長、安東警察署長、順天地方警察署長、民主党創設メンバー・中央委員・政策委員・慶山郡党委員長、国会財経委員・予決委員、民主党政権の交通部長官を務めた。 1966年2月6日、ソウル市西大門区の自宅にて脳溢血により死去。享年51。
松岡 三郎(まつおか さぶろう、1915年 - 2010年6… 松岡 三郎(まつおか さぶろう、1915年 - 2010年6月5日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(明治大学・論文博士・1959年)(学位論文『憲法の労働権の法社会学的展開について : 日本における労働権の機能と保障機構の特殊性に関する研究』)。明治大学名誉教授。 1941年東京帝国大学法学部卒、高文(行政科・司法科)合格、同助手。 1945年内務省に入る。のち厚生省、労働省、法務府(法務省の前身)に勤務。この間、労働省設立に伴う労働諸立法事務に従事。 1949年明治大学法学部教授、法学部学部長、理事、1986年定年退任、名誉教授。 1959年に学位論文『憲法の労働権の法社会学的展開について : 日本における労働権の機能と保障機構の特殊性に関する研究』 で明治大学より法学博士の学位を取得。
津留 宏(つる ひろし、1915年(大正4年) - 1982… 津留 宏(つる ひろし、1915年(大正4年) - 1982年(昭和57年)10月13日)は、日本の心理学者。神戸大学名誉教授。発達心理学、青年心理学専攻。 東京生まれ。東京文理科大学心理学科卒。神戸大学教育学部助教授、教授、1979年定年退官、名誉教授。
橘髙 重義(きったか しげよし、1915年 - 2007年1… 橘髙 重義(きったか しげよし、1915年 - 2007年12月8日) は、日本の化学者。学校法人東京理科大学理事長、東京理科大学山口短期大学学長、山口東京理科大学学長、日本私立大学協会会長などを歴任した。勲二等瑞宝章受章。 岡山県出身。1938年東京物理学校(現東京理科大学)理化学部卒業。応用物理学専攻。1959年北海道大学理学博士。1978年静電気学会功績賞受賞。同年から学校法人東京物理学園理事長を務め、東京理科大学の全国規模への拡大を行うなどした。 1987年東京理科大学山口短期大学学長、文部省大学審議会委員。静電気学会顧問、日本障害者高等教育支援センター会長や、日本私立大学協会会長等も務め、1992年日本私立大学団体連合会会長。
張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1915年または1918年… 張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1915年または1918年8月27日 - 1975年8月17日)は、大韓民国の政治家、官僚、ジャーナリスト、独立運動家、社会運動家、実業家。雑誌『思想界(朝鮮語版)』を創刊し、朴正煕政権下での言論面での抵抗に寄与した。日本名は張安俊河。 日本統治時代の朝鮮の平安北道朔州郡に牧師の長男として生まれる。父親が独立運動に関わっていたことから各地を転々とし、中学卒業後に日本へ留学。東洋大学予科を経て、長老派の日本神学校を卒業する。1944年1月20日に学徒出陣によって日本軍に入隊、創氏改名では「張安俊河」と名乗る。平壌駐屯の歩兵第41連隊補充隊(朝鮮第42部隊)で訓練を終えたのち2月から中国戦線に参加し、江蘇省徐州の第65師団輜重隊(専7991部隊)を経て同地の独立歩兵第58大隊(長:柄田節大佐)に配属されたが、同年7月7日に尹慶彬(朝鮮語版)、洪錫勳、金永祿とともに脱走、安徽省阜陽で別の部隊から先に脱走した学徒兵の金俊燁(朝鮮語版)と合流した後、中国中央軍官学校臨泉分校の朝鮮光復軍幹部訓練班に入隊し、国民政府軍へ入隊して準士官に任じられ、1945年1月31日には重慶に赴いて、大韓民国臨時政府の光復軍に加わり金九の秘書となった。
河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年… 河原 修平(かわはら しゅうへい、1915年 - 1974年8月2日)は、日本の画家。岡山県倉敷市出身。 1915年、倉敷市土手町(現倉敷美観地区)の砂糖卸商に産まれる。小学校時代より竹久夢二に憧れ、金光中学校へ進んだ後から絵筆を握るようになった。卒業後は上京して川端画学校、太平洋美術学校にて修業。池袋モンパルナスに住み、三橋健や渡辺一郎と交流を持った。倉敷に戻ってからは「倉敷素描絵画研究所」を開き、後続の育成にあたる。 晩年は坂田一男と親交を深めており、河原のアトリエ「皮腹堂」は坂田が命名したものである。命名の礼にと河原は知人が狩りで仕留めた狸を写生し、「タヌキ親父の坂田にタヌキ鍋を馳走しよう」と写生した絵『屍狸鶏観図』を贈ったという。
阿部 醒石(あべ せいせき、本名:阿部 俊一(あべ しゅんい… 阿部 醒石(あべ せいせき、本名:阿部 俊一(あべ しゅんいち)、1915年 - 2011年5月18日)は、日本の書道家、合気道家。大阪府高槻市出身。合気道開祖植芝盛平の高弟で、植芝から非公式に合気道十段位を与えられた。 1934年に父親に勧められて書道を習い始め、1948年より書道教師として大阪府立北野高等学校で指導を始めた(1982年まで)。やがて書道家としての技術的・精神的な行き詰まりを感じた阿部は、二木謙三が主催する禊の練成会に参加する。この頃植芝盛平の弟子でもあった二木から合気道を勧められた。 1952年、以前から親交のあった田中万川の合気道道場で植芝と偶然出会い、直後に入門。阿部は書道と並行して合気道の修行を積む中で、書道、合気道、そして禊に共通する呼吸法に感銘を受け、やがて「気」の概念を理解するに至った。
郡司敏夫(ぐんじ としお、俳号:郡司山梔(くちなし)、191… 郡司敏夫(ぐんじ としお、俳号:郡司山梔(くちなし)、1915年(大正4年) - 1991年(平成3年)2月13日)とは、栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)の「足尾焼」の陶芸家である。 「足尾銅山」の「古河鉱業」に勤務し「足尾俳壇」で足尾の俳句活動に携わった後、民芸品「足尾山の山の神」を作り出し、「足尾銅山」から新しい伝統工芸品の焼き物「足尾焼」の基礎を作った先駆者の一人であり、足尾町にかつてあった「足尾焼」の窯元「壺中坐」の創始者である。 1915年(大正4年)、栃木県上都賀郡足尾町に生まれる。父親が勤めていた足尾銅山の社宅で生まれ育った。敏夫が生まれる前に実母は鹿沼の実家に戻ってしまい、生まれた敏夫は足尾に戻された。