成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月… 成沢 昌茂(なるさわ まさしげ、1925年(大正14年)1月29日 - 2021年(令和3年)2月13日)は、日本の脚本家、映画監督。 長野県上田市原町出身。上田市長をつとめた成沢伍一郎の二男。旧制上田中学(長野県上田高等学校)卒業後、1941年に松竹京都に入社、溝口健二に師事する。1944年、日本大学芸術学部卒業。 学徒出陣し捕虜生活を経て1945年に復員。1946年、松竹を退社。1952年に溝口にならって大映と契約、溝口の『噂の女』『新・平家物語』『赤線地帯』など、次々と巨匠と組んで名脚本を書き続けた。1962年、『裸体』で監督に転身、5作品を残す。1970年以降は映画から離れ、1975年から1977年にかけてNHK連続人形劇『真田十勇士』(柴田錬三郎原作)を担当。
小川 正隆(おがわ まさたか、1925年1月29日 - 20… 小川 正隆(おがわ まさたか、1925年1月29日 - 2005年10月4日)は、日本の美術評論家。 静岡県出身。東京大学卒。1950年朝日新聞入社、学芸部、美術担当編集委員。80年富山県立近代美術館初代館長。88年嵯峨美術短期大学学長。浜村順の別名を持つ。
正部家 種康(しょうぶけ たねやす、1925年(大正14年)… 正部家 種康(しょうぶけ たねやす、1925年(大正14年)1月28日 - 2012年(平成24年)12月6日)は、元八戸市博物館館長。八戸市の郷土史家。 八戸中学-東京農業大学卒業後青森県農業改良普及員となる。1958年から八戸市職員となり、総務部長などを務め、秋山皐二郎市長に重用された。 1983年に八戸市博物館の初代館長に就任し、1989年まで務めた。八戸観光協会長、根城史跡保存会、八戸市文化財審議会委員等を歴任。 郷土史家としても八戸地方の民話に関する本など、多くの著書を執筆している。
安藤 巌(安藤 巖、あんどう いわお、1925年1月28日 … 安藤 巌(安藤 巖、あんどう いわお、1925年1月28日 - 2009年11月11日)は、日本の弁護士、日本共産党員、政治家。衆議院議員(4期)。 愛知県名古屋市出身。1948年に京都大学法学部を卒業後、中部日本新聞社に入り記者となるが、1950年にレッドパージの対象者とされ退社し、日本共産党に入党する。1961年に弁護士を開業、東海労働弁護団代表幹事や総評弁護団代表幹事などを歴任するかたわら、四日市公害や大須事件の弁護団にも加わる。 1976年の衆議院議員選挙に日本共産党公認で旧愛知県第6区から立候補し初当選を果たし、1990年の落選まで衆議院議員を通算4期務めた。議員在職中は法務、決算の各委員のほか、共産党愛知県副委員長などを歴任した。
佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 201… 佐竹 一雄(さたけ かずお、1925年1月28日 - 2017年3月12日)は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手。右投げ右打ち。パシフィック→太陽→松竹、国鉄でプレイ。ポジションは捕手・一塁手。 京阪商(現:大阪府立芦間高等学校)を卒業後、宮崎県でゼロ戦の整備に従事していたが、第二次世界大戦終戦後のある日、新聞を見ていたところ、プロ野球球団・パシフィックの選手募集広告を見つけたことがきっかけで1946年にパシフィックへ入団。1年目から34試合出場するも、捕手としては18試合しか出場しておらず、専ら代打として出場し37打数5安打5打点1本塁打と特に目立った活躍はしなかった。 しかし、太陽ロビンスとチーム名を変えた2年目、佐竹は正一塁手を獲得。
森 康二(もり やすじ、1925年1月28日 - 1992年… 森 康二(もり やすじ、1925年1月28日 - 1992年9月4日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、絵本作家。日本アニメーション所属。森やすじ、もりやすじという表記も使用した。 鳥取県鳥取市出身。台湾で幼少期を過ごす。東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。 政岡憲三に師事しアニメーションを学ぶ。日本における初期の本格的な商業用アニメーション製作会社・東映動画(現・東映アニメーション)に発足当初から参加し、同社草創期の作画部門において大工原章らとともに指導的な役割を果たす。以後長年にわたり、数々の児童向けアニメーション映画・テレビ番組制作に携わる。 日本アニメーションに所属してからは、アニメーション制作の他に新人、若手アニメーターの教育や指導も行っていた。
金井 格(かない ただし、1925年1月28日 - 没年不詳… 金井 格(かない ただし、1925年1月28日 - 没年不詳)は東京農業大学名誉教授。専門は造園学の工学分野。 長野県長野市出身。生まれは外地で母方の祖父は片倉製紙の重役。本籍長野の他は埼玉で長く暮らす。 1945年9月 東京農業大学専門部緑地土木科を卒業し、1946年9月から1954年まで東京農業大学専門部緑地科助手、1954年からは埼玉県行田市役所技術嘱託土木課公園掛、1956年から1962年3月までは行田市役所技術吏員で、その間の1957年から1961年まで東京農業大学造園学科造園工学専攻で年度講師として測量などを担当し、1962年4月から東京農業大学造園学科講師、1965年に同大学助教授、1978年から同大学教授就任、1995年に退職し名誉教授。
野口 順一(のぐち じゅんいち、1925年(大正14年)1月… 野口 順一(のぐち じゅんいち、1925年(大正14年)1月28日 - 2018年(平成30年)9月15日)は、日本の医師(皮膚科)。東京都八王子市生まれ。1949年東北大学医学部卒業。同大学院入学・卒業後、東北大学医学部皮膚科講師、東北大学鳴子分院講師を経て、岩手県立中央病院皮膚科長を務めるなどした。 ステロイド剤を使用せず、民間療法として放任されていた、いわゆる湯治を医学分野で研究、その適応、利用方法を研究。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
本田 寿賀(ほんだ すが、結婚後の姓は陸奥(むつ)、1925… 本田 寿賀(ほんだ すが、結婚後の姓は陸奥(むつ)、1925年(大正14年)1月28日 - 1985年(昭和60年)6月12日)は、元NHKアナウンサー。 千葉県君津郡生まれ。日本女子大学卒業。1946年、NHKに一般職員として入社後、同年戦後初のアナウンサー試験に合格、17期アナウンサーとなる。同期は野村泰治、のちに橋本登美三郎夫人となった後藤美也など。1953年1月2日放送の『第3回NHK紅白歌合戦』では、朗読の実績を買われて紅組司会に起用された。『NHK紅白歌合戦』でNHKアナウンサーが紅組司会を務めるのは本田が初めてだった。1956年7月から1961年8月まで大阪中央放送局勤務を経て再び東京勤務に戻る。
渡部 行雄(わたなべ ゆきお、1925年(大正14年)1月2… 渡部 行雄(わたなべ ゆきお、1925年(大正14年)1月27日 - 1997年(平成9年)9月16日)は、昭和から平成初期の司法書士、政治家。日本社会党衆議院議員(6期)。 福島県若松市(現会津若松市)出身。福島県立会津中学校(旧制)を卒業後、942年(昭和17年)東京物理学校を中退。司法書士、福島県議会議員(4期)、全日本農民組合連合会中央常任委員、同福島県連合会会長、福島県日中友好協会顧問、同県労農会議顧問、日本司法書士会連合会顧問などを務めた。 1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙で旧福島2区から日本社会党公認で立候補したが落選。1976年(昭和51年)第34回総選挙で初当選。
杵淵 直知(きねぶち なおとも、1925年1月27日 - 1… 杵淵 直知(きねぶち なおとも、1925年1月27日 - 1979年11月2日)は、日本のピアノ調律師である。東京市牛込区出身。 大正から昭和にかけて活躍したピアノ調律師、杵淵直都の長男。余丁町尋常小学校、旧制早稲田中学、旧制長野工業専門学校(現信州大学工学部)卒業。大橋幡岩に師事してピアノの製作技術を学ぶ。1961年(昭和36年)に単身ドイツへ渡り、グロトリアンやスタインウェイといったヨーロッパの代表的なピアノ工場で技術経験を重ねる。帰国後は桐朋学園、NHKホールなどの専属ピアノ調律師として活躍。1964年(昭和39年)から東京ピアノ工業の技術顧問として新しいグランドピアノの製作に従事。1979年(昭和54年)、54歳で脳溢血のため死去。
奥井 成一(おくい しげかず、1925年1月27日 - 20… 奥井 成一(おくい しげかず、1925年1月27日 - 2008年9月11日)は、日本のプロ野球選手(内野手)。 旧制大阪府立生野中学校卒業後、故郷の岡山で家業の鉄工所を継ぎながら、実業団野球チーム「オール玉野」で遊撃手をしていたところ、プロのスカウトの目にとまり、1948年、大阪タイガース(1961年より、阪神タイガース)に入団。背番号24をつけ、主に二塁手として34試合に出場。打率2割8分6厘という成績を残したが、けがのため1年プレーしただけで引退した。 翌1949年からフロント入りし、マネージャーを務めた後、球団の業務部長、管理部長、資料部長など要職を歴任。 1991年にタイガースを定年退職した後は、ベースボール・マガジン社の顧問を務めていた。
齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 20… 齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 2011年1月)は日本の映画監督。埼玉県秩父市出身。
笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1925年1月27日 - 20… 笠原 幸雄(かさはら ゆきお、1925年1月27日 - 2011年6月20日)は、日本の経営者。日本鉱業社長を務めた。 東京都出身。1949年に東京大学第一工学部を卒業し、同年に日本鉱業に入社。1974年5月に取締役に就任し、1976年6月に常務、1979年6月に専務、1981年6月に副社長を経て、1983年6月には社長に昇格。1989年6月に会長に就任し、1996年6月には相談役に就任。 1988年4月に藍綬褒章を受章し、1996年11月に勲一等瑞宝章を受章。 2011年6月20日に呼吸不全のために死去。86歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
斎藤 美津子(さいとう みつこ、1925年1月27日 - 2… 斎藤 美津子(さいとう みつこ、1925年1月27日 - 2004年2月29日)は、日本のコミュニケーション学者、同時通訳(養成)者。国際基督教大学名誉教授。専門は異文化コミュニケーション論、コミュニケーション教育、一般意味論。 夫は元衆議院議員の福永一臣。父は元東京銀行監査役の斎藤保義。弟は元毎日新聞社社長・会長の斎藤明。姉の夫に井上孝、妹の夫に福田歓一、竹内昭夫、前田庸がいる。 京都市生まれ。東京銀行の前身である横浜正金銀行に就職していた父親の海外勤務で幼少期を7年間上海で過ごす。1945年東京女子大学英語専攻部卒業。1950年イリノイ州シカゴにあるノース・パーク大学(North Park University)に留学しスピーチ学に関心を持つ。
齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 20… 齋藤 武市(さいとう ぶいち、1925年1月27日 - 2011年)は、日本の映画監督。 埼玉県秩父市出身。1948年早稲田大学文学部卒業後、松竹大船撮影所の脚本養成所に所属した後、助監督として主に小津安二郎に師事する。『晩春』『麦秋』『お茶漬の味』『東京物語』で助監督を務めた。 1954年、先輩の西河克己の勧誘を受け、同期の鈴木清順、中平康と共に日活に移籍。『姉さんのお嫁入り』で監督に昇進した。小津の弟子らしい格調高い文芸映画を撮り続けたが、興行的にはいまいちだった。1959年、小林旭主演の『南国土佐を後にして』が大ヒット。そのヒットをうけて作られた『ギターを持った渡り鳥』も大ヒット。『渡り鳥シリーズ』としてシリーズ化され、全9作品を監督するなど娯楽映画監督としての地位を確立した。
濃野滋(こいの しげる、1925年1月26日 - 没年不明)… 濃野滋(こいの しげる、1925年1月26日 - 没年不明)は、日本の通産官僚。通産事務次官、川崎製鉄副社長、同社副会長などを務めた。 東京府出身。旧制東京高等学校から東京帝国大学法学部政治学科に入学。短期現役海軍主計科士官(12期)を志願。1944年9月、海軍経理学校に入学し1945年に卒業。同年6月、海軍主計少尉に任官して終戦を迎え、その後、解員(復員)した。 1947年 東京帝国大学法学部政治学科を卒業。東京帝大時代の仲間に大蔵省に入省する渥美謙二がいた。同年11月 商工省に入省。振り出しは総務局総務課(現在の大臣官房総務課)。 通商局輸出振興部輸出保険課長、通商局経済協力部資本協力課長、企業局産業立地部工業用水課長、在中国日本大使館一等書記官などを務める。
恩田 彰(おんだ あきら、1925年1月26日 - 2015… 恩田 彰(おんだ あきら、1925年1月26日 - 2015年7月20日)は、教育心理学者、東洋大学名誉教授。 東京出身。1948年東京帝国大学文学部心理学科卒、労働科学研究所研究生、1952年川村短期大学助教授、1954年東洋大学文学部助教授、63年教授、1972年「創造性の研究」で東洋大学文学博士。95年定年退任、名誉教授。創造教育学会名誉会長。日本心霊科学協会理事。
酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4… 酒井欣也(さかい きんや、1925年1月25日ー1996年4月25日)は、日本の映画監督。 京都市北区西白梅町生まれ。酒井米子と俳優の葛木香一の子。1942年京都府立京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒、慶応義塾大学法学部に入学、44年、陸軍特別操縦見習士官を志願して合格、熊谷陸軍飛行学校に入学、陸軍航空少尉で敗戦を迎える。慶大に復学するが食料事情が悪く京都に帰り、母の劇団を補佐していたが、49年母の世話で松竹京都撮影所監督部に入る。助監督として溝口健二に師事。58年に監督に昇進。「大盗少盗」で監督デビュー。おもに喜劇を撮った。66年フリーとなる。
奥田 健二(おくだ けんじ、1925年1月25日 - 200… 奥田 健二(おくだ けんじ、1925年1月25日 - 2009年8月10日)は、日本の経営学者。 東京府北豊島郡板橋町(現:東京都板橋区)生まれ。伊集院家に生まれ母方の奥田家を継ぐ。麻布中学校から海軍経理学校を卒業、1945年海軍主計少尉候補生として巡洋艦「酒匂」に乗艦、主計少尉として三重県鳥羽に駐屯。1948年日本基督教団で洗礼を受ける。1949年東京大学法学部卒、日本鋼管(現:JFEスチール、JFEエンジニアリング)に勤務。1962年イリノイ大学大学院労使関係研究科修士課程修了、1986年「人と経営 日本経営管理史研究」で上智大学経済学博士。日本鋼管教育部長を経て、1980年定年退任、1983年上智大学経済学部教授。
大矢 正(おおや ただし、1925年1月25日 - 1983… 大矢 正(おおや ただし、1925年1月25日 - 1983年1月1日)は、日本の政治家、参議院議員(3期、日本社会党)。 北海道小樽市出身。日本大学で学ぶ。北海道炭礦汽船に入り、戦後は労働運動に加わり、北海道炭礦汽船労組委員長、北海道炭労委員長となる。1956年の第4回参議院議員通常選挙で北海道から日本社会党公認で立候補して初当選した。以来3期務める。この間参議院文教委員長、同石炭対策委員長、同公害対策及び環境保全特別委員長などを歴任した。1974年の第10回参議院議員通常選挙に出馬せず引退。 1983年1月1日死去、58歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正四位に叙された。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
新藤 貞文(しんどう さだふみ、1925年1月24日 - 没… 新藤 貞文(しんどう さだふみ、1925年1月24日 - 没年不明)は、埼玉県出身のプロ野球選手。 旧制浦和中学から中央大学を経て1950年に阪急ブレーブスへ入団。1951年に退団し、その後は鐘淵化学でプレーした。
安井久善(やすい ひさよし、1925年1月24日 - 200… 安井久善(やすい ひさよし、1925年1月24日 - 2001年7月14日)は、日本の国文学者、軍事史学者、日本大学名誉教授。 愛知県名古屋市生まれ。1944年4月、陸軍士官学校を卒業し(第57期)、陸軍中尉で終戦を迎える。1949年3月、日本大学法文学部国文科卒業。1951年4月、同大学院(旧制)終了し、1952年1月、宮内庁書陵部に入る。 1952年9月、保安隊に入る。1954年7月、陸上自衛隊発足とともに陸上自衛官。1960年、防衛大学校陸上防衞学助教授。この時代に軍事史の著作、論考を著しはじめる。 1965年日本大学商学部助教授、1970年教授、1976年「藤原光俊の研究」で日大文学博士。
若林 繁太(わかばやし しげた、1925年〈大正14年〉1月… 若林 繁太(わかばやし しげた、1925年〈大正14年〉1月24日 - 2007年〈平成19年〉7月27日)は日本の教育者、教育評論家。篠ノ井旭高校(現・長野俊英高等学校)の経験をもとに『教育は死なず』を上梓したことで知られる。 1925年に中国撫順で生まれる。旧制撫順中学校卒業。1953年に明治大学法学部法学科を卒業、1956年に明治大学大学院修士課程修了。同年、明治大学法学研究所研究員。当初は作家を志し、吉川英治門下に連なっていたものの作品が作れず、先輩からの忠告を受けた末に挫折し、明治大学大学院に入り直し民法を修めた。後に長野大学法学部新設の折に教授として迎えられることになるものの、大学紛争の影響で中止になった。
鴨川 清作(かもがわ せいさく、1925年1月23日 - 1… 鴨川 清作(かもがわ せいさく、1925年1月23日 - 1976年8月11日)は、日本の演出家である。元宝塚歌劇団理事。 宝塚歌劇団の演出家として活躍し、主にショーの作・演出を手がけた。代表作に『シャンゴ』、『ノバ・ボサ・ノバ』、『ラ・ラ・ファンタシーク』などがある。 大阪音楽大学卒業後、1954年に宝塚歌劇団に入団。1976年8月、自身が手がけた作品である『ノバ・ボサ・ノバ』の再々演初日の前日、脳梗塞のため死去。 2014年、『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして八千草薫等と共に殿堂表彰。 高峰妙子・・初代瀧川末子・・奈良美也子・・汐見洋子・・神代錦・・打吹美砂・・越路吹雪・・淀かほる・・星空ひかる・・麻鳥千穂 ・・甲にしき - 安奈淳、松あきら&瀬戸内美八 - 榛名由梨&安奈淳 - 安奈淳 - 松あきら - 松あきら&順みつき - 順みつき - 高汐巴 - 大浦みずき - 安寿ミラ - 真矢みき - 愛華みれ - 匠ひびき - 春野寿美礼 - 真飛聖 - 蘭寿とむ - 明日海りお - 柚香光 - 永久輝せあ(現役) 秋田露子・・初代春日花子・・初代大江美智子・・久美京子・・打吹美砂・・日下輝子・・宮城野由美子・・鳳八千代・・夏亜矢子・・美和久百合・・竹生沙由里・・上原まり(固定でない) - 上原まり&北原千琴 - 美雪花代 - 若葉ひろみ - 秋篠美帆 - ひびき美都 - 森奈みはる - 純名里沙 - 千ほさち - 大鳥れい - ふづき美世 - 桜乃彩音 - 蘭乃はな - 花乃まりあ - 仙名彩世 - 華優希 - 星風まどか - 星空美咲(現役) 高砂松子 - 初代瀧川末子 - 奈良美也子 - 三浦時子 - 汐見洋子 - 神代錦 - 打吹美砂 - 大路三千緒 - 藤波洸子 - 打吹美砂 - 畷克美 - 美吉左久子 - 淡路通子 - 恵さかえ - 但馬久美 - 宝純子 - 北小路みほ - 未沙のえる - 星原美沙緒 - 磯野千尋 - 夏美よう - 高翔みず希 - 美風舞良(現役)
木下 東一郎(きのした とういちろう、1925年〈大正14年… 木下 東一郎(きのした とういちろう、1925年〈大正14年〉1月23日 - 2023年〈令和5年〉3月23日)は、日本出身の物理学者(理論物理学)。コーネル大学名誉教授。 量子電磁力学の分野で、特に電子の異常磁気能率の理論による高次の摂動展開計算を精密に行い、観測値と理論値が10桁という高い精度で一致することを示した。赤外発散におけるKLN(木下-Lee-Nauenberg)定理(英語版)で知られる。 東京府で生まれ、1952年東京大学で学位をとった後、渡米。プリンストン高等研究所、コロンビア大学で研究した。1958年にコーネル大学助教授、1963年同教授になり、1995年名誉教授。 1990年、アメリカ物理学会からJ・J・サクライ賞、1998年IUPAP SUNAMCOメダル、2019年東レ科学技術賞を受賞した。
海法 秀一(かいほう ひでいち、1925年1月23日 - 2… 海法 秀一(かいほう ひでいち、1925年1月23日 - 2004年6月22日)は、大日本帝国の陸軍軍人(戦闘機操縦者)。画家。元競輪選手(選手登録番号3065)。日本における空戦画の先駆者かつ第一人者。現在の東京都江東区深川佐賀町出身。墓標は大田区萩中の真光寺。 陸軍少年飛行兵第13期卒。教育飛行隊や加藤隼戦闘隊として有名な飛行第64戦隊附を経て、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には、陸軍軍曹として本土防空戦に参加。その時の体験が、その後の創作活動に強く影響したと生前語っている。本土防空戦ではB-29等に対して航空機で突入する空中特攻が一時期実施されていた。2004年にNHKで放送された「アメリカ捕虜の戦争体験」という番組では、空中戦で海法に撃墜され、捕虜となったB-29乗員が戦後に再会する様が放送されている。
大野 盛雄(おおの もりお、1925年1月22日-2001年… 大野 盛雄(おおの もりお、1925年1月22日-2001年4月4日)は、日本の人文地理学者。東京大学東洋文化研究所名誉教授。 1925年、山口県生まれ[要出典]。1950年、東京大学理学部地理学科を卒業。1953年、同大学経済学部を卒業。 卒業後は東京大学東洋文化研究所助手に採用された。1960年に退任し、1961年より明治大学専任講師。196から1964年にかけてイランへ出張。1964年、東京大学東洋文化研究所専任講師に就いた。1965年に助教授、1968年に教授昇進。1972年に学位論文「ペルシア農村に関する地理学的研究」を東京大学に提出して理学博士号を取得。1976~78年、1982~84年の二度、東京大学東洋文化研究所所長をつとめた。
加賀谷 誠一(かがや せいいち、1925年1月22日 - 2… 加賀谷 誠一(かがや せいいち、1925年1月22日 - 2015年8月11日)は、日本の経営者。フジクラ社長、会長を務めた。秋田県出身。 1947年に東京大学工学部電気工学科を卒業し、同年に藤倉電線(のちのフジクラ)に入社。1973年11月に取締役に就任し、1977年に常務、1981年6月に専務を経て、1982年6月には社長に就任。1992年12月に会長に就任し、1993年6月から相談役を務めた。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1995年4月に勲二等瑞宝章を受章。 2015年8月11日心不全のために死去。90歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
関根 太郎(せきね たろう、1925年1月22日 - 201… 関根 太郎(せきね たろう、1925年1月22日 - 2013年3月23日)は、日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。元木更津工業高等専門学校校長。 1944年東京工業大学電気化学科入学。1960年東京工業大学工学博士。東京工業大学大学院総合理工学研究科教授を経て、1985年退官、東京工業大学名誉教授。同年から1988年まで木更津工業高等専門学校校長を務めた。電気化学を専攻し、指導学生には谷口功元熊本大学学長、藤田玲子元日本原子力学会会長などがいる。 2004年4月瑞宝中綬章受章。 2013年3月23日、急性左心不全のため死去。
清水 司(しみず つかさ、1925年(大正14年)1月22日… 清水 司(しみず つかさ、1925年(大正14年)1月22日 - 2017年(平成29年)10月21日)は、日本の工学者。早稲田大学第11代総長。早稲田大学名誉教授。学校法人渡辺学園名誉理事長。専門は電波工学。1997年文化功労者。新潟県新潟市出身。位階は従三位。 1948年早稲田大学理工学部電気通信学科を卒業、1953年から同大にて大学院文部省特別研究生(1958年3月まで)。1960年工学博士(博士論文「フェライトを用いたマイクロ波回路素子の設計に関する研究」)。1953年同大助手に採用。専任講師、助教授を経て1965年から同大教授(1984年3月まで)。この間、1970年から常任理事(8年間)、1978年11月から第11代総長(4年間)を歴任。
嶋崎 譲(嶋﨑 譲、しまさき ゆずる、1925年(大正14年… 嶋崎 譲(嶋﨑 譲、しまさき ゆずる、1925年(大正14年)1月21日 ‐ 2011年(平成23年)10月26日)は、日本の政治学者、政治家。衆議院議員(8期)。 石川県小松市粟津町に生まれる。兄の均は自由民主党所属の参議院議員、法務大臣を歴任し、兄弟で党籍が与野党に別れていた。また、弟の丞は石川県立美術館館長。 旧制第四高等学校を経て九州大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了。 大学院修士課程修了後、九州大学助教授、教授となる。向坂逸郎らと共に社会主義協会系の学者として活躍するが、1967年(昭和42年)社会主義協会分裂の際は太田派の中心人物の一人となった。 1969年(昭和44年)、社会党執行部から求められて九州大学教授を辞職し、旧石川1区から第32回総選挙に立候補するが落選。
久田 宗也 (12代)(ひさだ そうや、1925年1月21日… 久田 宗也 (12代)(ひさだ そうや、1925年1月21日-2010年10月22日)は、茶道表千家流久田家十二世家元。 京都市生まれ。本名は和彦、号は半床庵・尋牛斎。十一世無適斎宗也の長男。京都大学文学部史学科卒。十三世即中斎千宗左に師事。
濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 199… 濤崎 忍(とうさき しのぶ、1925年1月21日 - 1996年6月6日)は、日本の経営者。川崎製鉄社長、会長を務めた。大分県中津市出身。 1944年に東京帝国大学第一工学冶金学科を卒業し、同年に川崎重工業に入社した。1950年に川崎製鉄に移り、取締役、常務、専務を経て、1986年に副社長に就任し、1990年6月には社長に昇格した。1995年から会長に就任した。 1979年と1981年に大河内賞を受賞した。 1996年6月6日心不全のために死去。71歳没。
舟橋 正輝(ふなばし まさてる、1925年 <大正14年> … 舟橋 正輝(ふなばし まさてる、1925年 <大正14年> 1月21日 - 2009年 <平成21年> 4月16日)は、日本の経営者。フジパン社長、会長や公益財団法人エリザベス・アーノルド富士財団の理事長なども務めた。位階は従五位。 フジパンの創業者である舟橋甚重の長男である。 愛知県出身。1945年に家業製パンに従事し、1957年に日本大学経済学部を卒業。 1951年にフジパン専務に就任し、1965年には社長に昇格。1994年5月には会長に就任し、1998年5月から2000年4月までに社長も兼任した。 1986年4月に藍綬褒章を受章し、1995年4月に勲三等瑞宝章を受章。 2009年4月16日多臓器不全のために死去。
高城 淳一(たかぎ じゅんいち、1925年1月20日 - 2… 高城 淳一(たかぎ じゅんいち、1925年1月20日 - 2011年8月18日)は、日本の俳優、声優。演出家。本名:依田 郁夫(よだ いくお)。妻は女優の西乃砂恵(再婚)。 大阪府大阪市出身。東京府立第三中学校卒業。日本大学芸術科(現:日本大学藝術学部)中退(戦況悪化のため)。 1943年、劇団文芸劇場に入団。1945年に大学を中退した後、青年演劇集団に参加。1947年12月に劇団創造座に入団し、1949年12月まで所属、1950年6月、田中明夫、前沢迪雄、西乃砂恵、真木恭介、三島雅夫とともに劇団七曜会を設立に参画。1956年に劇団が分裂した後は七曜会の代表となり、演出家として活動も開始。1963年6月に七曜会を解散し、フリーランスで活動。
奥村 光林(おくむら こうりん、1925年1月20日 - 1… 奥村 光林(おくむら こうりん、1925年1月20日 - 1994年4月27日)は、日本の経営者。京都放送社長を務めた。京都府京都市出身。 1950年に上智大学文学部を卒業し、同年に京都銀行に入行。 1971年11月に取締役に就任し、1974年11月に常務、1978年11月に専務を経て、1991年6月に京都放送社長に就任。 1994年4月27日急性心不全のために在任中に死去。69歳没。
本多 淳亮(ほんだ じゅんりょう、1925年1月20日 - … 本多 淳亮(ほんだ じゅんりょう、1925年1月20日 - 2001年8月9日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(論文博士・1967年)(学位論文「ユニオンショップの研究」)。大阪市立大学名誉教授。弁護士。 東京帝国大学法学部卒。 1967年「ユニオンショップの研究」で法学博士の学位を取得。大阪市立大学講師、助教授、教授、1988年定年退職、名誉教授、大阪経済法科大学教授、1995年から非常勤講師、1998年退職。退職後は弁護士として活動。
富田 浩太郎(、1925年〈大正14年〉1月20日 - 20… 富田 浩太郎(、1925年〈大正14年〉1月20日 - 2004年〈平成16年〉6月10日)は、日本の俳優。本名および別名義は冨田 浩太郎(読みは同じ)。 熊本県玉名郡大浜町出身。宮崎大学農学部畜産学科卒業。新協劇団、劇団民藝、東映、劇団青俳を経て、東京俳優生活協同組合に所属していた。 九州学院高等学校の教員を経て劇団民藝に入団。舞台を中心に、映画やテレビドラマで脇役として活躍した。その知的で温厚な雰囲気から紳士的な役柄を演じることが多かったが、インテリ系の悪役としても実績を残している。 俳優活動の傍ら、教員経験を活かして民藝付属の演劇研究所や日本大学藝術学部などで演劇の講師も務めた。自らも「冨田演技塾」を主宰し、後進の育成に尽力した。
日沼 頼夫(ひぬま よりお、1925年(大正14年)1月19… 日沼 頼夫(ひぬま よりお、1925年(大正14年)1月19日 - 2015年(平成27年)2月4日)は、日本の医学者、ウイルス学者。成人T細胞白血病の成因がウイルスであることを指摘した。京都大学・熊本大学名誉教授。秋田県名誉県民。
遠藤 忠夫(えんどう ただお、1925年1月19日 - 20… 遠藤 忠夫(えんどう ただお、1925年1月19日 - 2008年11月24日)は、日本の社会運動家、書店経営者。 宮城県で生まれ、仙台高等工業学校を卒業して国鉄仙台鉄道局で勤務した。退職して日本共産党へ入党し、宮城県委員長などを経て党本部財政部で勤務したが1950年の党分裂時に除名されて離党した。1950年に東京神田でウニタ書舗(ウニタ書店とも)を創業して左翼や新左翼系の出版物を専門的に扱う書店として知られ、1970年代以降は経営が不振で1982年9月20日に閉店した。 ウニタ書舗以降、重信房子と個人的な信頼関係による日本赤軍の連絡役として知られ、北朝鮮と独自の連絡手段を有するとされた。1991年に拉致被害者家族の一部が予定した実名会見を中止するよう働きかけた、と北朝鮮による拉致被害者家族連絡会は公表した。
種瀬 茂(たねせ しげる、1925年(大正14年)1月18日… 種瀬 茂(たねせ しげる、1925年(大正14年)1月18日 - 1986年(昭和61年)6月17日)は、日本の経済学者。マルクス経済学専攻。一橋大学学長、国立大学協会副会長、経済理論学会代表幹事等を歴任した。 神奈川県横浜市生まれ。横浜市立横浜小学校、神奈川県立横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、東京商科大学(現一橋大学)予科を経て、東京商科大学では杉本栄一ゼミナールに所属。1948年の卒業後、助手として大学に残る。助手時代は、杉本の『近代経済学の解明』において質問者の一人として貢献する。 1953年講師、57年助教授、65年教授。79年より2年間学部長。83年から2年間、野々村一雄一橋大学名誉教授の後任として経済理論学会代表幹事。
飯室 芳男(いいむろ よしお、1925年1月18日 - )は… 飯室 芳男(いいむろ よしお、1925年1月18日 - )は、日本の三段跳選手。 山梨県甲府市に生まれる。1942年、甲府工業学校を卒業し、1951年の第1回アジア競技大会の三段跳で優勝する。ついで1952年ヘルシンキオリンピックに出場し、6位に入賞した。 その後は、1954年山梨大学学芸学部非常勤講師、1980年山梨県国体準備局次長、1983年山梨県体育協会専務理事、1987年日本体育協会理事、日本スポーツ少年団副本部長、日本陸上競技連盟審議会会員などを歴任した。1995年県政功績者。2000年勲五等瑞宝章。
伊藤 昌寿(いとう よしかず、1925年 <大正14年> 1… 伊藤 昌寿(いとう よしかず、1925年 <大正14年> 1月18日 - 2006年 <平成18年> 2月18日)は、日本の経営者、工学博士。兵庫県神戸市出身。位階は正四位。 1948年に京都大学農学部農林化学科を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 1970年11月に田代茂樹会長の抜擢により、取締役に就任し、1973年11月に常務、1978年6月に副社長を経て、1981年1月に社長に就任した。1987年4月に会長に就任し、1995年6月から相談役に就任した。 日本化学会会長なども歴任。 2006年2月18日心不全のために死去。81歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
笹森秀雄(ささもり ひでお、1925年1月18日 - 201… 笹森秀雄(ささもり ひでお、1925年1月18日 - 2014年6月13日)は、日本の社会学者。学校法人吉田学園前学園長。専門分野は都市社会学、この他、医療社会学なども研究。北海道奥尻郡奥尻町出身。 1952年、北海道大学文学部哲学科卒業。同年、北海道大学文学部助手(指導教授:鈴木栄太郎・関清秀)。その後、北海道大学スラブ研究センター助手。1964年同教養部専任講師。1965年、北海道大学文学部助教授。1973年、旭川医科大学創立に伴い同医学部教授に就く。1990年、旭川医科大学停年退官。同名誉教授。北海道東海大学国際文化学部教授。1995年、北海道東海大学定年退職。学校法人吉田学園学園長。2007年、学校法人吉田学園退職。
青井 忠正(あおい ちゅうせい、1925年 <大正14年> … 青井 忠正(あおい ちゅうせい、1925年 <大正14年> 1月16日 - 1999年 <平成11年> 3月15日)は、日本の機械工学・物理学者。大阪工業大学第6代学長・名誉教授。理学博士(京都大学)。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 専門は、数値流体力学・流体機械、航空物理学。 石川県出身。京都大学理学部物理学科卒業(指導教授:日本の流体力学の第一人者である友近晋)。同大学助手などを経て、1954年理学博士(京都大学)。その後、大阪工業大学工学部に着任し、一般教育科教授、機械工学科教授などを経て、1973年大阪工業大学学長(1981年まで)。1995年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部にて、25年以上の長きに渡り教鞭を執り、特に数値流体力学の研究育成に貢献した。
阿久根 巌(あくね いわお、1925年1月16日 - 201… 阿久根 巌(あくね いわお、1925年1月16日 - 2018年10月14日[要出典])は日本映画の美術監督、サーカス研究家。東京出身。 1944年、東京高等工芸学校(現・千葉大学)卒業。1948年に東宝撮影所に入社。美術監督として『独立愚連隊』『日本のいちばん長い日』『犬神家の一族』『八甲田山』『ビルマの竪琴』『螢川』等を手がける一方、日本のサーカスの歴史研究を続ける。浅草六区など、数多くの資料を収集・提供し、数々の文献に名前を残す存在である。 ※賞歴のある作品は太字で記す。
今村 与志雄(いまむら よしお、1925年1月15日 - 2… 今村 与志雄(いまむら よしお、1925年1月15日 - 2007年1月22日)は、日本の中国文学者。 1925年、東京生まれ。1943年、東京府立第六中学校(現・都立新宿高等学校)を卒業し、東京大学文学部中国文学科で学んだ。 旧・東京都立大学助教授を務めたが、学園紛争に際し辞職。学界では、中国社会文化学会会員であった。 古典から近現代まで中国文学全般に通じ、魯迅研究を専門にした。古典作品(伝奇小説)も訳している。
田辺 広雄(田邊 廣雄、たなべ ひろお、1925年1月15日… 田辺 広雄(田邊 廣雄、たなべ ひろお、1925年1月15日 - 1999年4月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、名古屋市会議員(5期)、守山市議会議員などを務めた。 愛知県名古屋市生まれ。父親は守山町長を務めた。関西学院大学専門学校政経科卒業後、家業の毛織物会社を継いだ。1955年、守山市議会議員に立候補し当選。1963年に守山市が名古屋市と合併した後は名古屋市会議員を5期務め、議長も務めた。 1983年の衆議院選挙と1986年の衆議院選挙に旧・愛知1区から立候補するが落選。自民党内では安倍派に所属し、竹下派の今枝敬雄と公認を争った。 1990年2月18日に行われた衆議院選挙に自民党の公認を得て立候補し初当選。
殿岡 政雄(とのおか まさお、1925年〈大正14年〉1月1… 殿岡 政雄(とのおか まさお、1925年〈大正14年〉1月15日 - )は、日本の経営者。栃木県足利市出身。 興国化学工業(現在のアキレス)創立者・殿岡利男の長男。1945年に桐生工業専門学校を卒業し、1947年に興国化学工業に入社。 取締役、常務、専務を経て、1971年6月に副社長に就任し、1977年1月には社長に昇格した。1992年6月に会長を経て、2001年6月には取締役相談役に就任した。 1986年11月に藍綬褒章を受章し、1995年11月に勲三等瑞宝章を受章した。