二宮 丁三(にのみや ていぞう、1887年 - 1951年)… 二宮 丁三(にのみや ていぞう、1887年 - 1951年)は、日本の商学者。第3代兵庫県立神戸高等商業学校校長や、同校が大学に昇格して設立された兵庫県立神戸商科大学の学長事務取扱を経て、初代共立女子大学学長を務めた。 群馬県出身。群馬県立前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1911年東京高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1914年同校専攻部商工経営科卒業。1926年から2年間文部省在外研究員としてイギリスに留学し、山口高等商業学校教授兼山口市参事会員を経て、1941年兵庫県立神戸高等商業学校校長。同年叙正四位。令名高く、1948年には兵庫県立神戸商科大学学長事務取扱を兼務した。同年に退官後は、共立女子専門学校校長を経て、共立女子大学学長を務め、1951年に病気のため退任した。
林 初治(はやし はつ、1887年(明治20年) - ?)は… 林 初治(はやし はつ、1887年(明治20年) - ?)は、日本の第33代内閣総理大臣である林銑十郎の妻(内閣総理大臣夫人)。石川県金沢市出身。 1887年(明治20年)、加賀藩士である林孝儀の三女として生まれる。金沢第一高等女学校(現在の石川県立金沢二水高等学校)を卒業後、林銑十郎と結婚。四男四女を儲ける。 長男の練策は陸軍の山浦弘三の娘・道子と結婚し、次男の謙輔は初治の実家を継ぎ、三男の砺三は陸軍の小泉恭次の娘・展子と結婚。長女の純子は中田薬品の中田清兵衛の子・勇吉と、次女の倫子は加藤豪と、四女の禌子は官僚である斎藤樹の子の吉彦とそれぞれ結婚している。
稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - … 稲本 白鵞(いなもと はくが、1887年(明治20年) - 1920年(大正9年))は、教育者、書道家。現在の岡山県井原市出身。 1887年(明治20年)、稲本陽州の長女として岡山県後月郡山野上村(現在の井原市野上町)に生まれる。精徳尋常小学校を卒業後、父を頼って高梁へ行き、尋常小学校を出ただけであったが、順正高等女学校の編入試験に合格し、1909年(明治42年)21歳のときに女学校を卒業する。 1918年(大正7年)、31歳のとき福岡県の朝倉実科高等女学校に教諭として赴任し、1920年(大正9年)には山口県女子師範学校教諭となる。父と同じく書道に優れ、この時代の日本女流三筆とまで謳われた。和歌においても歌集を発刊するなど、文才をもって父・陽洲の志を継ぐものとして知られていたが、病に倒れ、満33歳、数え34歳で死去した。
三河 義行(みかわ よしゆき、旧姓:小崎、1887年(明治2… 三河 義行(みかわ よしゆき、旧姓:小崎、1887年(明治20年) - 1969年(昭和44年))は、日本の医師。医学博士。三河家住宅初代当主。 徳島県神山町出身。九州帝国大学医学部卒業。養父は三河定次郎。 徳島県名西郡上分上山村(現在の神山町)の小崎家に生まれ、後に三河定次郎の養子となる。また実弟は医師の小崎綏攝である。 1913年(大正2年)に九州帝国大学医学部(現在の九州大学医学部)を卒業し、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)にかけてドイツのベルリン大学で2年間の留学をしていた。 ドイツへ留学中に日本で起こった関東大震災のニュースを知り、震災にも耐えることが出来るコンクリート造りの家を建設すべく、三河家住宅を地元徳島県出身の木内豊次郎に設計させ、1929年(昭和4年)に完成した。
鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、… 鼓 常良(つづみ つねよし、1887年 - 1981年)は、日本の独文学者。 1987年、広島県で生まれた。東京帝国大学独文科で学び、1912年に卒業。 卒業後は教員となり、第八高等学校教授。戦後は大阪市立大学教授、後に大阪電気通信大学教授をつとめた。1962年、京都・桂に幼児教育研究所を設立し、その付属「月見が丘子どもの家」(横浜梶山モンテッソーリスクールの前身)で敗戦後最初のモンテッソーリ教育実践を始めた。 専門はドイツ文学で、美学、文芸学を研究。戦前はナチス文学の影響を受け、日本での宣伝に組した。晩年はモンテッソーリの教育学の翻訳をてがけ、自らも生活教育法(モンテッソーリ教育実践の秘訣)を著した。
福田 重義(ふくだ しげよし、1887年(明治20年) - … 福田 重義(ふくだ しげよし、1887年(明治20年) - 1971年(昭和46年)は、日本の建築家。大正期に長く東京市の建築家、建築行政家として、また都市計画の方面でも活躍した。 長崎県生まれ。1908年(明治41年)、東京帝国大学工科大学建築学部を卒業。同年の卒業生に出浦高介、田中実、渡辺節、徳大寺彬麿らがいる。 住友総本店臨時建築部(現日建設計)、三菱合資会社地所部(現三菱地所設計)を経て、1910年、東京市技師になる。在職中の1913年(大正2年)には横浜港開港50周年記念事業の公募設計(建築設計競技)で福田案が1等当選。設計原案ならびに基本構造設計を手がけた。その後、建築課長ののち、東京市都市計画試案を立案し調査課長、市場建設課長、営繕課長などを歴任。
藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本… 藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本の新聞記者、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。『東京毎日新聞』や『報知新聞』の記者を経て1919年に東京毎日新聞社社長となり、「厳正非中立」を掲げて組合運動や社会主義者、アナキストを支援。1923年にはヨッフェ訪日を実現させた。他方で貴族院の「研究会」の黒幕となり、日中戦争期には上海への麻薬の密輸に携わった。 1887(明治20)年、福岡県行橋市の生まれ。 中学卒業後、大陸へ密航し、馬賊になろうとした。 日本に帰国後、新聞『日本』の記者となり、東京毎日新聞や報知新聞の記者を経る。 1919(大正8)年から東京毎日新聞社社長。就任当時、「いさぎよく、正義と弱者と善に味方する」という意味の「厳正非中立」という標語を新聞の一面に掲げ、また銀座の社屋の屋上から垂れ幕を下げていた[要検証 – ノート]。
杉野繁一(すぎの しげいち、1887年 - 1973年)は、… 杉野繁一(すぎの しげいち、1887年 - 1973年)は、日本の建築家、教育者、実業家である。
村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 -… 村岡 儆三(むらおか けいぞう、1887年〈明治20年〉 - 1963年〈昭和38年〉2月6日)は、日本の出版業者・印刷業者。神奈川県横浜市出身。父は聖書印刷で知られる村岡平吉、妻は翻訳家の村岡花子(後妻、後述)。母方の従姉妹に社会運動家の賀川ハルがいる。 横浜商業学校(後の横浜市立横浜商業高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父の営む福音印刷合資会社(後の福音印刷株式会社)に入社し、父の事業を助けた。1914年(大正3年)に同社の東京市(後の東京都)銀座進出後、銀座支店の責任者となった。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけたが、妻が結核を発病し、別居を余儀なくされた。 後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳による『モーセが修学せし國』の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちた。
熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1… 熊岡 譲(くまおか ゆずる、1887年(明治20年) - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の海軍軍人。海軍潜水学校校長。潜水戦隊司令官を歴任。最終階級は海軍中将。 静岡県出身。静岡中学校を経て、1908年(明治41年)11月、海軍兵学校(36期)卒業。1910年1月、海軍少尉任官。1911年(明治44年)12月、海軍中尉、1913年(大正2年)12月、海軍大学校乙種学生、1914年(大正3年)12月、海軍大尉、1917年(大正6年)12月、海軍大学校入学(甲種学生)、1919年(大正8年)12月、海軍大学校甲種17期卒業・呂号第十三潜水艦艦長。1920年(大正9年)12月、海軍少佐、1924年(大正13年)12月、海軍中佐・第十四潜水隊司令、1929年(昭和4年)11月、海軍大佐、1935年(昭和10年)11月、海軍少将・海軍艦政本部第六部長、1936年(昭和11年)8月、第3潜水戦隊司令官、1937年(昭和12年)12月、第1潜水戦隊司令官、1938年(昭和13年)11月、海軍潜水学校校長。
金生 喜造(かのう きぞう、1887年 - 1982年)は、… 金生 喜造(かのう きぞう、1887年 - 1982年)は、日本の地政学者、地理学者。 福岡県立中学修猷館を経て、東京高等師範学校英語科を卒業した後、ベルリン大学外国人語学科に学ぶ。 中学修猷館の英語教諭などを務めた後、福岡日日新聞に入社し、主筆を務めるが、その傍ら、地政学に関する数多くのドイツ語文献を翻訳し、自らも地政学に関する著作を著す。1941年、設立された日本地政学協会の参与に就任。1943年、新聞統制により福岡日日新聞が九州日報と統合され西日本新聞となるとその調査部長に就任する。 戦後、公職追放を受けるが、解除後、西日本新聞副主筆、福岡市立拓殖専門学校講師などを務めている。
木村 尚一(きむら しょういち、1887年〈明治20年〉- … 木村 尚一(きむら しょういち、1887年〈明治20年〉- 1972年〈昭和47年〉2月14日)は、日本の実業家・大蔵官僚。 1887年、和歌山県出身。1908年、明治大学法科卒業。高等文官試験行政科に合格し、大蔵省に入省。 大蔵省専売局参事、村井銀行理事、極東鉱業常務、中島工業監査役、大阪府理事、京都市電気局長等を歴任。 1934年、桜麦酒社長に就任。着任後1年足らずで経営を再建。1943年の大日本麦酒との合併に伴い、常務に就任。1948年の日本麦酒酒造組合設立時には副会長に就任。その他、日本工業倶楽部役員、日本青年連盟理事、サッポロビール監査役、文化放送理事などを務めた。晩年は漢詩に傾倒した。
高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2… 高松 孝治(たかまつ たかはる、1887年 - 1946年2月13日)は、日本の神学者、教育者、聖職者。立教大学教授、大学チャプレン(牧師)、立教学院理事。ギリシア語の権威で語学の天才と呼ばれた。 立教大学文科(現在の文学部)を1回生として1911年(明治44年)に卒業した。小島茂雄(立教大学元文学部長、立教中学校元校長)や久保田正次(立教大学元教授、立教大学野球部元部長、商学部卒)と同級であった。 その後、聖公会神学院を経て渡米し、ケンブリッジ神学院、ハーバード大学神学部で学び神学博士(DD)を取得した。ギリシア語も修学する。 帰国後、京都聖マリア教会の牧師を務める。高松は立教学院のミッションでは1909年に伝道部主任、1910年には日曜学校部を担当する。
小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978… 小田嶋 十黄(おだじま じゅっこう、1887年 - 1978年2月5日)は、東京市本郷区出身の日本の男性俳人、俳画家、洋画家。本名は小田嶋 義(おだじま よし)。別号に得魚洞。元社団法人現代俳画協会顧問。元パイロット万年筆顧問。 小学校卒業後、12歳で高尾山薬王院に入って僧となり、同寺の僧で俳誌「俳諧草紙」の主要俳人であった南南浪の勧めにより渡辺水巴に師事し俳句を学んだ。のち還俗し、洋画家を経て、俳句・俳画に専心するに至る。とりわけ俳画に独自の境地を拓いたことで知られ、現代俳画協会顧問、俳誌「南柯」顧問を務めるなど、斯界の発展に貢献した。著書に『俳画入門』『俳画への道』、句集に『ほそ道』などがある。
マティ・マツダ (Matty Matsuda、1887年 -… マティ・マツダ (Matty Matsuda、1887年 - 1929年10月15日) は、アメリカ合衆国で活躍した、20世紀初頭の著名な日本人プロレスラー、柔道家で本名は松田萬治郎(まつだ まんじろう、松田万次郎の表記もみられる)。 日本人プロレスラー初の世界王者になった人物。スポーツ記者から、熟練したレスラーであり紳士と評され、アメリカ合衆国での故郷となるテキサスエルパソの人々からは故郷からやってきた英雄として迎えられ、そして非常にクリーンで上品、そして賢いレスラーという印象だったという。現役時代の身長は170センチメートル、体重は85キログラム。得意技はフライング・メア(アームスピン投げ)。