乾 健斗(いぬい けんと、2006年6月28日 - )は、茨… 乾 健斗(いぬい けんと、2006年6月28日 - )は、茨城県水戸市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。オリックス・バファローズ所属。 小学校時代は軟式野球の『水戸サムライボーイズ』、水戸市立見川中学校時代は硬式野球の『水戸リトルシニア』でプレーした。 霞ヶ浦高校へ進学し、3年夏の茨城大会で公式戦デビューを果たし、3試合・8回2/3を投げて防御率2.08を記録。甲子園大会でも背番号11でベンチ入りし、智弁和歌山との2回戦(初戦)では登板機会が無かったものの、続く滋賀学園との3回戦で5点ビハインドの9回表から登板し、1イニングを三者凡退に抑えた。 2024年10月24日に開催されたドラフト会議にて、オリックス・バファローズから育成6位指名を受けた。
春田 剛(はるた つよし、1987年5月31日 - )は、茨… 春田 剛(はるた つよし、1987年5月31日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、高校野球指導者。 小学3年で野球を始める。 水戸短期大学附属高等学校(現・水戸啓明高等学校)に進学。甲子園には縁がなかったものの、地元では飛びぬけた存在だった。高校入学後の1年春から4番を任され、通算本塁打は44本。プロ8球団が注目した。また、140km近い速球を投げ、左腕クローザーとして投手も兼任した。 その後、2005年の高校生ドラフトで中日ドラゴンズから3巡目で指名され、入団。 2006年は高卒新人ながら二軍で打率.241、チーム最多の7本塁打と活躍した。 落合監督曰く「ライトには孝介が居るから」との理由で2007年から一塁手へコンバートされ、内野手登録となった。
小林 聡(こばやし さとし、1977年8月21日 - )は、… 小林 聡(こばやし さとし、1977年8月21日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 中学1年の時に野球を始める。水戸農業高では2年次の夏の茨城大会ベスト8が最高成績。 1995年ドラフト会議で読売ジャイアンツに6位で入団。 2年目の1997年にシーズン最終戦ながら一軍初登板するが、その後は一軍で登板することなく1999年に戦力外通告を受ける。横浜ベイスターズの入団テストを受けたが不合格に終わり現役を引退した。
岩本 守道(いわもと もりみち、1972年7月3日 - )… 岩本 守道(いわもと もりみち、1972年7月3日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(外野手)。 中学生の時は400m走全国2位の脚力だった。 茨城東高から、1990年オフにドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。投手として入団したが、外野手に転向。しかし、一軍公式戦に出場がないまま1997年限りで現役を引退。 その後は、スポーツジムのインストラクターを務めている。
藤田 正大(ふじた まさひろ、1972年6月10日 - )… 藤田 正大(ふじた まさひろ、1972年6月10日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(内野手)。 緑岡高では、内野手だけでなく捕手や外野手の経験もあり、公式戦通算打率は4割を超えていた。 オフ、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。一軍公式戦出場のないまま1997年限りで現役を引退。
加茂川 重治(かもがわ しげはる、1966年3月17日 - … 加茂川 重治(かもがわ しげはる、1966年3月17日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 水戸市立緑岡中学校時代は、茨城県内の古豪である水戸商業高校への進学を考えていたが、自宅を訪ねて来た当時創立3年目の茨城東高野球部監督から「必ず3年後、甲子園に連れて行く」と誘われ、同校に進学しエースとして活躍。2年秋の県大会では決勝で取手二高を下して優勝したが、関東大会初戦で横浜商の三浦将明に完投されて敗れた。1983年夏の県大会決勝で、大久保博元がマスクを被る水戸商業高を下し、夏の甲子園に初出場を果たす。2回戦(初戦)で市尼崎高と対戦、池山隆寛に本塁打を浴び延長10回惜敗。 1983年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から4位指名を受け入団。
冨田 勇(とみた いさむ、1964年12月15日 - )は、… 冨田 勇(とみた いさむ、1964年12月15日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 茨城・大宮高から、1982年オフにドラフト外で阪急ブレーブスに入団。 1988年限りで現役を引退。1989年は打撃投手を務めた。 右の上手投げから、スライダー、カーブ、シュートを武器とした。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
橋本 實(はしもと みのる、1947年11月21日 ‐ 20… 橋本 實(はしもと みのる、1947年11月21日 ‐ 2012年9月18日)は、日本の高校野球指導者。茨城県出身。 水戸市の生まれ。水戸市立水戸第二中学校で野球を始め、茨城県立緑岡高等学校では三塁手だった。中央大学に進学したが肩を傷めて2年の時に退部。教員免許取得に専念した。卒業後に帰郷。 1975年に茨城県立岩井高等学校の野球部監督に就任してから、高校野球監督としてのキャリアをスタート。1984年に茨城県立佐竹高等学校に転じ、同校を県大会ベスト8まで進出させた。この実績を買われ、1987年に茨城県立水戸商業高等学校赴任。翌年夏から監督に就任した。伝統校の水戸商をOB以外が率いるのは史上2人目だった。
飯島 秀雄(いいじま ひでお、1943年1月1日 - )は、… 飯島 秀雄(いいじま ひでお、1943年1月1日 - )は、日本の陸上短距離選手、元プロ野球選手・コーチ。 1964年、100メートルの日本記録を29年ぶりに更新した。1964年東京オリンピックおよび1968年メキシコシティーオリンピックでは日本代表選手となる。 メキシコシティーオリンピック後に俊足を買われ、代走専門選手として1969年にプロ野球・ロッテオリオンズに入団し、実働3年間で通算盗塁数は23を記録した。 その後は指導者・審判員・スターターとして陸上界に復帰した。 茨城県水戸市出身。父は郵便局員で、7人きょうだいの三男だった。父は町内運動会で俊足を披露しており、少年時代の飯島も運動会では負け知らずだった。
篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城… 篠田 勇(しのだ いさむ、1940年7月4日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(内野手)。 水戸商では、1958年の夏の甲子園に遊撃手として出場。3回戦で石川陽造、岡村浩二のバッテリーを擁する高松商に延長16回0-1xでサヨナラ負け。卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、1961年春季リーグ、1963年秋季リーグで打撃成績2位を記録、両季とも三塁手としてベストナインに選ばれている。 1964年に国鉄スワローズに入団、同年のジュニアオールスターにも出場する。1965年には水戸商の先輩でもある豊田泰光が故障で戦線離脱したため、主に遊撃手として85試合に出場(うち43試合に先発)。
玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )… 玉造 陽二(たまつくり ようじ、1936年8月17日 - )は、茨城県水戸市出身の元プロ野球選手(外野手)。 水戸一高では中堅手として、エース橋本政雄(西鉄)を擁し1954年の夏の甲子園に出場。しかし1回戦で、この大会に優勝した中京商の中山俊丈投手に完封負け。 飛田穂洲をはじめ、早大野球部色が強い水戸一高に在籍しながらも慶大への進学を希望していたが卒業後は橋本とともに1955年に西鉄ライオンズ入団、高卒ルーキーながら一軍に定着する。翌1956年には外野陣の一角に喰い込み、5月からは一番打者に起用される。同年は規定打席には届かなかったが打率.297を残した。1956年からの3年連続日本一に貢献、西鉄黄金時代を支えた名脇役の一人である。
加倉井 実(かくらい みのる、1934年6月29日 - 19… 加倉井 実(かくらい みのる、1934年6月29日 - 1998年6月23日)は、茨城県水戸市出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 水戸商業高校では高校同期の豊田泰光らとともにクリーンアップを組み、一塁手・三番打者として活躍、控え投手としても起用される。1951年秋季関東大会県予選は決勝で竜ヶ崎一高に敗退。1952年の春季関東大会では準決勝に進み、エース衆樹資宏を擁する湘南高と延長15回の熱戦の末にサヨナラ負けを喫する。同年の夏の甲子園に出場。1回戦で都留高のエース矢頭高雄を打ち崩し2回戦に進むが、成田高に敗退。この試合ではエース高畑正盛(富士重工)をリリーフして甲子園初登板を果たす。 1953年に読売ジャイアンツへ入団。
根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 19… 根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県那珂郡東海村出身(水戸市生まれ)のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督・実業家、解説者。 引退後は近鉄バファローズコーチ、広島東洋カープコーチ・監督、クラウンライター→西武ライオンズ監督、福岡ダイエーホークス監督の他、西武ライオンズ球団管理部長、福岡ダイエーホークス代表取締役専務・代表取締役社長と、球団フロントの要職を歴任した。 ニックネームは「球界の寝業師」、ドラフト会議やトレードで辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」(#根本マジック参照)、「黄金時代の陰に根本あり」とも称された。肩書きこそ違ったが、事実上のGMとしてその敏腕ぶりを発揮。
杉浦 竜太郎(すぎうら りゅうたろう、1923年10月10日… 杉浦 竜太郎(すぎうら りゅうたろう、1923年10月10日 - 1994年1月26日)は、茨城県水戸市出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 水戸工業から山藤クラブ、社会人野球の熊谷組を経て、1951年に広島カープへ入団した。小柄だがコーナーワークがよく、サイドスローから繰り出すカーブ、シュートを使ってのチェンジオブペースを武器に活躍した。 入団した51年に長谷川良平が中耳炎を患っていたこともあり、新人でありながら異例の開幕投手を任された。杉浦は強力阪神打線をわずか7安打1点に抑えて完投勝利を挙げた。喜びに浸るのも束の間、杉浦は翌日も先発する。その2試合後に救援で登板すると翌日は再び先発するなど、苦しい台所事情の中で大車輪の活躍を見せた。
飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12… 飛田 穂洲(とびた すいしゅう、1886年〈明治19年〉12月1日 - 1965年〈昭和40年〉1月26日)は、茨城県出身の野球選手(内野手)、学生野球指導者、野球評論家、編集者、新聞記者。本名は飛田 忠順(とびた ただより、とびた ちゅうじゅん)。 日本の学生野球の発展に多大な貢献をしたことから、学生野球の父と呼ばれる。 茨城県東茨城郡大場村(現在の水戸市)出身。父親は、大場村初代村長でもある豪農であった。水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)卒業後、1907年(明治40年)に父親の反対を押し切って早稲田大学専門部法学科に進学、野球部に入部する。この時、保証人になったのが小説家の押川春浪であり、下宿で同室であったのが針重敬喜であった。