金田 優太(かねだ ゆうた、2005年2月12日 - )は、… 金田 優太(かねだ ゆうた、2005年2月12日 - )は、埼玉県川口市出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投左打。千葉ロッテマリーンズ所属。 川口市立芝富士小学校3年生のときに野球を始め、芝富士ゴールデンイーグルスに所属。中学まで軟式でプレーし、中学3年時に川口市の選抜チーム川口クラブに選出され、第36回全日本少年軟式野球大会にエースとして出場。また、U-15アジア野球選手権大会の日本代表に選出された。チームメイトには浅野翔吾や上加世田頼希らがいた。 その後、浦和学院高等学校に進学するが、硬式出身の選手の活躍に押され、思うような結果が残せず1年時はBチームで過ごした。2年の春からベンチ入りすると、一塁手としてレギュラーを任され、投手も兼任。
相原 雄太(あいはら ゆうた、2002年6月16日 - )は… 相原 雄太(あいはら ゆうた、2002年6月16日 - )は、埼玉県川口市出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。右投右打。福岡ソフトバンクホークス所属。 小学校1年生から野球を始めた。 伊奈学園総合高校では1年時から内野手として公式戦に出場した。「4番・遊撃手」で臨んだ2年夏の埼玉大会は、正智深谷との初戦(2回戦)で敗退。新チームではエースナンバーを背負ったが、2年秋は地区予選で北本に敗れた。3年夏は新型コロナウイルスの影響で甲子園大会およびその出場権を懸けた地方大会が中止となり、独自代替大会(埼玉)にエース兼4番として臨んだが、本庄第一との初戦(2回戦)で敗退。2020年11月にはトミー・ジョン手術を受けた。
大道 温貴(おおみち はるき、1999年1月20日 - )は… 大道 温貴(おおみち はるき、1999年1月20日 - )は、埼玉県川口市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。東京ヤクルトスワローズ所属。 小学校2年生の時に父の仕事の関係で暮らしていたシンガポールで野球を始め、6年生の時に帰国。川口市立八幡木中学校では軟式野球部に所属し捕手から投手に転向した。 春日部共栄高等学校では、2年春よりベンチ入りし秋からエース。3年夏は県ベスト4に終わり、甲子園出場経験はなかった。 進学した八戸学院大学では、1年春よりベンチ入りを果たし、4年秋季リーグの対富士大学戦では18奪三振を記録し、最終的には奪三振率13.0を記録した。北東北大学野球連盟での通算成績は22勝7敗、防御率1.75。
中村 美樹(なかむら みき、1996年7月31日 - )は、… 中村 美樹(なかむら みき、1996年7月31日 - )は、埼玉県川口市出身の女子ソフトボール選手(投手)。 父の影響で6歳の時にソフトボールを始めた。高校生のときに日本代表ジュニアの選出経験がある。2018年前半に日本代表メンバーとして東アジアカップに出場した。 独特なフォームから繰り出される100km/hを超える速球や、緩急を用いたピッチングが特徴。多彩な変化球で打者を打ち取っていた元太陽誘電の坂井寛子を目標としている。 三姉妹の末っ子で、3人ともソフトボール選手。上2人はトヨタ自動車所属で、特に次姉の中村友佳(元日本代表)は逸材と期待されていたが、同僚にモニカ・アボットや山根佐由里がいたため登板機会が少ないまま引退した。
我妻 悠香(あがつま はるか、1994年12月18日 - )… 我妻 悠香(あがつま はるか、1994年12月18日 - )は、埼玉県川口市出身の女子ソフトボール選手(捕手)。ソフトボール日本代表。2021年開催の東京オリンピック金メダリスト。 友達に誘われたのがきっかけで11歳からソフトボールを始めた。2010年、星野高等学校1年生でインターハイ優勝を経験。高校卒業後、2013年に日本リーグの強豪ルネサスエレクトロニクス高崎に入団。同年、世界ジュニア選手権メンバーに選ばれ金メダルを獲得した。 ルネサスエレクトロニクス高崎では北京オリンピック金メダリストの峰幸代が正捕手を務めていたが、峰が現役を退いた2015年以降は出場機会が増えた。2015年には打率.414を記録してベストナイン(捕手)を受賞した。
谷田成吾(やだ せいご、1993年5月25日 - )は、埼玉… 谷田成吾(やだ せいご、1993年5月25日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(外野手)、経営者。2019年12月19日から2023年1月31日まで、四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの取締役兼球団代表を務めた。2023年5月から2024年3月まで、関西独立リーグ(さわかみ関西独立リーグ)の専務理事を務めた。 慶應義塾高校時代に1年次から4番を打ち、高校通算76本塁打。慶應義塾大学時代に東京六大学通算15本塁打を打ち、「高橋由伸2世」とも呼ばれるなど注目された。 大学4年次の2015年にドラフト会議において上位指名が予想されたが、大学の同期である山本泰寛が読売ジャイアンツ、横尾俊建が北海道日本ハムファイターズに指名される中での指名漏れとなった。
髙木 伴(たかぎ ばん、1990年6月1日 - )は、埼玉県… 髙木 伴(たかぎ ばん、1990年6月1日 - )は、埼玉県川口市出身の社会人野球選手、元プロ野球選手(投手)。 飯塚小学校3年生の時にソフトボールを始めた。西中学校では軟式野球部で主に遊撃手だったが、川口市立川口高等学校では1年生時の冬に投手に転向した。高校3年間で甲子園出場経験は無く、東京農業大学では1年生時の春から出場、東都大学野球・2部リーグでは通算32試合で7勝6敗の成績だった。 大学卒業後にNTT東日本へ入社すると、第84回都市対抗野球大会の1回戦に先発登板、6回1/3を投げ自責点1、防御率1.42だった。10月には台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された。
靍岡 賢二郎(つるおか けんじろう、1987年7月7日 - … 靍岡 賢二郎(つるおか けんじろう、1987年7月7日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。右投右打。 苗字の「靍」(「雨かんむり」に「隹」と「鳥」)は環境依存文字であるため、一部Webサイトにおいては常用漢字である「鶴」に置き換えた「鶴岡」、平仮名に置き換えた「つる岡」やカタカナに置き換えた「ツル岡」の表記も用いられる。「雨かんむり」に「鶴」を書いた「靏岡」は誤り。 春日部共栄高校時代は強肩強打の捕手として知られ、3年時に主将兼4番打者として夏の埼玉県大会の決勝戦進出に貢献。決勝戦では2年生エース投手の木村文和を擁する埼玉栄高校と対戦、1対4と3点リードされた9回表二死満塁の場面で、2ストライクと追い込まれながら同点打となる走者一掃の3点適時三塁打を木村から放った。
小林 憲幸(こばやし のりゆき、1985年2月9日 - )は… 小林 憲幸(こばやし のりゆき、1985年2月9日 - )は、埼玉県鳩ヶ谷市(現:川口市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。NPBでは育成選手であった。 埼玉県立川口高校から城西国際大学へ進学。進学後は、クラブチームの全浦和野球団に所属した。 2005年に大学を休学。同年に発足した四国アイランドリーグ・徳島インディゴソックスに入団すると、入団1年目からストッパーとして活躍した。入団2年目には最多セーブポイントのタイトルを獲得。なお、大学は入団後に中退している。 2007年の育成ドラフト会議で、NPBの千葉ロッテマリーンズから3巡目で指名。育成選手として入団した。徳島からNPBの加盟球団へ入団した選手は、この時の小林が初めてであった。
平野 将光(ひらの まさみつ、1983年6月28日 - )は… 平野 将光(ひらの まさみつ、1983年6月28日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 中学校時代は軟式野球部に所属し埼玉県大会で優勝。浦和実業高校では2年秋に県大会決勝で浦和学院の大竹寛と投げ合って延長10回の末に惜敗、関東大会は初戦を完投勝利してベスト8。平成国際大学へ進みリーグ通算5勝、2006年に社会人野球のJR東日本東北に入社。ここで素質が開花し、攝津正と2枚看板として活躍した。第78回都市対抗野球大会に補強選手で出場。大学の先輩と後輩にはチームメイトとなる山崎敏と牧田和久がいた。 2007年の大学・社会人ドラフトで埼玉西武ライオンズから1巡目で指名を受けて入団。
石井 義人(いしい よしひと、1978年7月12日 - )は… 石井 義人(いしい よしひと、1978年7月12日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ。愛称は「ジャッキー」。 小学生で前川バンビーズ、中学時代は越谷リトルシニアに在籍。浦和学院高等学校時代の1994年に第76回全国高等学校野球選手権大会(2回戦敗退)、1996年に第68回選抜高等学校野球大会(2回戦敗退)、第78回全国高等学校野球選手権大会(初戦敗退)と3度甲子園出場を果たした。三浦貴は高校時代の同級生で、当時は三浦がエースを務め、石井が4番を打っていた。1年上に木塚敦士がいた。 1996年のドラフト会議にて横浜ベイスターズから4位指名を受け入団。 1999年は5月にジュニア月間MVPを獲得したが、7月に右足の腫瘍を手術し、残りは治療に専念した。
遠藤 良平(えんどう りょうへい、1976年6月28日 - … 遠藤 良平(えんどう りょうへい、1976年6月28日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。北海道日本ハムファイターズ執行役員。兄はオートレース選手の遠藤誠(25期、浜松オートレース場所属)。 小学1年でリトルリーグ入りし、投手兼外野手としてプレー。中学時代に軟式野球で外野手に専念。筑波大学附属高校では2年秋からエースも3年夏は遠藤竜志がいた修徳高校に敗れた。その後、自分が神宮でプレーできるとすれば東大だけだ、と野球のために東大を受け、一浪の末合格。きっかけは高校時代に神宮第二球場でプレーしたときに神宮でプレーをしたいと強く思ったことから。なお、大学では教育学部でスポーツ科学や運動生理学などを学ぶ身体教育学コースを専攻した。
北原 泰二(きたはら たいじ、1971年4月30日 - )は… 北原 泰二(きたはら たいじ、1971年4月30日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手・内野手)。 小学4年の時にリトルリーグに入り野球を始める。川口工業高では、エースとして1989年春の県大会優勝、関東大会では準々決勝で佐野日大の麦倉洋一と延長10回を投げあって惜敗。夏の県大会は準決勝に進むが、川越商に敗退。同年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから6位指名を受け入団。 1992年にオーバースローからサイドスローに転向すると、同年に一軍初登板を果たす。1995年にイースタン・リーグで最優秀救援投手を受賞。同年オフ、桜井伸一との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍する。1996年シーズン途中から内野手に転向する。
長岡 学(ながおか まなぶ、1969年11月5日 - )は、… 長岡 学(ながおか まなぶ、1969年11月5日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(外野手)。 市立川口高では1年時の夏からレギュラーで活躍、2年秋の県大会決勝では本塁打を放って優勝したが関東大会初戦で常総学院の島田直也に完封されて6回コールドで敗退。 1987年のNPBドラフト会議で、近鉄バファローズから5位で指名された後に入団した。背番号は53。チームメイトの牛山晃一も阪神タイガースからの5位指名を受け入団した。 「報道では『高校時代に対外試合で30本の本塁打を放った』と伝えられているが、実際の本塁打数は50本以上」と自ら豪語するほどの長打力と俊足の持ち主であったことに加えて、当時の近鉄の一軍外野陣に淡口憲治・栗橋茂などのベテラン選手が揃っていたことから、入団当初は「将来の4番打者候補」として期待されていた。
福島 明弘(ふくしま あきひろ、1967年9月20日 - )… 福島 明弘(ふくしま あきひろ、1967年9月20日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(投手)。現在は福嶋 明弘(読み同じ)名義で千葉ロッテマリーンズで打撃投手を務めている。 大宮東高では水沢正浩との2本柱、1985年のドラフト3位指名を受け、近鉄バファローズに入団。1989年はルーキーリーグ・ソルトレイクシティ・トラッパーズに野球留学した。 一軍出場のないまま、1993年に現役引退。千葉ロッテマリーンズの打撃投手に転身した。 1998年、名字を福嶋に改姓した。 2020年9月8日、本拠地での対北海道日本ハムファイターズ13回戦において、香月一也とのトレードで入団したばかりの澤村拓一が、移籍後初登板にユニフォームが間に合わなかったため、福嶋のユニフォームを借りてマウンドに上がった。
渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )… 渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手)。 日大二高から日本大学へ進学、東都大学野球リーグでは2年秋からは2部リーグであった。1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名され入団。 1989年から一軍初出場を果たす。 1991年には33試合に出場する。 1996年オフに戦力外通告を受け現役を引退した。その後、球団フロント入りし、編成部((調査担当、渉外担当)に所属し、プロ野球2軍調査担当経て、MLB調査担当として、マイナーリーグを中心にスカウティング担当し、2000年オフに退団。2001年からは、スポーツマネジメントを手掛ける株式会社SPORTS BIZに務める。
斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は… 斎藤 雅樹(さいとう まさき、1965年2月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(投手)、指導者。読売ジャイアンツ二軍監督。
駒崎 幸一(こまざき ゆきいち、1959年8月30日 - )… 駒崎 幸一(こまざき ゆきいち、1959年8月30日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(外野手)。 川口工業高では、左翼手で中心打者として活躍。強打の選手として注目され、1977年に夏の甲子園埼玉県予選決勝で熊谷商高を降し、チームを甲子園初出場に導く原動力となった。甲子園では、2回戦(初戦)で智辯学園高のエース山口哲治に抑えられ敗退。 その年のプロ野球ドラフト会議でも指名候補としても注目されていたが指名はなく、社会人野球の日本通運に進んだ。高校卒業でプロ入りしなかった理由としては、甲子園の初戦でチームが大敗(0-12)し自分も活躍できなかった(山口から1安打を放つも最終打席は併殺打となり試合終了)ことから、プロ入りに対する自信がなくなったことが一因だった。
高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 20… 高木 時夫(たかぎ ときお、 1937年4月21日 - 2006年1月23日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 浦和高校時代はサッカーをしていたこともあった。捕手として1954年秋季関東大会県予選決勝に進むが、浦和商に惜敗。高校卒業後は日本大学へ進学し、東都大学リーグでは在学中3度の優勝を経験。宮田征典とバッテリーを組み、1959年秋季リーグの優勝に貢献。リーグ通算31試合出場、73打数20安打、打率.274、0本塁打、6打点、ベストナイン1回受賞。大学同期に会田豊彦・黒木基康(大洋)・笹木士朗(日本鋼管)らがいた。大学卒業後は富士製鐵釜石に入社し、1961年に常磐炭砿の補強選手として都市対抗に出場。