渡辺 竜五(わたなべ りゅうご、1965年〈昭和40年〉3月… 渡辺 竜五(わたなべ りゅうご、1965年〈昭和40年〉3月25日 - )は、日本の政治家。新潟県佐渡市長(2期)。 新潟県相川町(現・佐渡市)出身。1983年(昭和58年)3月、新潟県立相川高等学校卒業。同年4月、相川町役場に採用される。合併後の佐渡市役所では農林水産課長、総合政策課長、総務課長、社会教育課長などの要職を歴任した。2019年(平成31年)3月、退職。 2019年(平成31年)4月、サンフロンティア佐渡株式会社の専務取締役に就任。同年11月、退職。11月30日、任期満了に伴う佐渡市長選挙に立候補する意向を表明した。 2020年(令和2年)4月12日執行の市長選に市議15人から支援を受けて立候補。
近藤 基彦(こんどう もとひこ、1954年2月15日 - 2… 近藤 基彦(こんどう もとひこ、1954年2月15日 - 2018年11月17日)は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)。父は衆議院議員・農林水産大臣を務めた近藤元次。 新潟明訓高等学校を経て、1976年に日本大学理工学部建築学科を卒業。父・近藤元次衆議院議員の秘書となる。 1996年の第41回衆議院議員総選挙に新潟2区から無所属で立候補し落選。2000年の第42回衆議院議員総選挙で初当選。当選時は無所属で、保守系無所属議員による会派「21世紀クラブ」に所属していたが、のちに自民党に入党。以後、連続3期当選。自民党農林部会長など農政通として活動。農林水産委員会(理事)、文部科学委員会、北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会(理事)を務める。
川口 徳一(かわぐち とくいち、1939年(昭和14年)11… 川口 徳一(かわぐち とくいち、1939年(昭和14年)11月8日 - )は、日本の政治家。元新潟県両津市(現・佐渡市)長(3期)。 新潟県佐渡郡両津町(のち両津市、現・佐渡市)出身。1958年、新潟県立両津高等学校卒。地元の漁業協同組合に入り、参事を務める。1995年の両津市長選挙に立候補し初当選する。1999年、2003年と続けて当選した。2004年に両津市は合併で佐渡市となり、合併後の佐渡市長選挙に立候補したが、元真野町長の高野宏一郎に敗れた。4年後の佐渡市長選挙に再び立候補したが落選した。
髙野 宏一郎(たかの こういちろう、1939年4月27日 -… 髙野 宏一郎(たかの こういちろう、1939年4月27日 - )は、日本の政治家。初代新潟県佐渡市長(2期)。 新潟県佐渡市出身。慶應義塾大学商学部卒業。 佐渡テレビジョン代表取締役社長、マルゴ味噌代表取締役社長等を経て、2000年真野町長に就任。 2004年佐渡市初代市長に就任。2期8年務め、2012年任期満了に伴い退任。 現在は「曽我さん母娘を救う会」顧問を務める。
伊豆野 一郎(いずの いちろう、1925年(大正14年)8月… 伊豆野 一郎(いずの いちろう、1925年(大正14年)8月18日 - 2001年(平成13年)6月7日)は、昭和から平成時代の政治家。新潟県両津市長。 新潟県出身。両津高等小学校卒業。 両津市議会議員2期、新潟県議会議員2期を経て、1984年(昭和59年)両津市長に当選。3期務め、1995年(平成7年)引退した。
粕谷 照美(かすや てるみ、1924年〈大正13年〉4月19… 粕谷 照美(かすや てるみ、1924年〈大正13年〉4月19日 - 2023年(令和5年)12月9日)は、日本の教育者、政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 新潟県佐渡郡(現・佐渡市)出身。1943年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒。新潟県内の小中学校の教員を務め、新潟県教職員組合執行委員、日本教職員組合中央執行委員を経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区から日本社会党公認で立候補して当選。3期務める。国会内では逓信委員長、環境対策特別委員長などを歴任、党内では中央執行委員、教育文化局長などを務めた。芸大事件の追及などを行った。1992年の第16回参議院議員通常選挙に出馬せず引退した。
氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月2… 氏田 良隆(うじた よしたか、1909年(明治42年)3月22日 - 没年不明)は、日本の政治家。新潟県両津市(現・佐渡市)長(4期)。 新潟県出身。1923年、加茂村(のち両津市、現・佐渡市)立尋常高等小学校卒。1933年、加茂村役場書記となり、のちに白瀬水電(株)に入り、会計課長となった。戦後の1947年、加茂村議会議員に当選、議長を務めた。1951年、加茂村長となる。1954年、加茂村は合併により、両津市が発足。合併後の市長選挙に立候補し、当選する。1958年に再選し、1962年は出馬しなかった。この間、新潟東観光(株)取締役、佐渡汽船(株)監査役を歴任した。4年後の1966年に両津市長に復帰、1970年に再選し、市長を1974年まで務めた。
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 188… 有田 八郎(ありた はちろう、旧字体: 有田 八郞、 1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年〈昭和40年〉3月4日)は、日本の外交官、政治家。貴族院議員(勅選)、衆議院議員(1期)。号は澤農。旧姓山本。新潟県平民。 新潟県佐渡郡真野村(現佐渡市真野)出身。山本家に生まれ、有田家の養子となった。早稲田中学校、第一高等学校を経て、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒業、外務省入省。 外務省ではアジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使などを務める。1936年(昭和11年)、廣田内閣の外務大臣として初入閣。1938年(昭和13年)2月10日に貴族院議員に勅撰。
林 儀作(はやし ぎさく、1883年(明治16年)2月19日… 林 儀作(はやし ぎさく、1883年(明治16年)2月19日 - 1935年(昭和10年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。号は濁川。 新潟県雑太郡相川町(現在の佐渡市)出身。佐渡鉱山学校卒業後、佐渡毎日新聞に勤務。同郷の長谷川世民(本名:長谷川淑夫、長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎兄弟の父)に誘われて函館に渡り、北海新聞に入るが、筆禍事件により禁固刑を受ける。出獄後は平出喜三郎が経営する函館新聞で編集長を務め、後に函館日日新聞理事・主筆となった。その他、東洋印刷会社社長、財団法人函館共働宿泊所理事長、函館東部職業紹介所所長を歴任した。 函館市会議員、北海道会議員、同参事会員を経て、1932年の第18回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。
本間 宇兵衛(ほんま うへえ、1871年3月24日〈明治4年… 本間 宇兵衛(ほんま うへえ、1871年3月24日〈明治4年2月4日〉 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。 新潟県佐渡郡畑野村(現佐渡市)生まれ。1890年4月、商業目的のため北海道札幌市南三条東一丁目に一時身を寄せ各地視察の途にあったが、8ケ月間にして遂げるに至る。 後兵役検査のため一時帰国し、1893年来道、日高国幌泉郡に移住し5ケ年間商業に奮闘する。1898年の秋に十勝は未開地で広漠たる平原地と知り、同年広尾港に転住し、日用雑貨商を営む。 日増人口増加に伴い、海産物仲買その他醤油味噌製造販売業を経営し、一歩を進め、事業を拡張し、販路を広め、優良品本位を以て、需要者に販売し、予期以上の成功を遂げる。
中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久… 中山 小四郎(なかやま こしろう、1861年4月19日(文久元年3月10日)- 1928年(昭和3年)5月7日)は、明治期から昭和初期の林業家、政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡河原田町長。1914年(大正3年)五兵衛に改名した。 佐渡国雑太郡川原田町(新潟県佐渡郡河原田町、佐和田町を経て現佐渡市河原田本町)で、代々酒造業を営む中山家当主・中山五平の三男として生まれる。中山立恭、圓山溟北から漢籍を学び、その後上京して共立学校(現開成中学校・高等学校)で学んだ。兄・五兵衛が本間吾平の養子となり、1890年(明治23年)5月に家督を相続した。 河原田町会議員、同町長を務めた。1890年(明治23年)米の高騰で相川町で米一揆が起こり、川原田町貧民救助基金に寄付を行った。
松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年… 松井 源内(まつい げんない、1858年8月30日(安政5年7月22日) - 1913年(大正2年)3月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、寿都町長。旧姓・若林、初名・忠太郎。 佐渡国雑太郡吉岡村(現新潟県佐渡市吉岡)で農業・若林源右衛門の二男として生まれ、同村・先代松井源内の養子となる。その後、養父の死去に伴い源内を襲名した。 1873年、義兄・高野吾吉に伴われ江差に移り、同地の呉服商・本郷家に奉公し、各地に行商した。1884年、寿都に移り同地で義兄・高野吾吉が経営していた呉服店を帰郷する高野から譲り受け、さらに海産仲買業、醸造業、回漕業、漁業などにも経営を広げた。また、寿都外三郡酒造組合長、後志興農銀行 (株) 取締役、寿都銀行 (株) 取締役、寿都倉庫 (株) 社長、寿都汽船 (株) 社長などを務めた。
鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2… 鵜飼 郁次郎(うかい いくじろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1901年(明治34年)9月27日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 佐渡国加茂郡河崎村(新潟県佐渡郡河崎村、両津市を経て現佐渡市)出身。1876年、新潟師範学校卒。卒業後は東京府雇、新潟師範学校教員、中学校教諭、新潟県会議員となる。また、雑誌「回天」を発行する。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において新潟9区から自由倶楽部公認で立候補して初当選する。1892年の第2回衆議院議員総選挙では独立俱楽部から立候補して再選した。1894年の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して落選した。1901年に死去した。
市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6… 市橋 藤蔵(藤藏、いちはし とうぞう、1854年(安政元年6月)- 1923年(大正12年)7月25日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、新潟県加茂郡梅津村長、同県佐渡郡加茂村長。 佐渡国加茂郡梅津村(新潟県加茂郡梅津村、佐渡郡梅津村、加茂村、両津市梅津を経て現佐渡市梅津)で生まれた。圓山溟北に学んだ。農業を営む。佐渡三郡勧業殖産下掛を務めた。 1872年(明治5年)加茂歌代郷校読方補助に就任。以後、梅津戸長、地租改正下調役、第二十六区副大区長兼小六区長、佐渡三郡町村連合会議員、同議長、所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年(明治22年)梅津村長に就任。1900年(明治33年)新潟県会議員に選出され、海底電線の敷設、中等学校の拡充などに尽力した。
磯部 八五郎(いそべ はちごろう、1841年(天保12年2月… 磯部 八五郎(いそべ はちごろう、1841年(天保12年2月) - 1911年(明治44年)10月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 佐渡国雑太郡、のちの新潟県雑太郡国中村(佐渡郡国中村などを経て現佐渡市)出身。郷学校を設立し、教導職試補、訓導、雑太郡書記、皆川、国中各村会議員、新潟県会議員、佐渡郡参事会員、同郡徴兵参事員、佐渡養蚕伝習所長となる。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙において新潟9区から憲政本党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)… 松本 八十八(まつもと やそはち、1838年(天保9年4月)- 1915年(大正4年)2月21日)は、幕末の村役人、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県佐渡郡恋ヶ浦村長。 佐渡国雑太郡真野村背合(新潟県雑太郡真野村、佐渡郡真野村、真野町を経て現佐渡市背合)で、松本与三兵衛の息子として生まれた。圓山溟北に漢学を、堀口松庵に書法を学んだ。 相川奉行所教導職事務掛、浦役人を務めた。明治維新後、滝脇背合村戸長、大小外6ケ村戸長、小学区学務委員、恋ヶ浦村長などを務めた。1893年(明治26年)新潟県会議員に選出された。また、真野村会議員にも在任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、立憲改進党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)… 後藤 五郎治(ごとう ごろうじ、1827年(文政10年1月)- 1897年(明治30年)10月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。名・畯、字・士喜、号・稼亭。五郎次の表記有り。 佐渡国加茂郡、のちの新潟県加茂郡新穂村(佐渡郡新穂村舟下を経て現佐渡市)で生まれた。北君養、圓山溟北に師事し漢学を修めた。 戸長、学区取締兼衛生取締、村長、新潟県会議員、佐渡中学校(現新潟県立佐渡高等学校)監事などを務めた。教育振興、相川鉱山開発などに尽力した。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(新潟県第9区、大手倶楽部)で当選し、その後、進歩党に所属して、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1897年10月に死去した。
斎藤 長三(さいとう ちょうぞう)は戦前新潟県の政治家。佐渡… 斎藤 長三(さいとう ちょうぞう)は戦前新潟県の政治家。佐渡郡両津町長、新潟県会議員、二宮村長。号は無散香史。自宅で斎藤活版印刷所を経営しながら、長年自由党・立憲政友会傘下で活動した。 慶応2年(1866年)1月26日佐渡国雑太郡石田村に生まれた。幼名は長蔵、後に長三。明治5年(1872年)寺子屋で石塚甚吾・東平兄弟に学び、1874年(明治7年)3月常念寺に開設された河原田郷学校に入学した。 1879年(明治12年)12月河原田小学校下等全科を修業し、1880年(明治13年)3月15日富田新右衛門方に奉公に出たが、先輩番頭と対立し、8月10日無断で帰宅した。9月石田村戸長近藤吉左衛門により役場筆生に採用されるも、すぐに退職し、同月東平等による私立幹和夜学校に入学した。
斎藤 伝十郎(さいとう でんじゅうろう)は明治時代の新潟県の… 斎藤 伝十郎(さいとう でんじゅうろう)は明治時代の新潟県の政治家。佐渡雑太郡で戸長・村会議員等を務め、斎藤活版印刷所を創業した。俳号は一貫。 天保13年(1842年)3月21日佐渡国雑太郡石田鍛治町斎藤伝七家に生まれた。幼名は鶴松。銅鍛冶を営み、一国鍛冶頭取中村清助遺児を後見した。 明治5年(1872年)7月石塚甚造と吾潟村本間令桑を中原神社に招いて勧進能を開催した。同年8月相川病院長長谷川元良と牛酪製造を計画、また金北山下の薬草を採集し、高岡病院加賀国手・津田淳三・太田美農里、大阪薬舗小西茂平等に売り込んだが、製品化に失敗した。 1875年(明治8年)上の字鞍立を宅地開発した。 1876年(明治9年)6月27日新潟県第27大区小6区2番組(石田村・中原村)戸長を命じられ、等外四等となった。