稲垣 裕介(いながき ゆうすけ、1981年5月12日 - )… 稲垣 裕介(いながき ゆうすけ、1981年5月12日 - )は、日本の実業家、技術者。株式会社ユーザベース創業者・代表取締役Co-CEO、株式会社ニューズピックス代表取締役Co-CEO。 愛知県岡崎市出身。愛知県立岡崎北高等学校を経て、のちに共同創業者となった同級生梅田優祐の勧めで関東地方へ進路変更し、2004年埼玉大学工学部電気電子システム工学科卒業、アビームコンサルティング入社。2008年ユーザベースを設立し、同社取締役CTO(最高技術責任者)に就任。2012年ユーザベース取締役COO(最高執行責任者)。2017年ユーザベース代表取締役CEO(最高経営責任者)兼社長兼ニューズピックス代表取締役。
梅田 優祐(うめだ ゆうすけ、1981年〈昭和56年〉4月2… 梅田 優祐(うめだ ゆうすけ、1981年〈昭和56年〉4月26日 - )は、日本の実業家。株式会社ユーザベース創業者で、同社代表取締役CEO、株式会社ニューズピックス代表取締役会長CEOを歴任。愛知県岡崎市出身。アメリカ合衆国コネチカット州在住。 アメリカ合衆国ミシガン州ノースビル(英語版)にて生まれる。1歳のときに日本に帰国し、5歳のときに再びデトロイトへ渡る。小学3年生のときに帰国し、その後は日本で生活をする。 横浜国立大学経営学部卒業後、2004年コーポレイトディレクション入社。2007年UBS証券に転職を経て、2008年新野良介、稲垣裕介と共にユーザベースを設立。 その後、企業産業分析情報サービスの「SPEEDA」を発案し、2009年に提供を開始。
長坂 信人(ながさか のぶひと、1957年 - )は、日本の… 長坂 信人(ながさか のぶひと、1957年 - )は、日本のテレビ・映画プロデューサー、実業家。株式会社オフィスクレッシェンド代表取締役。 1957年、愛知県岡崎市能見町出身。同市の地元紙によれば、祖父の長坂信治は「松平氏三代に仕えた戦国武将、長坂信政18代の孫」とされる。信治は「長坂歯科医院」を営むかたわら、日本社会党の愛知県議会議員を3期(1951年4月 - 1963年4月)務めた。父の長坂信は東京医科大学在学時に大学民主化運動地区議長を務め、片山哲首相の秘書官を経たのち、実家の歯科医院を再興し長坂記念病院とした。院長のかたわら民社党の県議を3期(1971年4月 - 1983年4月)務めた。
小林 宏史(こばやし ひろし、1955年3月1日 - )は、… 小林 宏史(こばやし ひろし、1955年3月1日 - )は、日本の技術者、実業家。旭化成建材株式会社代表取締役社長等を経て、公益財団法人野口研究所理事長。日本建築仕上学会学会賞受賞 愛知県岡崎市出身。1973年愛知県立岡崎高等学校卒業。1979年名古屋大学大学院工学研究科修了、旭化成工業(現旭化成)入社。2003年旭化成建材企画管理部長。2004年旭化成建材取締役兼常務執行役員。 2007年から旭化成建材代表取締役社長を務め、2015年に発覚したパークシティLaLa横浜などでの杭打ちデータ偽装問題については、元福岡高等検察庁検事長の鈴木和宏弁護士が外部調査委員長として検証等を行った社内調査委員会の調査で、代表取締役社長在任中社内で報告を受けていたが指示を行っていなかったとされた。
中嶋 悟(なかじま さとる、1953年2月23日 - )は、… 中嶋 悟(なかじま さとる、1953年2月23日 - )は、愛知県岡崎市出身の元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。身長165cm、体重60kg。血液型B型。 日本人初のF1フルタイムドライバーで、株式会社日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長も歴任した。 愛知県岡崎市に、4人兄姉の末っ子として生まれる。生家は約300年続く農家。父親は航空母艦「雲鷹」で艦載機の整備兵をしていた軍人で、兄たちが戦死した後に農業を継いだ。 岡崎市立梅園小学校、岡崎市立葵中学校を経て、名城大学附属高等学校に進学。 高校在学中にレーシングカートを始め、数戦のレースに参加し優勝も経験。高校在学中に自動車運転免許を取得し、アルバイト先だったガソリンスタンドに就職。
山川 利治 (やまかわ としはる、1952年<昭和27年> … 山川 利治 (やまかわ としはる、1952年<昭和27年> - ) は、日本の地方公務員、鉄道実業家。愛知県企業庁長、愛知環状鉄道社長を歴任。瑞宝小綬章受章。 岡崎市生まれ。愛知県立岡崎高等学校卒業。1974年 中央大学法学部卒業。同年愛知県庁入庁、1985年から1987年は民主部で高齢化対策を担当。1993年 (平成5年) 企画部企画課長補佐で西三河地区の地方計画を担当。2004年6月 鳥取県米子市で行われたアジア太平洋環境会議に県環境部次長としてオブザーバー参加。県東三河事務所所長、愛知県企業庁長。豊田浄水場、幸田浄水場、安城浄水場、豊橋浄水場及び豊川浄水場の施設整備・運営について民間資金等の活用による方式 (PFI) を用いた。
左右田 稔(そうだ みのる、1947年10月24日 - 20… 左右田 稔(そうだ みのる、1947年10月24日 - 2025年7月24日)は、日本の実業家。東建コーポレーション株式会社創業者・代表取締役会長。号は鑑穂(かんすい)。 愛知県岡崎市生まれ。先祖は明治維新後に岡崎で旅館を経営していた。豊田市及び刈谷市育ち。刈谷市立刈谷南中学校、天理高等学校を経て、東海大学政治経済学部政治学科に入学し、猪熊功の下で柔道選手として活躍したが、ケガにより柔道の継続を断念、実業家を志して1968年に大学を中退する。 1970年に地元の刈谷市で鉄骨溶接業の左右田企工を創業する。1974年に東名商事を創業し、1979年に株式会社東名商事(現東建コーポレーション株式会社)代表取締役社長となる。
内山田 竹志(うちやまだ たけし、1946年〈昭和21年〉8… 内山田 竹志(うちやまだ たけし、1946年〈昭和21年〉8月17日 - )は、日本の技術者・実業家。トヨタ自動車相談役、元トヨタコンポン研究所代表取締役、元トヨタ自動車Executive Fellow、同社元代表取締役会長。 その他にも豊田鞍ヶ池開発代表取締役社長、一般社団法人日本自動車会議所会長、公益財団法人科学技術交流財団会長、社団法人日・タイ経済協力協会会長、一般社団法人産業競争力懇談会理事長、社団法人日本自動車教育振興財団理事長などを歴任した。愛知県岡崎市出身。栄典は藍綬褒章。 愛知県岡崎市出身。父の亀男もトヨタマンで、3代目クラウンの開発責任者(チーフエンジニア)を務めた。愛知県立旭丘高等学校を経て、1969年(昭和44年)3月に名古屋大学工学部応用物理学科を卒業し、同年4月にトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に入社。
鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日… 鈴木 正雄(すずき まさお、1918年(大正7年)8月29日 - 2007年(平成19年)12月10日)は、日本の実業家。松坂屋社長・会長。愛知県岡崎市出身。 1936年、岡崎市立商業学校(現・愛知県立岡崎商業高等学校)卒業後、松坂屋に入社。 1972年、取締役名古屋店長に就任し、伊藤鈴三郎社長の片腕として頭角を現し、常務、専務を経て、1978年副社長となる。 1980年、会長の16代目・伊藤次郎左衛門(伊藤祐茲)は、任期半ばの弟・鈴三郎に辞任を迫り、長男・伊藤洋太郎を社長の座に据える。鈴三郎は一族の序列をわきまえて沈黙を守ったが、彼の腹心たちはこの不条理な行為を許さなかった。 1984年12月、16代目が死去し、会長が空席になると、1985年1月に鈴木は会長に就任した。
浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 19… 浅岡 齋(あさおか ひとし、1906年10月17日 - 1983年3月22日)は、日本の官吏、政治家、実業家。岡崎市役所職員として戦災復興と都市計画事業に大きく貢献。また、岡崎市助役として3期12年にわたって竹内京治・太田光二市政を支えた。愛知県議会議員を1期務めた。 愛知県額田郡広幡町大字伊賀(現・岡崎市伊賀町)に生まれる。両親は岡崎町大字松本(現・岡崎市松本町)で置屋「浅岡」を営んでいた。上京し東京実業学校に学んだが2年で中退。19歳の時に豊橋市の騎兵連隊に入隊。1929年(昭和4年)、母親を心臓病で亡くす。意気阻喪した浅岡は除隊し、樺太の造林会社に活路を見出した。森林から伐採した木材を積んだイカダに一旦乗った以上、イカダをつなぐ一本の綱が切れたら一巻の終わりという過酷な仕事に「どこをどうしても貫き通すつもりで」打ち込んだものの、会社の事業不振から2年足らずで内地に引き揚げることとなる。
千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 -… 千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 - 1962年2月21日)は、日本の実業家、政治家。近代岡崎の商工業者の第一人者として知られる。岡崎商工会議所の会頭を3期(通算約12年)、衆議院議員を1期務めた。長女の夫は一宮市の実業家・四代目豊島半七。 愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)の呉服商の老舗大島屋に生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業後、名古屋市の簿記学校に進む。1903年(明治36年)、父の死去により年若くして家業を継いだ。 家業の呉服商に木綿部を増設して千賀合名会社を設立し、三河木綿の生産に着手した。当時特産品として知られた三河木綿は零細な家内工業によるものであったため、生産量はごくわずかであった。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
畔柳 昇(くろやなぎ のぼる)は、日本の実業家。中部電力取締… 畔柳 昇(くろやなぎ のぼる)は、日本の実業家。中部電力取締役副社長を経て、初代名古屋証券取引所代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 愛知県岡崎市出身。横浜市立大学商学部卒業後、1958年中部電力入社。中部電力燃料部長、中部電力支配人広報室長などを経て、1989年中部電力取締役。1993年電気事業連合会専務理事、原子力委員会専門委員。1997年中部電力取締役副社長。2001年中電ビル代表取締役社長。2002年から初代名古屋証券取引所代表取締役社長を務め、経営改革を進めた。2003年名古屋中小企業投資育成監査役。2013年春の叙勲で旭日中綬章受章。2015年名古屋証券取引所代表取締役会長。