角谷 萌々果(かどや ももか、1995年6月5日 - )は、… 角谷 萌々果(かどや ももか、1995年6月5日 - )は、日本の元女子レスリング選手。三重県鳥羽市出身。階級は53g級と55kg級。身長161cm。 鳥羽ジュニアレスリングクラブでレスリングを始めた。全国少年少女レスリング選手権大会では小学校3年の時から4連覇を達成した。鳥羽市立鳥羽東中学校3年の時に全国中学生選手権の52kg級で3位となった。至学館高校へ進むと、1年と2年の時にジュニアクイーンズカップカデットの部で3位となった。至学館大学へ進学すると、2年の時にはジュニアクイーンズカップジュニアの部とJOC杯ジュニアの部の51kg級で優勝するも、世界ジュニアでは5位だった。3年の時には全日本選抜選手権と全日本選手権の55kg級で2位になると、全日本学生選手権では優勝した。
山田 優(やまだ まさる、1994年6月14日 - )は、日… 山田 優(やまだ まさる、1994年6月14日 - )は、日本の男子フェンシング選手。種目はエペ。 2021年開催東京五輪男子エペ団体金メダリスト。2024年パリ五輪男子エペ団体銀メダリスト。2025年フェンシング世界選手権男子エペ団体金メダリスト・個人銅メダリスト。アジア大会の男子エペ団体で2大会(2018年ジャカルタ・2022年杭州)連続金メダル。 三重県鳥羽市出身。日本大学卒業。Team SSP所属。元幹部自衛官(2等陸尉、自衛隊体育学校所属)。 小学2年からフェンシングを始め、中学でフルーレからエペに種目を転向した。三重県立鳥羽高等学校を経て日本大学文理学部体育学科に入学した。日本大学在学中の2014年に世界ジュニア選手権で日本人初優勝した。
おおた はるか(1993年5月4日 - )は、三重県鳥羽市出… おおた はるか(1993年5月4日 - )は、三重県鳥羽市出身の洋画家・水彩画家。 ポートレイトを中心とした水彩画や油絵を描いている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
朝比 パメラ(あさひ パメラ、1991年10月20日 - )… 朝比 パメラ(あさひ パメラ、1991年10月20日 - )は、日本のモデル。かつては眞木美咲パメラ(まき みさきパメラ、Pamela Misaki Maki)という芸名でエイジアプロモーションに所属していた。現在はBRUTUSに所属している。 ニューヨーク生まれで、三重県鳥羽市育ち。父はカナダ人で、母は日本人のハーフ。国籍は日本を選択。 14歳の時に原宿でスカウトされモデルを始める。 中村中学校・高等学校、日本美容専門学校を卒業しており、美容師の免許をもっている。 2016年5月から日本テレビ系列情報バラエティ番組『PON!』の水曜日担当のお天気お姉さんになる。 日本美容専門学校時代は、TONY&GUY全国大会に出場。
はっとり みつる(本名:服部 充、1977年10月8日 - … はっとり みつる(本名:服部 充、1977年10月8日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。三重県鳥羽市出身。男性。代々木アニメーション学院卒業。愛称ははみで、これは自身の公式ホームページの名前にもなっている。[要出典]代表作は『ケンコー全裸系水泳部 ウミショー』『さんかれあ』。 2000年、『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)で『イヌっネコっジャンプ!』の連載を開始し漫画家デビューを果たす。以降、青年漫画や少年漫画を中心に活動している。
都丸 悠(とまる ゆう、1977年9月15日 - )は、日本… 都丸 悠(とまる ゆう、1977年9月15日 - )は、日本のシンガーソングライター。 出身地 三重県鳥羽市、身長 175cm、趣味 スポーツ全般 三重県鳥羽市の小さな漁村で生まれる。父は新聞記者、母は漁師の娘。 3歳頃から戦争担当の記者であった父と共に引越しを繰り返し、小中学時代をイラン・イタリア、高校時代をイギリスで過ごす。海外生活の中で戦争や文化の違いを体験。大学時代は北海道の網走で漁師をしながら過ごす。 22歳の時に、戦争体験や差別、飢え、貧富の差、そして日本で暮らしてから感じた人のあたたかみや哀しみを自分が生まれた国で唄にしようと決意し、アーティスト活動をスタート。デビューから自身の書き下ろしアルバム10万枚以上をセールス[要出典]。
齋藤 昇(さいとう のぼる、1966年〈昭和41年〉9月10… 齋藤 昇(さいとう のぼる、1966年〈昭和41年〉9月10日 - )は日本の経営者。 TDK代表取締役社長執行役員CEO。 三重県鳥羽市出身。三重県立宇治山田高等学校を経て、1989年(平成元年)3月に同志社大学法学部を卒業、4月にTDKに入社。 主に海外での営業畑を歩み、ドイツやアメリカ合衆国に駐在するなど、職歴の半分以上を海外で過ごした。2006年TDK Electronics Europe GmbH President。2007年TDK電子部品営業グループ欧州営業統括部長。2009年TDK-EPC電子部品営業グループ欧州営業統括部副統括部長。 2011年TDK執行役員兼TDK-EPC電子部品営業グループデピュティゼネラルマネージャー。
志州山 真国(ししゅうやま まさくに、1959年6月22日 … 志州山 真国(ししゅうやま まさくに、1959年6月22日 - )は、三重県鳥羽市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は木下 昌彦。最高位は東幕下筆頭。194cm、114kg。 鳥羽市立菅島中学校(現在の鳥羽市立鳥羽東中学校)時代はバレーボール部に所属、中学時代、身長は190cm、足のサイズは30cmもあり、靴は特注品でないと買えなかった。中学3年生の時に市の大会で学校は準優勝。バレーボールだけでなく他のスポーツからの勧誘もあった。三重ノ海を相撲界に入れた人から誘いがあり、出羽海が直々に自宅に来て「高校に入る」ことを条件に出羽海部屋への入門が決まった。高校は両国高校の定時制に通った(卒業か中退かは不明)。
小池 淳一(こいけ じゅんいち、1959年 - )は日本の材… 小池 淳一(こいけ じゅんいち、1959年 - )は日本の材料工学者。三重県鳥羽市出身。 東北大学名誉教授、東北大学未来科学技術共同研究センター特任教授(インターコネクト・アドバンスト・テクノロジー(ICAT)共同研究プロジェクト)、株式会社マテリアル・コンセプト共同創業者・CTO。 1983年に東京工業大学工学部金属工学科卒業、1985年に東京工業大学大学院理工学研究科金属工学専攻修士課程修了。同年に米国 Northwestern University, Dept. of Materials Science and Engineeringに入学し、飯井正博教授に師事。また、Argonne National Laboratoryの常勤Research StudentとしてPaul Okamoto博士、Lynn Rehn博士に師事し1989年に Ph. D.。
石原 恒和(いしはら つねかず、1957年11月27日 - … 石原 恒和(いしはら つねかず、1957年11月27日 - )は、ゲームプロデューサー、ゲームクリエイター。 株式会社ポケモン代表取締役社長・CEO。株式会社クリーチャーズ ファウンダー。一般財団法人ポケモン・ウィズ・ユー財団 代表理事 理事長。『ポケットモンスター』関連のビジネスを手掛けている。 三重県鳥羽市小浜町出身。三重県立伊勢高等学校を経て、1980年、筑波大学芸術専門学群総合造形(Plastic Art and Mixed Media)卒業、1983年、筑波大学大学院芸術研究科修了。在学中は最新CGによる映像表現の仕組みを学び、その後、ビデオ・アートやコンピュータアートに関わるようになる。
西村 泰彦(にしむら やすひこ、1955年6月29日- )は… 西村 泰彦(にしむら やすひこ、1955年6月29日- )は、日本の警察官僚。宮内庁御用掛。第10代宮内庁長官、第19代内閣危機管理監、第90代警視総監などを務めた。 三重県鳥羽市出身。鳥羽市立鳥羽小学校、鳥羽市立鳥羽中学校、三重県立伊勢高等学校を経て、東京大学法学部を卒業後、1979年 (昭和54年)、警察庁に入庁。「世のため、人のためになるような仕事がしたい」、「悪をくじき、弱きを助ける生き方がしたい」と考え、警察庁に入庁したという。 入庁後、長崎県警察本部刑事部捜査第二課長、警視庁公安部管理官、在フィリピン日本国大使館二等書記官・一等書記官、警視庁総務部広報課長、警視庁警備部警備第一課長、警察庁長官官房人事課企画官、警視庁警務部参事官兼人事第一課長事務取扱などを歴任。
鳥羽 一郎(とば いちろう、1952年〈昭和27年〉4月25… 鳥羽 一郎(とば いちろう、1952年〈昭和27年〉4月25日 - )は、日本の演歌歌手。鳥羽音楽事務所所属。作曲家・船村徹門下出身。門下生で作る「船村徹同門会」では会長を務める。弟は同じく演歌歌手の山川豊。 三重県鳥羽市石鏡町出身。父は漁師、母は海女という漁業一家に生まれた。山川のほかにも妹が2人(長妹は山川の姉)いる。鳥羽は5年間、遠洋漁船の船員としてパナマやインド洋でのマグロやカツオの捕獲に従事。海が荒れれば命さえ落としかねない環境での慰めは「別れの一本杉」「なみだ船」といった船村徹の作品だった。 一度は板前を志し、調理師免許も取得していた。しかし、もともと抱いていた歌手への想いを断ち切れず27歳で上京。
寺田 順三郎(てらだ じゅんざぶろう、1952年2月13日 … 寺田 順三郎(てらだ じゅんざぶろう、1952年2月13日 - )は、日本の実業家。株式会社戸田家代表取締役社長(8代目)、一般社団法人鳥羽市観光協会会長(20代目)、鳥羽旅館事業協同組合理事長、タビックスジャパン協定旅館ホテル連盟会長。 1952年2月13日生まれ。三重県鳥羽市出身。立教大学経済学部経営学科(現・経営学部)卒業。 1982年、家業である創業1830年(天保元年)の老舗旅館「戸田家」に入社。2006年、八代目当主として、株式会社戸田家代表取締役社長に就任。 戸田家は、鳥羽駅前に立地し、風光明媚な景色と露天風呂を含め計13もある温泉に、伊勢志摩の味が堪能できる旅館として知られる。伊藤博文を始め、皇室や各界の著名人も宿泊し、1953年(昭和28年)から将棋の王将戦など、その後も幾度もタイトル戦の会場となり、「将棋と囲碁の宿」と言われる。
岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月1… 岩田準一(いわた じゅんいち、1900年〔明治33年〕3月19日 - 1945年〔昭和20年〕2月14日)は、日本の画家・風俗研究家。旧姓は宮瀬(みやせ)。 三重県志摩郡鳥羽町(現・鳥羽市)にて宮瀬家の次男として生まれる。三重県立第四中学校卒業後、親の意志により神宮皇學館へ進むも肌に合わずに中退し、中学時代から親交のあった竹久夢二が教鞭を執る東京の文化学院絵画科へ転校し、夢二に師事。夢二の代作を務め、また夢二本人から「日本一の夢二通」と称される。『明星』を通して与謝野鉄幹・晶子夫妻とも交流があり、夫妻が監修した『日本古典全集』の編纂に参加した。1920年(大正9年)12月に両親が離婚し、母方の姓である岩田を名乗るようになる。
須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 198… 須藤 五郎(すどう ごろう、1897年9月14日 - 1988年11月18日)は、日本の音楽家、政治家。元日本共産党参議院議員(4期)。筆名は鳥羽英夫。 三重県鳥羽市出身。旧制東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)を卒業後、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)で教鞭を執るかたわら、1922年からは宝塚歌劇団の作曲家、指揮者に就任。1928年に発生した三・一五事件で日本共産党中央委員会が壊滅する中、地下活動を続ける党に対し資金援助を行ったため、1930年2月に検挙され投獄される。留置場で作曲した「しぐれに寄する抒情」は後に三浦環により愛誦された。1935年にドイツに渡りゲオルク・シューマンに師事。
中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> … 中村 幸吉(なかむら こうきち、1894年 <明治27年> - 1968年 <昭和43年> 2月19日)は、日本の政治家。三重県会議員を2期務めた後、初代鳥羽市長に就任し、鳥羽市の発展の基礎を築いた。位階は従五位。 慶應義塾大学教授で政治学者の中村菊男の父である。 1894年(明治27年)、三重県志摩郡答志村大字答志(答志島、現・鳥羽市答志町)に生まれる。父・与助は初代の答志村長や三重県会議員(2期)を務めた政治家であった。 鳥羽町会議員に当選したのを皮切りに政界入りし、1939年(昭和14年)11月に三重県会議員選挙の志摩郡選挙区で石原円吉とともに当選した。1943年(昭和18年)11月の改選は任期延長のため実施されず、1947年(昭和22年)4月の選挙まで県会議員を務めた。
御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政… 御木本 幸吉(みきもと こうきち、1858年3月10日(安政5年1月25日) - 1954年(昭和29年)9月21日) は、日本の実業家。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。ミキモト・パール、真珠王とも呼ばれた。 志摩国答志郡鳥羽城下の大里町(現在の三重県鳥羽市鳥羽一丁目)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。
栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2… 栗原 亮一(くりはら りよういち、1855年5月6日(安政2年3月20日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の日本の政治家、ジャーナリスト。衆議院議員。旧姓は中村。 志摩国鳥羽藩士中村武市の三男として生まれ、同藩士・栗原亮休の養子となる。藩校で漢学を修める。明治の初めに上京し同人社で学んだ。 1876年、自主社を創立し『草莽雑誌』『莽草雑誌』を刊行して政府批判を行う。自由民権運動に加わり自由党の結党に参加。『自由新聞』の主筆を務め、1882年、板垣退助の渡欧に随行した。『東雲新聞』の主筆となり、大同団結運動に加わった。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙において三重県第一区から出馬し当選。