赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月1… 赤阪 音七(あかさか おとしち、1881年~1953年8月17日)は船舶用エンジンの開発者。兵庫県淡路島洲本町(現洲本市)出身。享年72. 舶用動力機関の始動原理の発見。漁船の動力化に努める。また、船舶用ディーゼル機関の改良、普及にも努める。 【参考資料】 『赤阪翁追悼録』(発行・編纂:株式会社 赤阪鐵工所) 「決して、船主や乗組員に迷惑をかけるような機械をつくってはならない。」 それが彼の口癖だったという。豪快な人柄と確かな技術で、焼津の漁師の心をつかんだ。
谷内 清巌(たにうち せいがん、1868年11月19日(明治… 谷内 清巌(たにうち せいがん、1868年11月19日(明治元年10月6日) - 1953年(昭和28年)9月6日)は、日本の真言宗の僧、仏教学者。京都・高雄の神護寺の貫主を務めた。京都大学教授。 兵庫県淡路島生まれ。嵯峨大覚寺の宗務総長を務めた後、神護寺の貫主となる。 書道を能くし、号は白雪道人。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(… 10代奥野 小四郎(おくの こしろう、1857年9月10日(安政4年7月22日) - 1915年(大正4年)12月31日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県津名郡洲本町長、北海道河西郡帯広町長。旧姓・富永、初名・守次郎。 淡路国津名郡(後の鮎原村、現洲本市)で富永包方の二男として生まれる。徳島藩校で漢学、撃剣を修め、その後英語を学んだ。1877年、洲本町の商人・9代奥野小四郎の死去に伴い、その養嗣子となり10代小四郎を襲名。 1881年、淡路汽船 (株) を起こし翌年社長に就任。淡路紡績 (株) 社長、淡路製陶 (株) 社長などを務めた。その他、洲本町長、洲本町会議員、洲本商工会会長、津名郡会議員、同郡会議長、同郡参事員、徴兵参事員、兵庫県会議員などを歴任。
高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3… 高鍋 篤郎(たかなべ とくろう、1856年4月25日(安政3年3月21日)- 1920年(大正9年)11月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 淡路国津名郡、のちの兵庫県津名郡広石村(五色町を経て現洲本市)で生まれた。漁業に従事する。兵庫県会議員、同常置委員となる。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。大浦事件で1916年に懲役2か月、執行猶予3年、追徴金300円の判決を受けた。これにより大礼記念章を褫奪された。1920年死去。
稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2… 稲田 邦植(いなだ くにたね、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1931年(昭和6年)5月28日)は稲田家16代当主。稲田家は代々徳島藩の筆頭家老であり、かつ淡路国洲本城主(現在の兵庫県洲本市)だった。維新後は男爵。 安政2年(1855年)11月18日、14代当主稲田植乗の長男として生まれた。母は禎寿院。幼名は小八郎。 父が早く亡くなり、15代当主稲田植誠の養子となった。1865年(慶応元年)12月、11歳で家督を継ぎ、九郎兵衛を名乗った。徳島藩は佐幕であったのに対して、尊皇攘夷派であったため早々に新政府軍に帰順した。1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでは日の御門を守衛し、摂津国西宮への出兵や高松藩の征討、有栖川宮熾仁親王の護衛などの任を務めた。
高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5… 高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5月6日) - 1933年(昭和8年)3月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 淡路国津名郡河上村(のち兵庫県津名郡鮎原村→五色町、現・洲本市)の大地主の家に生まれる。徳島藩立郷学校に入り、漢籍を学び、その後、上京し、英語と漢学を修める。小学校教員、学校世話掛、河上村戸長、学区取締、鮎原村長、同村会議員、津名郡連合会議員、同郡会議員、兵庫県会議員、同常置委員、徴兵参事員となる。また、北浜銀行取締役となり、ほか、由良町長、津名郡農会長、同教育会長、愛国銀行取締役頭取を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫10区から自由党公認で立候補して初当選。
星合 常恕(ほしあい つねのり、1842年(天保13年) -… 星合 常恕(ほしあい つねのり、1842年(天保13年) - 1875年(明治8年)8月2日)は、徳島藩権大参事。現在の淡路島洲本市出身。 1868年(明治元年)に洲本目付役、1869年(明治2年)に徳島藩権少参事、同年に権大参事に遷任。徳島藩東京出張所の外交係を務める。1870年(明治3年)に起こった庚午事変により謹慎50日となる。しかしその際の事件処理が高く評価され、1871年(明治4年)大蔵省に出仕。海外視察団に参加して欧米を洋行。帰国後は高知県に赴任。岩崎弥太郎と交流を持ち、近藤廉平を岩崎に紹介して三菱商会に入社させた。 1872年(明治5年)、権大参事を辞する。殖産事業(鉱山業)を興す計画を進めたが、1875年(明治8年)8月2日に急逝。
三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月… 三田 昇馬(みた こうま、1836年4月30日(天保7年3月15日)- 1901年(明治34年)5月20日)は、幕末から明治期の徳島藩家老稲田家重臣、裁判官、政治家。貴族院勅選議員。初名・直方、号・高陽間人。 淡路国津名郡洲本城下洲本紺屋町(現兵庫県洲本市)で、稲田家家臣・三田省輔の三男として生まれる。稲田家学問所・益習館で学んだ。内藤弥兵衛、立木兼善らと天誅組運動に加わり徳島藩から禁固処分を受けたが、朝廷の命により釈放された。明治元年2月(1868年)軍監役、糺問局頭取として有栖川宮 東征大総督の護衛として東征に従軍した。 明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還で稲田家旧家臣が士族に編入されなかったため、七条弥三右衛門、内藤弥兵衛らと徳島藩からの分藩運動を起こした。
高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日〈1769… 高田屋 嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日〈1769年2月7日〉- 文政10年4月5日〈1827年4月30日〉)は、江戸時代後期の廻船業者・海商。幼名は菊弥。淡路島出身。兵庫津に出て船乗りになり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出した。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。 淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男として生まれた。寛政2年(1790年)、嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた。
吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(135… 吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(1352年) - 永享3年8月20日(1431年9月26日))は、室町時代前・中期の臨済宗の画僧。 淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋2丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。
小西 顕(こにし あきら、生没年未詳)は、江戸時代後期の阿波… 小西 顕(こにし あきら、生没年未詳)は、江戸時代後期の阿波徳島藩士。顕民の表記もある。号は錦江。 父の友直の跡を継ぎ、淡路の地誌『味地草』を増補し、同安政四年版を完成させる。『味地草』は井上通泰の『上代歴史地理考』によれば「記述頗精シ。但議論識見ハ常磐草ニ及バズ」とされ、淡路の地誌については「當國地誌ノ白眉ナリ」とされる『淡路常磐草』に次ぐ評価を受けている。また、『淡路常盤草』『淡路草』『堅盤草』とともに、「淡路四草」と呼ばれている。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
白川 芝山(しらかわ しざん、宝暦9年(1759年) - 嘉… 白川 芝山(しらかわ しざん、宝暦9年(1759年) - 嘉永3年1月25日(1850年3月8日)は、日本の江戸時代後期の南画家、書家。名を景皓、通称は芳介。号は芝山、大観堂や東山外史。 淡路国洲本金屋の賀集家に生まれる。賀集家は代々醸造業を営み、裕福だったという。芝山は最初書を学び、草書に優れる唐の張旭を手本とした。絵の師匠は不明だが、現存作品を見ると南画風、長崎派風、或いは四条派風などを使い分けている。また俳句にも堪能で、玉蕉庵と号して俳画も残している。地元の淡路では、長崎派風の虎の絵で知られている。 天明2年(1782年)24歳で上京、白川宮主催の席画会で賞賛を受け、白川姓を許されたと言われる。
広井 武郷は、日本の発明家。 兵庫県洲本町出身。大阪に来た後… 広井 武郷は、日本の発明家。 兵庫県洲本町出身。大阪に来た後、様々な職に就き、1915年(大正4年)に輸出ガラス光珠、ガラス腕輪の製造業を始めた。 逓信省の免許を得た救命器類をさかんに製造した。